カテゴリー: 今週の説教

 

2020年7月21日 聖霊降臨節節第8主日礼拝

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2020年7月21日 聖霊降臨節節第8主日礼拝

聖 書   創世記46章1~7節 (創世記連続講解第53回)

説 教   エジプトのヤコブ

  

2014年11月に第一回の創世記講解説教を行いました。月一回の創世記講解でした。 

以来、6年6か月に亘って説教してまいりました。53回目となります。

ヤコブは可愛がっていたヨセフが生きており、しかもエジプトで大臣をしていることを知り、ヨセフに会いにエジプトに下ります。45章25~28節ですね。

兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブのもとへ帰ると、直ちに報告した。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。彼らはヨセフが話したとおりのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」

こうしてヤコブは、エジプトに行くことを決心するのです。それでもやはり、ヤコブは不安だったに違いありません。そのヤコブの不安を解消したのが、夢でした。

 

1.夢

ヨセフ物語は夢の多い箇所ですが、ヤコブも行き先々で夢・幻を観ます。ベテル(28章)、ペヌエル(32章)、神が共におられることの約束の夢です。神の啓示が明らかにされます。ヤコブの人生の大きな転機でした。今ここでも、神は夢に現れて、ヤコブをエジプトに下るように促されるのです。46章1~4節

イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

古代エジプトです。ピラミッドをいくつも造った大帝国。経済的にも、政治的にも超大国です。ピラミッドのような大建造物を今の時代に、同じように造ろうとしても不可能だと言われます。科学が今ほど発達していない古代で、あのようなピラミッドが造られたのは、世界の謎、不思議の一つです。人類を月に送る、その科学力をしても不可能なのです。

そのエジプトにヤコブは下ります。上ると書いていない。ヤコブたちの住まいはカナン。エジプトの周辺国です。いや、国でもない。小さな、貧しい、部族の族長です。

 

2.エジプト下り

ヤコブは、一族郎党、家畜すべてを引き連れてエジプトに下ります。全財産ですね。飢饉のためとはいえ、ヤコブはかなりの年齢になっています。そのヤコブが遠い異国に行く。しかも、死を覚悟です。実際、その地で死んでしまいます。この時、ヤコブは130歳になっていたのです。47章9節

エジプトでヤコブは、二人の人物に会います。一人は最愛の息子、ヨセフです。もう一人は、エジプトの王ファラオです。47章にあります。ファラオとの謁見については次回に説教いたします。ヨセフとの再会は、46章29~30節にある通りです。

ヨセフは車を用意させると、父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」

父ヤコブといなくなった11番目の息子ヨセフとの劇的な再会です。ヨセフはエジプトに奴隷として売られ、冤罪で牢屋に入れられ苦労します。ヨセフにとって、牢獄であろうと、奴隷の家であろうと苦労とは感じなかったことでしょう。神が共におられたからです。すべて、神の導きがあり、そこに神の国の祝福がありました。

しかし、ヤコブは12人の子どもがいても、最愛の11番目の子がヨセフでした。身を案じて辛く、苦しい想いをしたことです。特別の子です。依怙贔屓といいますか、どんなに子がいても、特定の子を愛する。聖書は大胆ですね。でも、イエス様は違います。どんな子も愛してくださいます。

ヤコブは言います。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」

いなくなっていた羊が見つかった。その喜びです。「もう死んでもよい」。ルカ2章29節以下では、敬虔な信仰者シメオンの祈りと感謝があります。救い主を見るまでは死ぬことはないと聖霊からのお告げを聞いていたのです。赤子のイエス様を抱いたとき、シメオンは喜びに満たされます。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです」

ヤコブもヨセフとの再会で、喜びで満たされたことです。

 

