カテゴリー: 今週の説教

 

2024年10月27日仙台青葉荘教会礼拝

2024.11.03

ヘブライ4章14―16節

「大胆へ恵みの座へ」

牧師 野々川 藍

今日の聖書箇所の最後のところ、ヘブライ人への手紙4章16節は私たちに、大胆に生きることを勧め促しています。しかしそれは、「大胆に生きるために頑張って努力しよう」というのではありません。そうではなくて、「あなたがたは大胆に生きることができる、その条件は既に整っている、だからそうしよう」ということです。

どうしてそう言えるのでしょうか。その理由が、14節以下です。そこには「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」と記されています。

神の御子イエスが、偉大な大祭司として私たちに既に与えられている。それが、私たちが大胆に生きることができる理由です。

では、「大祭司」とは、どういう意味なのかということです。それについて、少し説明したいと思います。大祭司は、大雑把に言えば、祭司の親玉です。祭司は、人間が神を礼拝する際に、神と人間との間に立って、仲を取り持って、礼拝を成り立たせる役目をする人のことです。そんな祭司は、神の代わりに、人間に神のお告げを知らせたり、祝福を与えたりします。また人間の代表として、神に祈ったり、捧げものをしたりします。

つまり祭司は、神と人間の仲保者になって、神と人間の間にコミュニケーションを成立させるのです。つまり祭司の働きがなければ、神と人間のコミュニケーションは成り立たないということです。

人間は祭司の仲立ちがなければ、神の前に出ることができません。その理由は、人間が神に対して罪を犯しているからです。人間は、神によって命を与えられ、生きるための全てのものを与えられて、導かれています。にも関わらず、そのことを思わず、感謝せず、従おうとしないのです。人間は神の思いを無視して、自分の思いに生きることを喜ぶのです。それが人間の罪なのです。

つまり私たち人間は神を無視して生きているのです。神との関りに生きるのではなくて、自分の思いに生きる。それが、聖書のいう罪です。私たちの誰もが、その罪に陥っているからこそ、神をいつも無視しているのです。神を無視して生きるのは、神に敵対する行為です。そういう行為を、義しい御方である神はお怒りになるのです。

神は、人間を、神との交わりに生きる者、また神との眞話尻に生きるように、人間同士の関わりに生きる者として、創造されたのです。それが、神との交わり、人との関わりに生きるのではなくて、自分の生きたいように生きるなら、自分の神は自分と言い表しているようなものです。

そんな私たちだからこそ、そのままで神の御前に出ることができないのです。そのままの私たちでは、神と直接コミュニケーションを取って、神を礼拝することは赦されないのです。だからこそ、神に背を向ける罪ある人間と神の間に立って、仲を取り持つ祭司が必要だったのです。祭司は、人間が神に背を向ける罪を償うために、動物の命を献げ、その命によって神の怒りをなだめて、人間に対する神の恵み、祝福を乞うことをしていたのです。動物の命を捧げる祭司の働きがあってこそ、人間は神を礼拝することができるのです。神に背を向けて生きるということは、自分が生まれなくてもよかったと神に言っているようなものだからです。ですから、神を無視して生きる代償は、命でしか払うことは出来ないのです。

新約聖書は、そのような祭司としての働きを、神の独り子であるイエス・キリストが御自身の命を捧げたことで完了した、もう動物の命を捧げなくて良いようにして下さったことを語っています。実は、今日の箇所もそのことを語っているのです。14節の「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」という言葉は、「私たちは、いつも神に背を向ける私たちの罪の代償として動物の命を捧げて神と人間の仲保者となっていた祭司や大祭司とも違って、御自分の命を神に背を向ける罪の代償として捧げられて、父なる神の右の座に着かれた偉大な大祭司、神の子イエスが私たちに与えられている。」という意味です。

そのことを、この箇所も、そして新約聖書全体も語っているのです。そしてまさにそのことが、私たちが大胆に生きることができる根拠なのです。

だからこそ、今日の14節後半は私たちに対して、「私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」と、私たちに訴えかけているのです。

そして続く15節で、ヘブル書の著者は、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と語っています。

つまり神に背を向ける人間の罪のために、御自分の命を捧げることで、神と人間との仲保者になられた偉大な大祭司、神の子主イエスだからこそ、私たちの弱さに同情できない御方ではないということです。15節の「同情する」という言葉は、ただかわいそうに思うということではなくて、「共に苦しむ」という意味です。主イエス・キリストは私たちと共に苦しんで下さる御方であることが、15節の「同情する」という意味なのです。それを知ると、15節後半の「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」という言葉の意味が良く解ります。

この世を生きる私たちは様々な試練に遭います。苦しみや悲しみを味わいます。自分の弱さを思い知らされて絶望することがあります。神を信じて、信仰をもって生きる中でもそれは同じです。私たちの信仰はいろいろな出来事の中で絶えず揺さぶられ、信仰があるのかないのか分からないような状態になってしまうことがしばしばです。

しかし私たちが受けるそのような試練を神の子である主イエスも、私たちと同じ肉体をもって歩まれたこの地上の人生において味わい、体験して下さったのです。その歩みで行き着いた先が、十字架の死によって黄泉に降られたことです。そんな偉大な大祭司主イエスの命を捧げる、主イエスの神への執り成しによって、私たちは罪を赦され、神の恵みによって、神を礼拝することが赦されている今この時があるのです。だからこそ、大胆に恵みの座に近づくことが出来ている今この時があるのです。

