カテゴリー: 今週の説教

 

2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日礼拝

2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日礼拝

聖 書  創世記48章11~16節 (創世記連続講解説教 第55回)

説 教  祝福の手

2020-0927-shuuhou

 創世記の講解説教も終わりに近づいてきました。50章ある創世記。天地創造からはじまり、ノアの時代の大洪水と箱舟、バベルの塔の物語、アブラハム、イサク、ヤコブと続いてきました。天地創造の時に主なる神様はご自身が創造されたときに、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と造られた物を祝福されました。この祝福をめぐって、ノアの時代において、アブラハムの時代において、祝福が継承されていくのです。

 創世記は、祝福の物語といえるでしょう。とくに、アブラハムの祝福はイサクに受け継がれました。イサクには腹違いの兄イシュマエルがいましたが、祝福はイサクに受け継がれたのです。このイサクの時に、神は重大なこと、人間的には苦しい、恐怖の出来事が行われました。イサク奉献という出来事です。22章ですね。「主の山に備えあり」 

神の備えは、祝福という形でいつもあります。それが神のご計画、導きです。

イサクには、二人の息子がいました。エサウとヤコブです。エサウは長子、長男です。第一子、ヤコブは次男です。父イサクはエサウをかわいがりましたが、ヤコブは狡がしこく、長男の権利、長子権を奪い(25章27節以下)、祝福をも策略によって横取りしたのです(27章18節以下)。そのために、兄エサウに殺されそうになりますが、夜逃げしてしまいます。

そのようなヤコブに神様は現れ、祝福されるのです。その後、ヤコブは叔父ラバンのもとで苦労しますが、そこで二人の妻(レアとラケル)とそれぞれの召し使い、ビルハとジルパにより何と12人の男の子を設けるのです。これがイスラエル12部族となります(29章30章)。

11番目の息子ヨセフは夢見る人です。しかし、その夢により、兄たちの嫉妬をかい、ヨセフはエジプトに奴隷として売られます。そこでも、ヨセフはエジプトの王ファラオの夢を解き明かすことにより、エジプトの大臣となって苦難に立ち向かいます。7年間の大豊作と次に7年間の大飢饉のための対策を講じるのです。世界的に大飢饉が襲いました。現代のコロナ・ウィルス禍のようです。ヤコブ一行は、大臣になったヨセフを頼ってエジプトに下るのです。エジプトでは、食料が蓄えられていました。

さて、本日は48章、ヤコブは自分の死が近いことを悟り、ヨセフの二人の子を祝福します。8節以下をお読みします。

イスラエルは、ヨセフの息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねた。ヨセフが父に、「神が、ここで授けてくださったわたしの息子です」と答えると、父は、「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。

とくに10節ですね。

 イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた。 イスラエルはヨセフに言った。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」 ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した。

 

1.ヤコブの祝福の祈り

これはヤコブの父イサクがヤコブを祝福する時のことを思い起こします。ここでも、「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた」(27章1節)のです。

イサクの祝福の祈り 27章27~29節

 ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は 祝福されるように。」

ヤコブの祝福の祈り 48章15節~16節

「わたしの先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。 わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」

ここでは、二つの視点があります。祈りの言葉と祝福の手です。

 

2.祈りの言葉 

15,16節ですね。お読みした通りです。そこには、3つのことが記されています。

  • アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 
  • 牧者なる神 羊飼い 詩編23編、ヨハネ10章「わたしは良い羊飼いである」
  • 贖われた御使い 神の使い アブラハム、サラに現れたソドムの滅び、サラの妊娠を告げ、ヤコブに現れ明け方まで格闘した。ペニエル。神と顔と顔を合わせた。

祝福してくださるまで離しません。「お前はもうヤコブではなくイスラエル。神と人と闘って勝ったからだ。」「わたしは顔と顔を合わせて神を見た」32章23~31節

 

 3.祝福の手

 17~19節

 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」

ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しか し、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」

ヤコブは、ヨセフの二人の子を口づけして抱きしめます。ここに不思議なことが起こります。祝福の儀式ですね。聖書は、儀式というほどのことはなく、あっさりと記していますが、ここに深い儀式、聖礼典ともいうべき奥義があるのではないかと推察します。ただ、12節には、「ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した」とありますから、深読みすればただ事ではない大きな祝福の儀式であることが理解できます。

