2022年12月4日 待降節第2主日礼拝
聖 書 マタイによる福音書1章1~17節
説 教 系図の意味
本日はアドヴェント第二の聖日です。アドヴェント・クランツに2本目のろうそくが点火しました。聖書は、マタイによる福音書1章1~17節です。先ほど、司会者に読んでいただきました。イエス様の系図ですね。カタカナばかりで、はじめて新約聖書を読む人は、「これは何だ」と驚かれると思います。「これが聖書なの・・・?」というわけです。
聖書は信仰生活の基本であること。聖書を人生の力、励み、慰めとして読むようにと言われます。しかし、まじめな求道者は、新約聖書のはじめから順を追って読もうとするのですが、この系図でつまずきます。実は、わたしもその一人です。
1.四つの福音書のはじめ
マタイによる福音書は、4福音書のはじめですね。その最初に系図が記されている。ここに意味がある。どんな意味があるのか? 系図自体に意味があるのですね。それはユダヤ人のユダヤ人のアイデンティティ、自己同一化だからです。ちょっと難しい表現ですが・・・
しかし、新約聖書では、このマタイの出だしほど、退屈で意味のない記事はないと思います。そう、初めて福音書を紐解く日本人は呟くでしょう。系図、しかもイスラエル人の、カタカナだらけの名前が羅列される。どこに意味があるのか? 普通ならイライラして、もう読む気を起こさなくなる。わたしも初めて新約聖書を手に取って読み始めた時はそうでした。
福音書は、4つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。どうして4つもあるのか。それぞれがイエス様の言行録、語られた言葉、行われた奇跡、いやしの数々、言行録です。読まれる対象が違うのです。これについては、長々とお話しすることはできません。機会があればいたしましょう。マタイは、ユダヤ人向けということです。そのために系図が必要だったのですね。
イエスとは何者か? どこの馬の骨か分からない。そういうお方ではないというのです。1節から
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムからはじめてダビデ王、ダビデの子という救い主が待ち望まれていたのです。
預言書の成就。聖書の成就としてのイエス様。これがマタイによる福音書のテーマなのですね。
2.罪の系図
だが、聖書に親しんだ人なら系図の一人一人の名前は意味を持っています。アブラハムは信仰の父と言われる人物です。(リンカーンの名前もそうです!) ダビデは、イスラエルの偉大な王であり、キリスト(救世主)はこのダビデの家系から現れると信じられてきました。この男系の系図に、5人の女性の名が敢えて記されています。5人とも曰くつきの女性であります。と言っても、初めて聖書を読む人には誰が女性で、誰が男性の名前か理解できないと思います。「罪の系図」からイエス・キリストはお生まれになったと言ってもよいでしょう。
現代で曰くつきの女性などと言えば、差別用語として非難されかねませんが、2000年前の社会状況のことゆえ、お許し願いたいと思います。
女性の名前は以下の通りです。3節「タマル」、5節「ラハブ」「ルツ」、6節「ウリヤの妻」、名前が記されていませんが、旧約聖書サムエル記下11章以下を読むと「バト・シェバ」となっています。そして、5人目が16節の「マリア」です。
少しく説明しますと、「タマル」は創世記38章に記されています。マタイ1章3節にはこう記されています。「ユダはタマルによってペレツとゼラを」と。ユダは、ヤコブの12人いた息子の4番目です。このユダはユダヤ人という名前の由来です。ユダの系統からイスラエルの正統の王たちが現れます。ダビデ王からユダ王朝の王の名前です。その始祖とも言うべき、ユダ。タマルはそのユダにとって嫁に当たる女性です。長男の嫁です。詳しく話すと長くなりますので、割愛させていただきますが、詳細は創世記38章以下をお読みいただければ思います。その嫁と性的関係を結んでしまうのです。
嫁と舅という関係で子どもが生まれます。今風に言えば、不倫の子ですね。それがペレツとゼラという双生児です。ここで明確にしたいのは、タマルは策略をもって、舅のユダと交わり、子を設けたということです。曰くつきの女性とはそういう意味です。
ラハブはヨシュア記6章に出てまいります。聖書はラハブを遊女だと言っています。娼婦です。しかも、ラハブはユダヤ人ではありません。当時の大都市エリコに住んでいた非ユダヤ人です。