では、「恵みの座」とは一体何でしょうか。それは神が王として、支配者として座っておられる玉座です。私たち人間は元々この神の玉座に近づくことができない者でした。神に敵対する罪人である人間は、神のみ前に出ることはできないのです。神の玉座は、私たちにとって元々は決して「恵みの座」ではありませんでした。むしろ恐ろしい「怒りの座」だったのです。だからこそ祭司が必要だったのです。神の怒りの座の前に進み出ることのできない罪ある人間のために、仲立ちをして、神の怒りをなだめてくれる祭司が必要だったのです。しかしそれはもう過去の話となりました。神の玉座は今「怒りの座」ではなくて「恵みの座」となったのです。それは、神の子イエス・キリストが、私たちのための偉大な大祭司となって、祭司や大祭司以上の働きを、つまり動物の命を捧げる以上の働きを果してくれたからです。神の独り子である主イエスが、御自分の命を捧げて下さったおかげで、神の玉座は私たちにとって完全な「恵みの座」となって、私たちはそこに大胆に近づくことができるようになったのです。それが、聖書が伝えている、主イエス・キリストによる救いなのです。

偉大な大祭司イエス・キリストは見返り、報酬を求めません。その代わり、主イエスが私たちに求めておられるがあります。それは私たちが、神との交わりに生き、それと同じように、隣人との関わりに生きるようになることです。それが実は聖書が私たちに与えようとしている自由なのです。

この世の自由は自分が生きやすいように生きることです。それを妨げとなると感じるものはどんどん切っていきます。神や隣人との関係も断ち切るのです。それが私たちの罪です。

生まれつきの私たちは、そういう罪の力に捕えられて、束縛されています。私たちがどんなに心を入れ替えて努力をしても、自分を中心に、自分を第一に考えて歩むことしかできないのは、神に背を向けて、自分が主人になって生きる罪に、束縛されているからです。自分が主人になって生きる時、自分の人生は自分で何とかしなければならなくなるのです。自分の人生を、自分で何とかするということは、自分の力に頼って生きて行くということです。そうすると、自分が何を得ることが出来るか。それが自分の人生の全てになります。そういった生き方の中では常に計算が働いて、つまり利益の計算、勝ち負けのパーセンテージの計算をしなければならず、私たちは大胆に、なすべきことを、勇気をもってすることはできません。自分が既に得ているものを失うことや、得ることが出来ない恐怖を真っ先に考えるからです。その恐怖する裏には、自分に自信を失うのが怖いという思いがあるのです。

しかし聖書は、自分が自分の人生の主人になって、自分の力に依り頼んで生きることが罪だと教えています。

その罪に支配されているからこそ、私たちは自分中心のエゴイズム、「自己中心」に陥るというのです。

私たちが自分の人生の主人は自分ではなくて、創造主である神だということを受け入れた時、私たちは、自分の力や、既に得たものに頼って生きる生き方をしなくなるのです。そして自分のものを失う恐怖や、得られない恐怖から解放されて、本当に大胆に生きることができるようになるのです。

大胆になれない理由は、自分で自分を生かさなければならないという思いに捕われるからです。だから失敗したらどうしようという怖れにとらわれたり、周囲の人々や世間の自分に対する目や評価が気になったりするのです。しかし自分の主人が自分ではなく、神になったならば、私たちはもはや自分で自分を生かさなくてもよくなります。自分のことは神に任せて、安心して大胆に生きることができるようになるのです。私たちが本当に大胆になれるのは、神によって生かされていることを知ることによってなのです。

私たちの人生の主人は、自分ではなくて主イエス・キリストなのです。主人である主イエスが、御自分の命を惜しまず与えて下さる程、私たちを守り、導き、必要なものを与え、養って下さるのです。

だからこそ、私たちはもはや失敗を恐れなくても良いのです。失敗したら人生はおしまいだと思わなくて良いのです。色々と失敗を重ねる私たちを、まことの主人である主イエスがいつも導いて下さるのです。そんな私たちは周囲の人々の目や評価を恐れる必要はないのです。私たちを最終的に評価するのは神です。人間ではありません。

神は、独り子イエス・キリストを与えて下さったほどに私たちを愛して下さっているのです。その神の愛のまなざしの中で私たちは生かされ生きています。だからこそ、人の目を気にしなくて良いし、世間の常識と呼ばれるものに束縛される必要もないのです。誤解のないように申し上げますが、何でも非常識なことをしてよいということではありません。常識を守ることは、隣人を生かす場合もあります。しかし時にこの世の常識は人の心を殺すのです。そういう場合、常識に逆らう道を進まなければなりません。

そういう勇気と大胆さが与えられるようになるのは、この世界と私たちの人生を本当に支配して導いておられるのは、主イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活によって救いを与えて下さった父なる神だという信仰です。

その信仰が、失う恐怖や、何かも得られない恐怖を乗り越えて、大胆に、神と隣人を愛し、神と隣人に仕えて生きることができる者に私たちを変革していくのです。

今日からの一週間、共に自分の人生を神にお委ねして、神の言葉が示す御心に沿って歩んで参りたいと願います。

最後に一言お祈りいたします。