カテゴリー: 今週の説教

 

2024年4月14日

2024.0414.Syuuhou

使徒言行録1章1―5節

「聖霊の下にいる私たち」

今日から使徒言行録を共に学びます。使徒言行録の著者はルカです。ルカは使徒言行録1章1節‐2節で、自分が書いたルカによる福音書の内容をまとめています。そこを見ますと、「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」そう記されています。

主イエスが生涯をかけて、父なる神のことを教えて、御自分の救いを指し示す奇跡の御業を成して、最後には十字架・復活・昇天の御業を成した時までのことを、ルカは、ルカによる福音書で書き記しました。そのルカによる福音書の最初の方には、主イエスの誕生と、洗礼者ヨハネの誕生のことが書き記しています。実はそれも、主イエスの生涯はどういうものであるか。それを教えています。

つまり、エリヤの再来である洗礼者ヨハネが、マラキ書3章24節の「彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」という預言。それを成就する主イエスの道備えをしたからこそ、神の独り子主イエスがこの世に来られ、父なる神のことを教え、御自分の救いを指し示す奇跡の御業を成し、十字架に架けられて殺され、三日目に復活し、40日間弟子たちと共に過ごし、死から蘇って、50日目に昇天されたところまで、ルカは第一巻としてルカによる福音書に書き記したのです。

使徒言行録は、その第一巻に続いている第二巻です。つまり、主イエスの生涯を通して、実現して下さった父なる神の救いの恵み、それを使徒言行録の土台としているのです。

ということは、使徒言行録を学ぶ時、私たちは、ルカによる福音書とのつながりを意識しなければならないということです。

実は、使徒言行録を学ぶ時、着目しなければならないことがあります。それが、1章1節―2節に記されている「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え」という言葉です。主イエスがお選びになった使徒たち。その人たちが使徒言行録の主人公です。

ルカによる福音書6章13節には、「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」そう記されています。これがルカによる福音書の特徴です。確かに新共同訳聖書を見たら、マルコによる福音書3章14節も、「使徒と名付けられた」という言葉が記されています。でも、多くの有力な写本を見て見ますと、マルコによる福音書には、「使徒と名付けられた」という言葉は見当たりません。

マタイ、マルコ、ルカの中で、一番最初に書き記されたはずのマルコによる福音書には「使徒と名付けられた」という言葉は無かったのです。それをルカが、ルカによる福音書で書き加えたのです。つまりルカは、主イエス御自身が、弟子たちの中から12人を「使徒」としてお選びになったことを強調しているのです。それが、使徒言行録と、ルカによる福音書の特徴なのです。別の言葉で言えば、それが著者ルカの特徴なのです。

じゃあ、「使徒」という言葉の意味は、どういう意味なのでしょうか。それは、「遣わされた者」という意味です。つまり、主イエスの意志で、弟子たちの中から使徒たちを選んで、遣わして、派遣したということです。その目的は一体何でしょうか。その答えが、ルカによる福音書24章45節―48節に書き記されています。そこを見ますと、「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。』」そう記されています。

つまり、苦しみを受け、十字架に架けられ、三日目に死者の中から復活した主イエスの罪の赦しを得させる悔い改め。それが、あらゆる国の人たちに宣べ伝えられていくために、主イエスは、使徒たちを選んで、遣わして、派遣したのです。

そんな使徒たちは、主イエスの罪の赦しという福音の証人として、エルサレムを始め、あらゆる国の人たちのもとに遣わされていきました。

それが、主イエスの意志だったのです。主イエスの意志によって、使徒たちが派遣され、福音が宣べ伝えられていったのです。そんな使徒たちの働きを書き記しているのが、使徒言行録なのです。使徒たちの言行、つまり、使徒たちの言葉や行いは、彼らが自分たちで思い立って計画をして、実行したのではないのです。そうではなくて、主イエスに選ばれて、主イエスに派遣された者として、主イエスの福音に基づいた言葉や、行いをなしていった。それが記録されたのが使徒言行録です。

そんな使徒言行録を学んで、自分のものにするということは、使徒たちと同じように、主イエスの福音に基づいた言葉や、行いをして、歩んでいくことを意味しています。

実は、使徒言行録の延長線上にあるもの。それが現代の教会の記念誌です。教会の記念誌は、主イエスの救いに与り、主イエスに遣わされた者として、主イエスの福音に基づいている言葉や、行いを大切にして歩んでいることを、記録したものです。

それはそうと、1章1節―2節の中にある「聖霊を通して指図(さしず)を与え」とは、一体どういう意味なのでしょうか。今日の箇所では、まだ聖霊は彼らに与えられていません。むしろ、「父なる神が約束して下さっている聖霊を待ちなさい、」そう4節で述べられています。そのことに気付くと、「まだ聖霊を受けていない使徒たちが、聖霊を通して既に指図(さしず)が与えられたというのはおかしい。」そう思うのではないでしょうか。

