カテゴリー: 今週の説教

 

2020年5月17日 復活節第6主日礼拝

2020年5月17日 復活節第6主日礼拝

2020-0517

 

聖 書  ヨハネによる福音書16章16~24節(連続講解説教 第58回)
説 教  福音の原点

 みなさん、ご機嫌いかがですか。先週は、役員会を行いました。役員会の議事や協議の結果については、皆さんに文書でお送りしましたので、眼を通されたことと思います。また、4月末に予定していました2020年度の定期教会総会について、教会員が集まっての総会は無理なので、今年度は議決権行使書をもって総会に替えさせていただきます。役員会記録と併せて、総会の議案書・報告書を送りました。これも読んでいただき、議決権行使書に必要事項をお書きの上、FAXまたは郵送にてお送りいただければと思います。

地域によっては非常事態の自粛解除の自治体が現れるようになりました。ここ宮城県も飲食業などの開業自粛が解除され、商店街は久しぶりに人手が多くなりました。この調子で、コロナ・ウィルスの収束が来るように祈ってまいりましょう。

祈ります。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新型コロナ・ウィルスの感染の恐怖と不安の中で日本、また世界中がおびえ、ひっそりと暮らし、忍耐してきましたが、少しずつ光明が現れてきました。主なる神様が収束へと導き、安全にまた喜びをもって主を礼拝できるようにお導きください。今の艱難、忍耐の中でも希望をもって、信仰をもって日々の生活が送れるように強めてください。また、主のご再臨を待ち望む信仰を与えてください。

愛をもって人と接し、祈り、弱い人々、病める人々、高齢者、とくに就学している子どもたち、青年のひとりひとりに希望を与えてください。

さて、本日は先週に続きまして、ヨハネによる福音書16章16節から24節までを説教いたします。説教題は、「福音の原点」です。

 

1.十字架の死

16章16節を読みましょう。
 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」

 16節の言葉、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」 とくに「またしばらくすると、わたしを見るようになる」

その言葉は弟子たちにとっては理解不能でした。禅問答のようですね。しかし、このことばは、以前にも何度も語られていました。しつこいくらいというと語弊があるでしょうか? 福音書は、「ここが大事ですよ。だから、何度でもいうのですよ」 そう言っているのです。

わかりやすく説明しますと、「このあと、ユダヤの人たちファリサイ派の人たち、律法学者、祭司・長老たちがイエス様を捕まえに来て、裁判にかけ、十字架につけて殺そうとしている。事実、そのようになるだろう。わたしは十字架の死を死ぬ。君たちとはお別れだ。いなくなってしまう。きみたちはわたしを見ることがないだろう。しかし、それで終わりではない。以前にも言っておいたように、わたしは甦る。復活するのだ。そうすれば、またきみたちと会えるのだ」 イエス様はそのように言われているのです。

弟子たちにとって、イエス様は何も罪を犯したわけではない。悪いことはしていない。むしろ、多くの病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を甦らせ、たくさんの奇蹟を行ってきた。今まで誰も語ることがなかった神の言葉を語られた。それは、神から遣わされた方でなければ、語ることがない権威ある教えであり、いのちのことばなのだ。そのイエス様を捕縛し、裁判にかけ、死刑にすることなど誰もできない。そう確信していたのです。イエス様は無実なのです。

しかし、イエス様はユダヤの支配者たちの悪と罪を熟知しておられました。嫉妬深く、組織を守るために律法の教えを覆そうとするイエス様を許すわけにはいかないのです。

弟子たちは、そのことを理解できなかったのです。十字架は弟子たちにとって理解不能の出来事です。しかし、イエス様は言われます。「死で終わりでない。死からすべてが始まるのだ。復活。死ではなく、いのち。それがわたしである」と。

いまは理解不能であっても、いのちのことばを理解させてくださるのは、聖霊です。 助け主、弁護者、慰め主の聖霊がイエス様の死によって、復活のキリストの霊として来られるのです。死んでいなくなり、見えなくなっても、復活のキリストとして見えるようになる。ここに福音の原点 始まりがあります。

