2022年12月18日 待降節第4主日礼拝

2022.1218.Syuuhou

聖 書 マタイ2章1〜12節説 教 星に導かれて

 本日はアドヴェント第4の主の日です。例年ですと、アドヴェント第3聖日は教会学校生徒との合同礼拝をいたします。礼拝後には、第2部として教会学校の子どもたちと大人の有志でページェントをいたします。

 しかし残念ながら、この3年、新型コロナウイルス感染のパンデミックのために礼拝もおぼつかない状態があり、教会学校も最近まで休校状態でした。そのためページェントは中止となっています。

 しかし、全世界の教会では、何百年も昔からクリスマスのぺージェントが行われています。子どもも大人も参加し、喜び、胸がわくわくする聖書を題材にしたぺージェントですね。イエス様の聖誕劇です。

 教会学校だけでなく、キリスト教主義の幼稚園や保育園では、園児たちによるページェントが園の重要な行事として行われます。そこでは、子どもたちの保護者、両親だけでなくおじいちゃん、おばあちゃんたちが出席して子どもたちの演技を見守ります。子どもたちの成長を喜ぶのです。

 ページェントの内容は、教会員のみなさんはご存じのとおりです。聖書に基づいて行われます。イエス様の母、マリアに天使が現れ、イエス様の誕生を予告するところから始まります。マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ結婚してはいません。そのようなマリアに天使は貴女のお腹のなかに子どもが宿っているというのです。その子は聖霊によって宿られたのです。受胎告知と呼ばれるところです。マリアの驚きは大変なものだったでしょう。

 しかし、この記事はルカによる福音書1章ですね。マタイによる福音書ではマリアに対する天使の予告はありません。マリアではなく、ヨセフに天の使いが夢の中で現れ、イエス様の誕生を予告するのです。

 ページェントは次の舞台として、静かな夜、野宿をしていた羊飼いに天使が現れます。これも、ルカによる福音書2章に固有な記事です。有名な天使の言葉が語られます。

「いと高きところには栄光、神にあれ。

地には平和、御心に適う人にあれ。」

 ページェントの第3の舞台は馬小屋で生まれた赤子のイエス様が飼い葉桶に寝かせられています。その赤子を囲んで、じっと赤子を見守るヨセフとマリア、遠巻きに牛や羊などの動物たち。そこに羊飼いたちが入ってきて、赤子であるイエス様を礼拝します。

 第4の舞台は、東方からきた3人の博士たちが星に導かれてベツレヘムにやってきて、イエス様を礼拝するのです。そこには贈り物があります。黄金、乳香、没薬です。

 こうして、聖誕劇はクライマックスを迎えます。人間と動物たちによって、礼拝される赤子イエス様です。礼拝の中心には、無力な赤子がいます。しかし、その方は世を救う救い主であり、神の子なのです。

本日の聖書はマタイによる福音書の2章ですが、東方から3人の博士たちがやってきます。聖書は、「占星術の学者たち」とあります。原語はマギーです。マジシャンはここからきています。しかし、もともとは星を見つめている人、そこから世界の動向を探り、異変を見分ける人と言ってよいでしょう。天文学者、科学者、賢人と言うことができます。

ここで大切なことは、2節「東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言ったことです。星を見たのは、占星術の博士だけではなかったでしょう。今年の11月8日の夜は皆既月食と天王星食がありました。。皆既月食&惑星食の同時発生は442年ぶりということです。わたしはカメラを構えて、皆既月食と天王星食を撮影しました。

イエス様の誕生の時は、木星、金星、火星がクロスしたため、輝きが増した。そういう説もあります。昔の、電気もない時代です。夜になれば、どこも真っ暗。よく、星が見えたでしょう。わたしのことを言って恐縮ですが、夜空を見ることが大好きです。真っ暗闇の場所はありませんが、どこか田舎のところで、あるいは海辺で夜空を眺めます。天の川を見ることもあります。星を見ていると、アブラハムを想い起します。アブラハムに約束された神の言葉ですね。創世記15章。