でも、少しもおかしいことではないのです。確かに、使徒たちの言葉や行動が、全世界の福音伝道のために用いられるようになったのは聖霊降臨以降です。確かにその時から、聖霊の力を受けて、力強く全世界の福音伝道をなしていく教会時代が始まったのです。

しかし、主イエスが昇天されて、聖霊降臨の出来事が起こる前まで、目に見える主イエスが共におられたのです。その主イエスが、聖霊降臨以降、聖霊にバトンタッチして、聖霊が弟子たちを導かれたのです。

使徒言行録の著者ルカは、聖霊を通して指図(さしず)が与えられて、天に上げられた日までの全てのことについて書き記せたのは、既にルカに聖霊が臨んでいたからです。

ルカによる福音書は、紀元57年―60年の間に書かれました。主イエスが昇天された後の、教会時代に書かれた手紙なのです。だから、「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図(さしず)を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」そういう言い方をしているのです。

でも、ルカによる福音書の中に記されている出来事そのものは、主イエスが昇天される前のことです。主イエスが実際に、目に見える形で共にいて下さっていた時代のことなのです。

だからこそルカは、ルカによる福音書24章45節で、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」そう書いたのです。しかし、聖書を悟らせるために心の目を開かせることは、主イエスが昇天された後の教会時代においては、聖霊の働きにより、実現するようになったのです。

今は教会時代です。だから私たちが聖書の御言葉を聴いて、主イエスの救いを信じる時、主イエスを遣わして下さった父なる神の愛を信じる時、そこには既に聖霊の働きがあるのです。

教会時代である今、聖霊が導いて下さらなければ、私たちは教会の礼拝に来ることも、主イエスを信じることも、信じたいと思うことも出来ないのです。私たちが今こうして礼拝を守ることが出来ているのは、私たち一人一人に、聖霊が働いて下さっているからです。

その聖霊を、主イエスは、ルカによる福音書24章49節で、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」そう言ったのです。実はこのことは、使徒言行録1章4節でも繰り返されています。そこには「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」そう記されています。「父の約束されたもの」とは聖霊のことで、「待ちなさい」というのは、使徒言行録1章5節の「聖霊による洗礼を授けられる」ことです。

聖霊を待てということが、ルカによる福音書の最後の方で述べられています。でも使徒言行録では、そのことが最初の方で述べられているのです。そこに、ルカによる福音書と、使徒言行録を結びつけるものがあるのです。

聖霊が与えられる約束は、ルカによる福音書では、主イエスの生涯の辿り着くところです。その一方で、使徒言行録では、聖霊が与えられる約束から始まっているのです。

つまり、約束の聖霊が、主イエスの昇天によって天から降ってきて、使徒たちの内に内住して、言葉や行動が、自意識から遠のいたものになり、神意識に根差したものに変えられていったのです。

私は最初の方で、「使徒言行録の主人公は、使徒たちである。」そう申し上げました。でも、正確に言えば、使徒たちは使徒言行録の主人公ではありません。聖霊が、使徒言行録の主人公なのです。使徒言行録は、使徒たちの働きを述べているように見えて、実際には、聖霊の働きを述べているのです。だからこそ、使徒言行録は聖霊言行録とも言われるのです。

ルカによる福音書の主人公は主イエスです。ルカによる福音書は、主イエスの父なる神についての教えと、主イエスの救いの御業のことが述べられています。でも、使徒言行録では、聖霊が主人公で、聖霊の働きや、聖霊の御業のことが述べられているのです。

使徒言行録の主人公である聖霊は、ルカによる福音書の主人公である主イエスが成し遂げた救いの御業を受け継いで、それを押し進めて、実現していっているのです。

ルカが、第一巻の福音書に続いて、第二巻の使徒言行録を書いた意味は、そこにあるのです。

つまり、使徒言行録を学び知るということは、聖霊によって、前進していく神の救いの御業に、私たちが同伴する人になっていくことを意味しているのです。

それはそうと、使徒たちは主イエスから、エルサレムを離れず、約束の聖霊を待つように命じられました。主イエスによって選ばれて、聖霊によって使徒として遣わされた彼らに、先ず命じられたことは、じっと留まって待つということです。

その理由は、聖霊が降り、聖霊が働いて下さらなければ、使徒は使徒としての使命が果たせないからです。神の救いを宣べ伝える働きは、自分の力、自分の努力、自分の工夫でなされていくものではないのです。詩編33編16節―19節にこう記されています。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる」

詩編33編16節―19節に記されている通り、自分の力や自分の才覚で、本当の勝利は得ることは出来ません。私たちを本当に救うことができるのは、私たちが持っている豊かさや、私たちが持っている力なんかではなくて、主なる神です。主なる神が、慈しみをもって目を留めて下さること。それが分からされてこそ、本当の神の救いに与って、神に与えられた使命に邁進(まいしん)していくことが出来るようになるのです。