 

2.悲しみが喜びに変わるできごと それが復活

20節以下を読みましょう。22節まで。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」

弟子たちの悲しみは、頼っていた人が突然いなくなってしまった時の悲しみ、痛み、嘆きを言います。愛する者が亡くなった時、喪に服すわけですが、その時の嘆き悲しみですね。真っ暗闇のトンネルに放り出された子どものような心境でしょう。この悲しみとは、そういう意味があります。

8節にも悲しむことを言われています。まさに母が突然いなくなった幼児のように泣いて悲嘆に暮れる姿です。絶望的な悲しみ、嘆きです。しかし、弟子たちは復活のイエス様を見て、喜びに変わるのです。不安と苦しみの中で泣きわめいていた幼児にのもとにお母さんが現れた。幼児は大喜びです。「おかあちゃん!」と叫び、母のふところに飛び込みます。

聖書は、悲しみが喜びに変わることを、陣痛を経験した妊婦の痛みと赤子が生まれた時の喜びにたとえています。苦しい、艱難の経験が喜びに変わるのです。

復活の出来事は、そのような喜びです。復活したイエス様が今度は聖霊として来られ、いつまでも共にいてくださるのです。

 

3.イエスの名 栄光の主

23節以下を読みます。

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」

今日の説教題は、「福音の原点」としました。キリスト教のスタート、福音の原点がここにあります。それは、イエス様のお名前によって願うということです。ここに新しい時代の到来があります。歴史の転換点です。

今までも、ユダヤ教徒は祈りました。天地万物の創造主なる神様、文語訳聖書は、「主」というところに「エホバ」と訳されています。わたしは10年前からデボーションのために文語訳聖書を使用しています。もう10回以上は通読しています。旧約聖書は、すべて「エホバ」です。「ヤーウェ」が正しい読み方であると言われます。

わたしたちは祈ります。それはイエス・キリストのお名前によって父なる神に祈るのです。ここにわたしたちの祈りがあります。
おおよそキリスト教徒であろうとユダヤ教徒であろうと、仏教徒、イスラム教徒、地上におけるあらゆる宗教は祈りをもっています。祈りのない人はいないでしょう。

共産主義の人たちはどうでしょうか? 今回の新型コロナ・ウィルスの感染拡大、パンデミック-爆発的感染にあって、世界中の人たちは祈っています。早く収束するように。家族が感染しないように、感染しても助かるように。医療従事者のためにも祈ります。

誰に祈るのでしょうか? また誰のお名前によって祈るのでしょうか?

イエス様のお名前によって祈り、願う。ここにキリスト教があります。十字架にかかり、死にて葬られましたが、三日目に甦られ、いまや聖霊としてともにおられるイエス様。そのお名前によって祈る特権が与えられている。

その祈りは聞かれているのです。父なる神、全能の神がイエス様のお名前によって祈られている祈りを聞いてくださるのです。感謝です。

使徒言行録では、イエスの名については何度も記されます。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2章38節)
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4章 12節)

使徒言行録だけでも、イエスの名という言葉は40回使われています。

賛美歌 168番 イエス 君の御名に まさる名はなし
         みかみのみこころ 世にあらわせり
           わが君イエスよと 喜びうたう
           尊き御名こそ 比いもなけれ

主の御名を賛美します。
ハレルヤ アーメン

祈ります。

主よ、イエス様のお名前に祈るおおいなる幸い、喜びを感謝いたします。

全能の神、救いの神、まことの神、三つにして一つなる神、あなたの十字架の贖いにより罪赦され、きよめられ、永遠のいのちに与っている豊かな恵みと祝福を感謝します。

全世界のすべてのところであなたのお名前があがめられますように。

あなたのお力と権威により、悪霊を追い出し、新型コロナ・ウィルスからの感染もお守りください。一日も早い収束が与えられ、全世界の教会が自由に礼拝を再開し、あなたをほめたたえることができますように、栄光を現し下さい。