3.新しい物語のはじめ―神の摂理、ご計画

この46章では、8節から27節まで、大半をヤコブの一族の紹介で占めています。ヤコブの一族郎党70名の名前を挙げています。始めて読む人は、退屈なことだと思います。何の意味があるのでしょうか? 実は、はじめこの説教を準備していたところ、「いや待てよ、ここにも何か意味があるのではないか。何の意味があるのだろう?」 

そう考えて、いろいろ祈り、黙想しました。そして、一つのことを発見したのです。

ここから始まる神の計画があるということです。次の出エジプトの序章です。  

ヤコブの一族郎党70名。それはヤコブの12名の子どもたちから来ています。そして孫ですね。イスラエル12部族がここから起こるのです。

聖書は、何かのエポックメイキングと申しますか、新しい時代の幕開けが始まる時に、系図や一族の名前の紹介、羅列があります。創世記においても、5章ですね。アダムの系図です。そして、10章、11章。洪水の後のノアの系図です。その後、12章からアブラハム物語が始まるのです。一つの区切りがあるのです。時間の区切り、時の区切りです。そう、歴史の転換です。神は歴史の創造主、支配者、導き手であります。

ここでも、ヤコブの12人の子とその孫たちが紹介されます。70名。この時からエジプト滞在430年の時が費やされます。出エジプトにつながっていくのですね。

出エジプト記1章1~5節をお読みしましょう。

ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。

エジプトを脱出する時、12章37~40節

イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。 彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。

430年という年月。60万人 女子供を含まない。

ここにあるのは、神の摂理とご計画です。創世記46章は、430年の年月を見越して、書かれているのです。430年は、ヨセフが大臣の時になり、ヤコブたち一族郎党がエジプトに移住するのです。それから430年の間、聖書は空白となっています。何があったのでしょうか。系図として残っているのですね。

民数記1章、26章、歴代誌上1章から9章にかけて記されています。

出エジプト記は、モーセの十戒、律法の授与、神とイスラエルの契約がテーマです。 

その内容は、創世記を前提とします。アブラハム、イサク、ヤコブの神の啓示と契約、シナイ契約。アブラハム契約の成就です。祝福と選びへと展開します。

出エジプト 400年の間、奴隷状態となったイスラエルを救い、解放し、乳と蜜の流れる地へと導かれる神の恵みと契約、祝福、選びの確認がテーマです。

出エジプト記への橋渡し。イスラエル12部族の歴史がイスラエル国、全人類の祝福へとつながっていく。出エジプト記は、旧約の精髄です。そこには過ぎ越しの祭、除酵祭。

小羊の血を流す。贖い。囚われからの解放。罪からの解放。イエス・キリストの十字架へと導かれるのです。神の遠大な救いの計画が個人から、部族、民族、そして、諸国民、人類へと拡がっていくのです。

イエス・キリストを通して、さらにまされる恵みの契約、新しい契約へと導かれます。それは、永遠のいのちという信仰の契約、神の国へと引き継がれるのです。イエス・キリストの十字架による新しい契約のもとに生きる教会とわたしたちです。そこに新しい選びがあります。感謝しましょう。ユダヤ人の歴史と選びを通して、神はすべての人間に神の愛と歴史の統治、支配、創造を教えられているのです。今、わたしたちは、時代を超えて、恵みの中に導かれているのです。ハレルヤ!

2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝

2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝

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聖 書  ヨハネによる福音書17章6~10節

説 教  祈りの霊

 

 前回に続いて17章6節から説教いたします。17章は、全体がイエス様の祈りです。その祈りで、前回説教しましたように1節から5節までは、ご自身のための祈りとなっています。父と子の関係と申しました。父なる神と子なるイエス様との関係です。ひとつということですね。

 今日は、6節からです。この祈りは、弟子のための祈りということができます。マタイやマルコ、ルカによる福音書では、イエス様はよく弟子たちから離れ、1人で祈られたと記されています。お一人でどういう祈りをされていたのでしょうか。イエス様は祈りの霊に満たされていました。祈りそのもののお心であったと言えるでしょう。

 