ここには、まさしく祈りの儀式があります。秘儀といってもよいかと思います。特別の祈りの儀式です。神がそこにおられ、神の祝福がそこにある。この祝福はアブラハム、イサクへと受け継がれ、ヤコブにも受け継がれ、今、エフライムに受け継がれようとしている。

ヤコブは右の手をエフライムに、左の手をマナセに置いたのです。聖書は、そのことを注意深く記しています。また、ヨセフはそのことを明らかに示し、父ヤコブに取り違えていると指摘するのです。

現代では、右の手であろうと左の手であろうと、そんなに重大な問題ではないと考えるかもしれません。右利き、左利きの違いではないかと合理的に解釈することもできます。

(旧約聖書詩編には、神の右の手に関する記事が多くあります。モーセは、右の手をあげている間は、イスラエルが勝利します。

出エジプト記15章 06節

「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。」

詩編118:15

「御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。」)

 ヤコブの祈りの儀式

     ヨセフ

      〇  

エフライム〇   〇マナセ

      〇

     ヤコブ

祝福は一子相伝のような考えがあります。ヤコブが策略をもって、祝福を奪ったとき、兄のエサウは、父イサクに涙を流して言います。27章30~36節

エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」

イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」

エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪 い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったの ですか。」

祝福― 一子相伝のような考えがあります。一子相伝とは、辞書には、次のようにあります。「学問や技芸などの秘伝や奥義を、自分の子供の一人だけに伝えて、他には秘密にして漏らさないこと。」 「相伝」は代々伝えること。

そこから次のように考えることができます。すなわち、正統な後継者としての神の祝福ですね。正統な後継者、嫡男に与えられる特別の恵み。分家ではないということです。

この儀式ですね。教会が代々にわたって受け継いできた祝福の儀式、按手礼ですね。カトリックでは、按手は叙階式といい、聖礼典です。

創世記における祝福の儀式は、この聖礼典といっても過言ではないかと確信します。このことを指摘している註解書はないのではないか。

祝福の歴史、系譜があると確信しています。旧約聖書において一貫して流れている祝福の歴史は、モーセから士師記、サムエル記、列王記、歴代誌を通して、祭司により油注ぎという形で按手が行われています。

まさに、アブラハム以来3千5百年以上に亘って、祈りから祈り、手から頭へと受け継がれてきた祝福の按手です。そこに神の御手があり、神のいのちが注がれるのです。

温かさを覚え、心が燃え、祝福の祈りにより、いのちの息吹を感じるのです。

その按手による祝福は、現代に受け継がれているのです。

マナセはヨセフの長子であり、エフライムは次男です。そこに、神の選びの不思議、神の主権がそこにあります。エサウではなく、ヤコブ。イシュマエルではなく、イサク。

そして、ダビデ、ソロモンというように神の祝福が継がれていくのです。

今、その祝福をヨセフの子、エフライムに施そうとしたのです。しかし、ヨセフは長子であるマナセにヤコブの右の手を載せて、祝福を与えてもらうようにしました。

ここには、これから起きるイスラエルの歴史に関する示唆が表されているようです。ヤコブの死後、イスラエルを代表する人物はヨセフであります。それから400年後、エジプトを脱出する指導者はモーセです。モーセはレビ族です。モーセの従者はヨシュアです。ヨシュアはエフライム族です。カナンの地に入って士師記からサムエル記に至って、12部族の代表は、エフライム族とユダ族になります。

聖書は、祝福の祈りを通して、その背後に神様のご計画があることを示しています。

その神の計画は、祝福をもたらす最後の人として、神が人となられた主イエス様なのです。大祭司イエス様です。そして、主イエス様を通して、キリストを信じるすべての人に祝福を注がれるのです。それが教会です。教会こそが祝福を祈る恵みの器として立てられたのです。

祝福を祈るために、伝道しましょう。キリストの恵みを証しすることが祝福なのです。

2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝

2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝

聖 書  ローマの信徒への手紙1章1~7節

説 教  選びと召し

2020-0920-shuuhou

 