イエス・キリストのお名前によって願い、お祈りいたします。アーメン

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝
聖 書  ヨハネによる福音書16章4b~15節(連続講解説教 第57回)
説 教  真理の霊

 

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みなさん、ご機嫌いかがですか。先週はゴールデンウイークでしたが、例年と違い、新型コロナ・ウィルスの感染防止対策のために、どこも閑散としていました。新幹線や飛行機で乗客率数パーセントでした。そのお陰か、地域によっては非常事態の自粛解除の自治体が現れるようになりました。ここ宮城県も一昨日、自粛が解除され、商店街は久しぶりに人手が多くなったとのことです。この調子で、コロナ・ウィルスの収束が来るように祈ってまいりましょう。

祈ります。

 

さて、本日は先週に続きまして、ヨハネによる福音書16章4b~から15節までを説教いたします。説教題は、「真理の霊」です。

 

1.4b~6節 イエス様の死は高挙、天の父への帰還

イエス様は、ご自身の十字架の死を何度も予告されています。しかし、イエス様の死は、単に死亡したということではなく、父なる神へ帰還であり、栄光の高挙であるということです。高挙とは、文字通り高く挙げられた、ということです。

「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」 使徒信条で告白するとおりです。

フィリピ書2章6節以下。キリスト賛歌と呼ばれる聖句です。 

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」

この「高く上げ」ですね。高挙と神学的に言い慣らされています。

それゆえ、イエス様の死は悲しみではなく、不幸でもない。喜び。勝利につながるものであります。イエス様を認めない人たちにとっては、十字架は単なる死であり、無駄死にです。しかし、イエス様は復活され、高く上げられた。ここからキリスト教が始まったのです。世界の歴史を変え、2000年の間、人々に希望を与え、生きる喜び、幸い、いのちの意味を教えてきたのです。

文学、芸術、音楽、人間の心と精神、魂の営みに希望、喜び、美、生きがいを与えてきたのです。霊感の源泉。聖霊の働きですね。聖霊の賜物です。

 

2.7~8節 聖霊―パラクレートス 同伴者、助け主 真理の霊

聖霊は、イエス様が父のもとに帰られた時にいらっしゃる弁護者、真理の霊です。7節。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」

弁護者とは、聖霊です。ギリシャ語でパラクレートスです。その意は、そばにいて慰めと励まし、助けを与えてくださる方。助け主、弁護者、同伴者とも訳されます。弁護者とは、裁判の場で、同伴され、弁護し、助けてくださる方でもあります。裁判の場で、真実を明らかにし、まことの裁きへと導かれるのです。なぜなら、聖霊は父なる神、子なるイエス・キリストから遣わされるからです。

8節

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」とあります。

文語訳では、「かれ來らんとき、世をして罪(つみ)につき、義につき、審判(さばき)につきて、過(あやま)てるを認めしめん」

本来は「明らかにする」という意味の動詞です(3:20)。それから「指摘する」とか「責める」という意味(8:46)があります。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(9節)

「世」はおもにユダヤ教世界とその指導者たちを指しています。ファリサイ派の人々、律法学者たち、祭司たちです。イエス様を十字架につけた人たちです。彼らはユダヤ民衆をたきつけ、会堂から追放し、迫害したのです。当時のユダヤ社会を支配していました。

「彼らがわたしを信じないこと」とは、イエス様を神から遣わされた方であると信じないことを指しています。そして、イエス様を信じる弟子たちを、罪を犯した異端者として裁判にかけ、会堂から追放し、迫害し、殺害するのです。ところが、聖霊はイエス様こそが神の子であると、その栄光を明らかにするのです。この神から来られた方に敵対することこそ罪であり、罪の中の罪、究極の罪であることを明らかにします。