だからこそ、聖霊を待つことは大切なのです。詩編33編20節―22節を見てみますと「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように。主を待ち望む我らの上に。」そう記されています。

実はこれが、約束の聖霊を待っている使徒たちの姿です。私たちが先ずなすべきことは、自分の能力や自分の工夫で何かしようという思いを捨て去り、静まって、聖霊の働きを待つことです。信仰とは、基本的には、神の御業を待つということです。

聖霊のささやきに耳をすまして聴くことです。この場合の聴くという意味は、耳+十字架+目+心で、聴くということです。そういう意味の聴くは、ただ受け身的に聞くことではないのです。英語で言えばアクティブレスニングです。つまり積極的に聴くということです。アクティブレスニングは、とてもエネルギーを使います。傾聴講座の時に良く言われることは、3分聴くことも難しいということです。人間は人の話を聴く時、沈黙を恐れずに待つということもままならないのです。人間はわずか3秒の沈黙すら出来ないのです。そして思わず、自分から何かしらアクションを起こしていってしまうのです。

でもそれでは、この使徒言行録に記されている、生き生きとした、聖霊の息吹に満たされた歩みは生まれないのです。

使徒言行録に描かれている初代教会の生き生きとした姿は、聖霊の働きを信じてじっと待つところに、神が与えられた成長と発展の姿です。

今日、私たちは、使徒たちが先ずエルサレムに留まり、約束の聖霊を待っていたその静かな落ち着いた姿を見倣い、それを実践していく必要があります。

でも、誤解しないで欲しいことがあります。それは、彼らは何の保証もない中で、ただじっと待っていたのではない。その証拠に、主イエスが、「約束の聖霊を待ちなさい。」そう使徒たちに命じられた時、約束の確かさが示されたのです。1章3節を見ますと、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」そう記されています。

此処に、主イエスが復活して、生きておられることを確信させたことが記されています。復活した主イエスが話した神の国は、「死後の世界に天国がある。」そういう抽象的な話ではないのです。主イエスが話した神の国とは、「私はあなたたちの罪のために、十字架にかかって死んだ。しかし、父なる神が死の力に勝利して、自分を復活させた。あなたたちが、わたしの十字架・復活を信じるのであれば、罪や死の支配から解放されて、神と、神を信じる人たちと共に、永遠に生きていくことが出来るようになる。」ということです。

主イエスが復活して生きておられるとは、そういうことです。主イエスを復活させた真(まこと)の支配者である神が、聖霊を送ると約束して下さった。主イエスが復活したからこそ、その約束は確かなのです。使徒たちは、主イエスの復活の御業を目の当たりにしたからこそ、約束された聖霊を静かに待つことが出来たのです。

私たちはどうでしょうか。私たちは、主イエスの復活の御業を本当に信じきれているでしょうか。確かに私たちは、使徒たちとは違っています。主イエスが目に見える姿で現れて、ご自分が生きておられるところを、実際に見たわけではありません。復活の主イエスを見る恵みが与えられたのは、主イエスの復活の後の、特別な四十日間を体験した使徒たちだけです。

その後、主イエスは昇天されて、今は天で、父なる神の右に座しておられます。

でも私たちは、使徒言行録の主人公である聖霊の働きの下(もと)にあります。聖霊は、昇天された主イエスに代わり、私たちを導いて下さっています。主イエスが成し遂げて下さった救いの御業を受け継ぎ、福音を前進させて下さっているのです。その聖霊が、主イエスに代って、今私たちを導いて下さっているのです。

聖霊が、父なる神が、独り子主イエスの命さえも惜しまず与えて下さる程、私たちを愛していることを教えて下さっているのです。そんな聖霊が、あなたは神の愛だけで十分満ち足りていないのか。神の愛の他に、まだ何かを求めているのか。神の愛の他に、まだ何かを求めているとすれば、あなたのその寂しさのブラックホールは一体何なのか。そういったことを、聖霊は私たちに優しく聴いてくるのです。そして聖霊は、私たちに安きあれ。そう言って下さる。

聖霊に導かれている私たちが、今、使徒言行録を学び始めたのです。ということは、使徒時代と同じように、教会が広がっていく体験、神の子としてのアイデンティティーが更に確立していく体験、それを聖霊がさらに成し遂げていって下さることを、信じてよいということです。

約束の聖霊の働きを信じて待ち望みつつ、ゆっくり皆さんと共に、使徒言行録を学んでいくことを通して、私たちそれぞれが、また、信仰共同体なる仙台青葉荘教会が、豊かな聖霊体験をしていくことが出来ることを、心から願い、祈っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。