本日は、「選びと召し」という説教題です。月に一度、創世記を講解説教しています。その時にも、何度か申し上げていますが、旧約聖書と新約聖書に一貫して流れているテーマがあります。いくつかのテーマ、言葉があります。そのひとつは選びですね。神はアブラハムを選び、アブラハムをすべての民の信仰の父とされました。聖書に流れるテーマは神の愛。そして、一番本質的なテーマは、主イエス・キリストの十字架の贖いと永遠のいのちです。

 さて、選びには目的があります。それは祝福です。それは、アブラハムを通して信じるすべての人に祝福が与えられるためです。選び、そして祝福ですね。神の愛と祝福を与えられるのです。通りよき管とされる。祝福が注がれるのです。そこに伝道があります。証し人として立てられるのです。教会のわざとしての伝道です。

 わたちたちは、聖日ごとに礼拝をささげます。礼拝の中心は、神の言葉、賛美と祈りです。そのときに感謝の応答としての信仰告白があります。主の祈りですね。そして、信仰告白、使徒信条。何度も確認するのです。血となり、肉となっています。

同じように、いつも確認し、感謝する。それが「わたしたちは選ばれている」という信仰と感謝です。主なる神様の大きな恵みに心から感謝するのです。

 今日の聖書、「選びと召し」です。

 1章1節をお読みします。

  キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、

前回9月6日の礼拝説教は、同じローマの信徒への手紙1章1節から7節までで説教しました。「キリストのしもべ」と題して説教しました。本日も、同じ聖書の箇所です。

本日は、この「選び出され、召された」というところですね。選びと召しについて説教します。召しは召命であり、献身ですね。

 今日も、三つのポイントで心を留めましょう。

 

1.選ばれる条件

神に選ばれるには何かの条件があるのか、ということです。

日本国政府は、先に安倍首相が病気を理由に任期を残して辞任しました。官房長官であった菅義偉氏が自民党の総裁に選ばれ、また、国会において国会議員の投票選挙で多数を得て総理大臣に選ばれました。選んだのは、国会議員ですね。国会議員を選んだのは、日本の国民です。

選ばれる条件があります。いろいろありますが、政治のことはさておき、信仰の世界では、選ばれる原理が違います。選ぶのは、神様であるということです。神の選び。これが聖書に一貫して流れる選びです。

 アブラハムは、75歳にして神に選ばれ、召命を受けました。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」

アブラムは、主の言葉に従って旅立った。七十五歳であった。」

ダビデの召命 「わたしは・・・人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(新共同訳 サムエル記上16章7節)

       「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」

イザヤ、エレミヤの召命の記事は、神様の主権ですね。人間の思いを超えておられる。

聖書における信仰者は、神の選びとそれに呼応した信仰者の列伝です。

信仰の世界において、とくに聖書において、選ばれるとは、どういうことを意味しているのでしょう。神に選ばれる条件とは何でしょうか。能力、家柄でも、どこの大学を出たかとか、財産でも、社会的な地位でもありません。

権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。

(ゼカリヤ書4章6節 口語訳)

選びだされた。召命ですね。神様の御用のために選び出されたのです。パウロは、キリスト教会を迫害していた人物です。危険人物ですね。恐れられていました。そのパウロを神は選び出されたのです。その目的は、「召されて使徒とされた」とあります。召されたのです。

変わったのです。人は神との出会いによって、変わります。劇的に変わることもあれば、ゆっくりと変わることがあります。変身です。それは、人格の変化です。高くなる。柔らかくなる。キリストにあって変えられるのです。

 選ばれて、神のしもべとなったのです。そこに神の主権があります。これが聖書の神様のご意思であるということです。どんなに小さな者でも、神の召命を感じる時、そこに神の選びがあります。

 

2.選びの目的-使徒として召されたパウロ

神の選びの目的は、福音を宣べ伝えるためです。伝道です。「選び出され、召されて使徒とされた」のです。選びと召しはひとつです。使徒というのは、福音を宣べ伝える役目を与えられた人のことを言います。伝道者です。イエス様の弟子は、使徒といいます。パウロは、イエス様の直接の弟子ではありません。むしろパウロは、キリスト教会を憎悪し、反感を持ち、迫害をしていた人物です。使徒言行録8章1節、9章1節以下