ルツはモアブ人です。これはユダヤの民が毛嫌いし、決して付き合うことがなかった民族の女性です。アブラハムの甥、ロトという人物が自分の娘との性的交渉によって生まれた子、その子孫がモアブ人でした(創世記19章ソドム)。近親相姦によって、生まれた民族。そういう民族の女性が、ダビデ王の祖先にいるのです。これは、ルツ記に出てまいります。
ウリヤの妻バト・シェバは文字通り、ウリヤという男性の妻でした。戦争に行って夫ウリヤが留守の時に、ダビデがバト・シェバを見初め、不倫に及んだのです。姦淫の罪は死罪に当たります。子どもが生まれたのを知ると、ダビデはウリヤを戦争の真っ只中に送り、戦死させます。罪に罪を重ねることをする、そのような結果となった事件です。
このバト・シェバによってソロモン王が生まれます。
こうして見ると、この女性たちは曰くつきの、罪の女性といいますか、そのように見なすことができます。しかし、実は男の欲望の犠牲になった女性と言ってもいいかと思います。そういう系図、言わば人間の罪と欲望によって連綿と引き継がれてきた系図、「罪の系図」と言うことができるでしょう。
そして、最後に「マリア」が現れます。カトリックでは「マリア様」「神の母」と言わなければなりませんが、プロテスタントは「マリアさん」と言っても叱られません。罪の女性の系図でマリアは、処女であった。聖霊によってイエス様を孕むのです。これもまた、ある意味では非常にセンセーショナルな出来事です。
ここに列挙されている系図は、「罪の系図」です。それは、罪ある女性のためではなく、ここに列挙されている男性たちもまた、罪ある人たちだからです。そういう罪の系図から
イエス・キリストはお生まれになった。しかし、ここに神の偉大な救済の御手があるのです。
「罪の系図」はイエス様によって「いのちの系図」で変わる。これが福音です。
イエス・キリストにおいて、罪と死は、いのちへと導かれるのです。
3.系図の意味
ここで、系図の持つ意味を考えてみたいと思います。
第一に、系図は神の約束の成就、実現ということです。
系図に記されている人物、一人一人は救いを求めていました。しかし、神の救いを待ち望みつつ、約束されたものを手に入れようと願いましたが、できなかったのです。そして、終わりの日、神はひとり子イエス・キリストをお遣わしになったことで、わたしたちに救いを現実のものとしてくださったのです。神の国という人間が滅ぼすことも破壊することもできない信仰の世界です。
第二は、系図という言葉に意味があります。1節の「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。ギリシャ語聖書を読むと、このように直訳できるのです。<アブラハムの子ダビデの子イエス・キリストの起源の書>。
書はバイブル、本と言う言葉です。起源とは創世記と同じgenesis 起源、起こり、発生、創世、創始です。創造といってもいいでしょう。
イエス・キリストにおいて、新しい創造の時が始まった。そういう宣言ですね。
Ⅱコリント5:17「だから、キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
罪を断ち切り、新しく神にあって生きる。そういういのちです。新しい意味と目的をもった世界が開かれた。
第三は、わたしたちの人生における生きる系図です。ルカ福音書3章23節以下には、イエス様の系図として、イエス様からはじめて溯っています。そして、最後はアダム、神に至るとあります。すなわち、すべての生きるものは神に至るのです。それは、わたしたち日本人であろうと、韓国人、ミャンマー人、インド人、アフリカの人たちであろうと同じです。わたしたちの命の起源は神に至るのです。キリストにつながるとき、わたしたちも
神に至る。そのいのちにあずかる。
そして、キリストにある時、そのいのちは祝福を受ける。新しくされる。
そういう人生のスタートです。
一人一人に神はイエス・キリストにおいて、新しい創造を今、これからなされようとしておられます。希望を持ち、期待して人生を歩みましょう。
祈ります。
主なる神。アドヴェントの第二の主日を感謝します。クリスマスに向けて日々歩いていますが、それぞれの生活のいっときいっときに、あなたが恵みと祝福をもって介入されておられることを感謝します。キリスト・イエスにあって、救いがもたらされ、そこに平和と和解があることを信じます。今、世界のいたるところに見られる、人と人、国と国、民族と民族の憎みあい、殺し合う状況の中、真に平和を造り出す者が起こされるように。
このクリスマスにおいて、世界に真の平和と喜び、祝福をもたらしてください。
主イエス・キリストの名において祈ります。アーメン
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