そういう中で、この東方の学者だけが、注目してはるばる旅をしてきた。そこに何かの意味があるのです。学者たちは星を見て、訪ね求めざるを得ない衝動を覚えたのです。遠い旅をしてまでも、見極めずにはいられない探究心を持ったのです。多くの人が星を見たけれども、イエス様のところに来たのは、貧しい羊飼いと外国人だけであったのです。

羊飼いは、当時は差別されており、疎外されていました。神は貧しい人たち、疎外され、差別されている人たちに、異邦人にご自身を現わされたのです。

クリスマスです。学者たちが星を求めて、イエス様を訪ね求める。教会に来たこともない人が、クリスマスということで教会の礼拝にいらっしゃることもあります。コロナ禍にありますが、こころから歓迎したいものですね。クリスマスの星は、神の子イエス様へと導く星なのです。

 コロナ禍のために自衛のためですが教会に来ない教会員もおられます。しかし、コロナ禍であっても神を求める未信者の方もおられるのです。

 

 本日は、「星に導かれて」と題しました。

1.クリスマスの星は、発見した者に対して、今の地位・立場・住むところ、安定さ、そういう場所から、危険を伴う旅に旅立たせる決断を促します。そこに世界を救う王が生まれる。確認せずにはいられない、真理への欲求があると言えるでしょう。安定さではなく、生活が脅かされることになっても、真実、生き甲斐、生きる意味を求め、獲得する。そういう情熱を呼び出してきます。

2.クリスマスの星は、導きの光です。目標を持って進む人に対してその歩む道を照らします。3人の学者たちは、星を頼りにイエス様のところに来たのです。星自身が目標ではありません。星は真実、いのちを指し示すのです。そこに辿り着くための、道具です。

聖書のみ言葉は光であり、星、わたしたちが歩む道を照らす光です。そして、私たち自身がまた、イエス様を指し示す光となることもあります。その証しの生涯において。

教会報「いこい」が毎月月末に編集、印刷・発行されます。毎回、教会員の立証が掲載されています。その証しの記事が、イエス様を指し示しているのです。

3.星は消え去る。太陽がのぼれば、夜に輝く星の光は見えなくなります。太陽はイエス様です。星は夜に、イエス様を指し示すことで満足します。しかし、星自身は見えなくなるだけで、なくなるわけではありません。

 わたしたちも星になれます。むしろ、神様はわたしたちが星になるように望まれておられると思います。星はイエス様を指し示すことで満足します。主役ではないのです。

 

<星を動かす少女>という詩をご存知でしょうか? クリスマス・ページェントにおいても、星を動かす役が出てまいります。端役です。誰も注目しない役なのですね。幼稚園や保育園のページェントでは、マリアさん、天使たちが女の子では、一番なりたい役です。憧れの役です。星はちょい役です。

  こういう詩です。

クリスマスのページェントで、

日曜学校の上級生たちは

三人の博士や

牧羊者の群や

マリアなど

それぞれ人の眼につく役を

ふりあてられたが、

一人の少女は

誰も見ていない舞台の背後にかくれて

星を動かす役があたった。

「お母さん、

わたしは今夜星を動かすの。

見ていて頂戴ね―――」

その夜、堂に満ちた会衆は

ベツレヘムの星を動かしたものが

誰であるか気づかなかったけれど、

彼女の母だけは知っていた。

そこに少女のよろこびがあった。

 祈ります

主なる神

 今日はアドヴェント第4の聖日です。例年、CSの子どもたちと大人とページェントを行い、子どもたちの成長を見ることができました。その中で共に御子イエス様のご降誕を喜び、神の愛に心から感謝し、クリスマスをお祝いできることができました。

長く続くコロナウイルス感染拡大のために、教会学校もお休みしていました。11月に入り、再開しましたが、教会学校の子どもたち、そのご家庭、CS教師の上に主の恵みをお注ぎください。

次週は、クリスマス礼拝です。クリスマスにふさわしく、世界にあなたの愛と平和がもたらされますように。コロナが収束しますように。ウクライナとロシアの戦争が収束し、平和が回復されますように。

新年も近づきます。新しい年、期待と希望をもって備えることが出来ますように導きください。




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