そのパウロに、復活されたイエス様はご自身を現わされたのです。パウロは回心します。迫害していたパウロが今度は、福音を宣べ伝える側へと変わるのです。そのために、牢獄に入れられること、鞭で撃たれること、石を投げつけられたこと、難船したこと、一昼夜海上に漂ったこと、盗賊の難、ありとあらゆる苦労を経験します。

「こんなことになるのだったら、信じないほうがよかった」 

普通なら、そういう呟きをしそうですが、むしろ、それを喜ぶのですね。キリストのために受けた苦しみは、わが喜びだというのです。パウロは、神に選び出され、召されて使徒とされたのです。その使徒としてパウロは世界中を旅し、福音を宣べ伝えたのです。

3.キリストのしもべは、神の福音のために召されて、使徒とされる

1節を再度、お読みします。

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、

 「召されて」という言葉は、クレートスというギリシャ語です。英語ですとCallコールですね。召命です。このギリシャ語のクレートスは、動詞クレオーの変化形です。完了体・受動詞(受け身形)では、クレーシアとなります。

教会のことを、ギリシャ語ではエクレーシアと申します。エクレーシアは、召された人たちの集まりということができます。教会は、イエス様に召された人たちの集まりなのです。わたしたち一人一人は、イエス様に選び出され、福音を伝えるために召されたのです。わたちたちもパウロと同じように、キリスト・イエスのしもべということができます。パウロのような大伝道者ではありません。しかし、自分の身でもって、キリストを証しする。これがイエス様に召された意味なのです。キリストの証人ですね。

使徒としてパウロは、キリスト・イエスのしもべであり続けました。

キリストのしもべとして、福音の使徒としての生涯を全うしたのです。わたしたちも、キリストの証人として、福音に生き、信仰生涯を全うしましょう。

 最後に、キリストのしもべとして選ばれたとは何なのかを改めて考えたいと思います。

 

主人の命令に従う

しもべは主人の命令には絶対服従です。軍隊の兵士が上官の命令には絶対服従と同じです。軍隊の兵士は、国のために戦うこと。そして、敵国の兵士を殺すことです。その数が多ければ多いほど、英雄となります。

キリストのしもべは、主人の命令に従います。主人の命令とは何か? 二つあります。福音を宣べ伝えること。人を生かす教えです。殺すのではなく、生かすのです。永遠のいのち、魂の救い、平安といやし、喜びの生涯を送るための福音を宣べ伝えるのです。

マタイ28章19節

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 

 もう一つは、ヨハネ15章17節

「互いに愛し合いなさいです。これがわたしの命令である」

  福音を宣べ伝えることと愛し合うことは矛盾しません。両立するのです。むしろ、同じことかもしれません。神の愛は、わたしたちのためにキリストを送られたことです。キリストに生きることは、神の愛に生きることなのです。

 この世の兵士は、敵国を憎まなければなりません。敵を愛するのは、イエス様の言葉です。軍隊は敵国の兵士を憎み、殺すのです。

  今、教会はパウロの使徒職を受け継いで、福音を宣べ伝える役目を神様に与えられています。教会がそして、教会のみなさんが選び出され、召されて福音の使徒、証し人とされているのです。

従って、教会は愛し合いつつ、伝道するのです。愛のないところで、いくら伝道しても人は集まりません。魅力のない教会に誰も来ないでしょう。人は愛を求めるのです。

②しもべは、主人の意志をよく知っている。

 主人の意志、それは主人のこころです。愛のこころです。それは神の言葉です。

 しもべは、主人の人格に触れている。それは十字架につけられても、なお、「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか分からないのです」と祈られました。自分を十字架につけた人をも赦され、執り成しをされる愛です。わたしたちは、主イエス・キリストの愛とまことに触れています。

③しもべは、主人の愛を体験している。

  経験しているのです。味わっている。キリストを味わいなさい。聖霊によって、祈りの中で主と語り合っている。

詩編34:8 「主の恵みふかきことを味わい知れ」とあります。聖餐式の時に読まれる聖句ですね。

  わたしたちは、しもべとして主に仕えていくとき、主イエス様の方から近寄ってこられます。そして、このようにお褒めの言葉をいただきます。

ヨハネ15:14~15 

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

  友として遇してくださる。これこそ最大の名誉、祝福ですね。アブラハムも神は友と呼ばれました。そのように、神のみこころを知り、行いましょう。