前回も申しましたが、パウロの場合にそのことが顕著に表れています。パウロは律法に忠実で熱心な律法学者でした。イエス様を信じる者たちが律法をないがしろにするのを赦すことができず、キリスト者を見つけ出し、逮捕して裁判にかけ、罪ある者として断罪する働きをしていたのです。ところが、ダマスコ途上で聖霊の激しい働きに接し、復活されたイエス様に遭遇します。パウロは、イエス様の神の子としての栄光にひれ伏し、イエス様を信じる者たちを迫害していたのはイエスを迫害したのであり、それは神に敵対していたことであることを示されます。この体験によりパウロは自分が「罪人のかしら」であると悟ります。

「義についてとは、わたしが父のもとに去って、あなたたちがもはやわたしを見なくなること」(10節)

神に敵対することが罪であるとすれば、その反対に、神に喜ばれ受け入れられる在り方が義です。聖霊はユダヤ教のファリサイ派の人々、律法学者たち、長老たちが間違っていることを明らかにします。

ユダヤ教は、義とは律法を順守することであるとしていました。その結果、イエス様を律法に違反する異端者として処刑したのでした。ところが、神はイエス様を復活させて、イエス様こそ神の御心を行い、神に喜ばれる者として受け入れたことを公示されました。復活はイエス様の義の確証です。

「わたしが父のもとに去って行く」と表現されていますが、これはイエス様が復活して栄光の座に上げられたことを指しています。このことによってイエス様こそが義であると確証されたのです。
 

「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」 (11節)

「この世」であるユダヤの世界はイエス様を裁いて処刑しましたが、そのとき実は、イエス様を裁いた「この世の支配者」が、義人を罪ありとして処刑するというその不義のゆえに神によって裁かれたのです。新共同訳は、「この世の支配者が断罪されることである」と訳されていますが、他の訳は、「この世の支配者が裁かれた」と訳しています。

十字架の出来事は、実は「この世の支配者」が神によって裁かれた出来事なのです。その裁きはすでに行われました。ギリシャ語の原語は、裁かれたとして動詞は完了形が使われています。のちにエルサレム神殿がローマの軍隊によって崩壊しましたが、そのことをも射程にいれているということができます。その事実がユダヤ教指導層に対する神の裁きの現れなのです。

聖霊を知らない「この世」(ユダヤ教)の指導者たちは、神殿の祭司たちも律法学者たち、ファリサイ派の人々も、自分たちは律法に従って正しい裁きをしたと確信しています。イエス様を処刑したのも、イエス様を信じる弟子たち、キリスト者を告発し裁いているのも、律法に従った正しい裁きであると確信しています。しかし、聖霊が働く場では、復活されたイエス様の栄光が見えていますから、イエス様とイエス様を信じて言い表す者を裁く行為自体が、神に敵対する行為として裁かれているのです。

ヨハネ福音書では「裁き」は終末のことではなく、現在すでに始まっています(3:18~19)。神に属する者たちと神に敵対する者たちを「分ける」《クリノー》ことが「裁き」《クリシス》です。復活されたイエス様を信じる者たちの内に働かれる聖霊が、現在すでに始まっている「裁き」を見させます。ヨハネ福音書では、光と命の領域と死と闇の領域が厳しく分けられていますが、それはこの「裁き」の結果です。

 

3.12節 完全な勝利の予告

12節以下は、再度、聖霊の働きについて記されます。イエス様の十字架の死は、理解できないことであるのです。しかし、聖霊は、真理の霊として、十字架の真の意味を理解させてくださるのです。βαστάζειν 直訳は、「耐えられない」です。十分に理解できない。ここに啓示があります。聖霊は、真理の霊として、「耐えられない」者に堪える力を与えてくださるのです。聖霊によって明らかになされる知識ですね。理解不能だったものが、理解できる。哲学、医学、科学的知識、専門用語、ターム(terms)の熟練度です。

コリントの信徒への手紙第一 13章12節を読みましょう。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」

そういう理解ですね。顔と顔とを合わせて見る。そこに聖霊のお働きがあります。聖霊の導きに感謝し、従い、イエス様の十字架の贖いの恵みを真に感謝しましょう。罪の贖いを受けた者が真理を知るのです。

祈ります。