 ・群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。(マタイによる福音書14章 23節)

 ・群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。(マルコによる福音書6章 46節)

 ・そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 

(ルカによる福音書6章 12節)

 ・この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。(ルカによる福音書9章 28節)

 

 ヨハネは、その祈りの一部を記しています。この17章ですね。神との親密な交わりの中で、ご自身の使命と達成のために祈られたことでしょう。使命と達成とは、十字架です。いつも、そのことがあったことだと信じます。その時のために神が人間となられたのです。そして、祈られていたのです。それが「神と等しい者であることを固執しない」(フィリピ2章6節)御子イエス様の謙遜さです。そして、十字架と復活により、栄光を現されました。

本日の聖書の箇所は、弟子たちのための祈りです。6~8節ですね。

 

1.使徒の選び

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。

 

神が人となられた意味と使命を達成するために、イエス様はご自身を現わし、使徒を選び、育てられたのです。世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。6節に「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」とあります。つまり、天地創造の父なる神様が弟子たちを選び出して、御子イエス様に与えられたというのです。光栄なことですね。それは、世の終わりの備えのためです。使徒を通して、ペンテコステにより教会が生まれ、使徒たちが教会を育てる。世の終わりまで、教会は主イエス様の救いの福音を宣べ伝えるのです。神の国の福音を教会に委ねられたのです。それは、霊の世界の告知です。霊的なのです。この世に人たちには、隠されているのです。

 

眼が開かれるというのは、そのことです。霊の眼が開かれる。霊のこころです。その霊によって、神のことを知るのです。

・自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

(1コリント2章14節)

・わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。(Ⅰコリント2章10節)

 

2.使徒を通してイエス・キリストを信じるすべての人のために 

 9~10節

彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

「彼らはあなたのもの」ということは、彼らとは、弟子たちのことですね。それは、のちの教会です。教会に属するすべてのキリスト者です。つまり、わたしたちです。「わたしたちは、神のものである」。これは真実です。

もう一度、整理しますと、順序があるのですね。まず、弟子、ユダを除く11弟子です。ペンテコステの後、弟子たちは使徒と呼ばれます。イエス様から伝えられた神の国の福音を宣べ伝える職務です。これにパウロが加わります。パウロは、教会を迫害したコチコチのファリサイ主義者です。復活されたイエス様に出遭い、回心し、使徒とされたのです。そして、わたしたちの教会、そしてキリスト者。

 父と御子は一つであるゆえに、御子を信じる弟子たちは、神のものであります。

父は、御子に栄光を現されるように弟子たちにも栄光を現される。 神の教会、キリストのかしらなる教会です。

10節にそれが現わされます。

わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

教会の姿はイエスの栄光を現すためにあります。キリスト者の責任。世の人々にキリストを証しするという栄光と責任があるのです。委ねられたのです。伝道ですね。

本日の説教題は、「祈りの霊」とつけました。祈りの霊とは、イエス様がいつも父なる神とひとつであり、父のみ旨を求め、十字架という従順の道を全うされたように、わたしたちもイエス様の霊に満たされるように祈ることができます。 まとめますと以下のようになります。

 

1.わたしたちは、世のはじめより神に選ばれている。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15章16節)

しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、異邦人に御子を告げ知らせるようにされたとき、私は、人に相談することはせず、  (ガラテヤ1章15節)

 

2.父と御子がひとつであるように、わたしたちも神とひとつとされている。

 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 (ローマ8章14、15節) 

 イエス様の贖いの恵みにゆえに、わたしたちも祈りの霊を与えられています。そこには、意味と使命があるのです。そのために、わたしたちは祈ります。自分の好き勝手な願いごとを祈るのではありません。使命と目的があるのです。それについては、11節以降から次回に説教いたします。

 いまは、アッバ父よ、と天地創造の父なる神様に祈り、親密に交わる恵みを与えられたことを感謝しましょう。

 祈ります。