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2021年10月17日 聖霊降臨節第22主日礼拝

2021.1017.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙6章1~11節

説 教  水と霊の洗い

 本日は、光の子礼拝です。例年ですと、教会学校の子どもたちとの合同礼拝です。また、礼拝後は光の子フェスティバルがあり、バザーやメダカすくい、ゲーム、カレーと軽食など楽しい催しがありました。しかし、新型コロナウイルス感染防止のために、教会学校はお休みしています。昨年もお休みしました。残念ですね。本当に、早く新型コロナウイルス感染が収束するように願いますね。

 さて、今日は教会学校の生徒である子どもさんが礼拝にいらしたことを考慮して、はじめに子どもさん向けのお話をします。

 先ほど、お読みしていただいた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙6章1節から11節まででしたね。ちょっと長い箇所でした。何が書いてあるのだろう。実は、先週もこの箇所から説教しました。「キリストにある新しい命」でした。

今日の聖書は、同じ言葉が何度も使われていますね。「その言葉は大切なことですよ」、ということです。二つありますね。

 一つは洗礼(バプテスマ)、もう一つは「罪に死ぬ」ということと「キリストと共に生きる」ということです。先週は、「キリストと共に罪に死ぬ」ということと「キリスト共に生きること」についてお話しました。8節ですね。

 今日は、洗礼(バプテスマ)についてお話します。

 さて、みなさん。外で遊ぶのが好きですよね。公園などですね。何をしますか? ボール遊び、砂場で遊ぶ。自転車に乗ったり、お遊戯をするの好きですよね。いっぱい遊んで、お腹がすいた。それでお家に帰ります。お家に帰るとまず、何をしますか? 外で遊んでいて手が汚れたり、ばい菌がついたらどうしますか? 手を洗いますね。うがいをします。外の汚れを落とすのです。何よりも、お母さんは手を洗うように言いますよね。

 それで手を石鹸で洗います。うがいをしますね。手とか体は汚れたら、水で洗えばきれいになりますね。お風呂でからだをあらいますよね。石鹸つけたり、シャンプーで髪をあらったりします。

 でも、こころが汚れたらどうしますか? 罪といってね。こころの中のけがれ、よごれシミというのがあるのですね。お友達をいじめたり、弟や妹を泣かせたり、おともだちのノートや教科書にいたずら書きをしたりとか。お父さん、お母さんの言うことを聞かないで、勝手なことをしてしまって叱られたり・・・

 法律といって、犯罪になることはしなくても、こころの罪ってあるのですね。そんな時、こころの罪をきれいにするために、何をしますか?

 「ごめんなさい」と言って、謝ることですね。悪いことをしたら、謝る。これはたいせつですね。

お父さん、お母さんに、お友達に悪いことしたら、謝りますね。

こころの罪というものがあるのです。目には見えないこころの中で犯す罪です。手や体が汚れたら、洗えばいいのです。こころの罪、こころのよごれはどうしたらいいでしょう?

こころは神様と結びついているのです。こころの罪は、神様が一番お嫌いになることですし、神様が悲しい思いをされるのです。こころのけがれ、よごれをきれいにするのは、神様だけなんですね。わたしたちは、自分のこころを切り開いて、水をかけてきれいにすることはできません。神様がご自分の手で目に見えない罪とけがれをきよめてくださるしかないのです。

それは神様を信じることなのですね。そして、神様にごめんなさい。自分のこころの罪、けがれを言い表すことなんですね。そうすれば、神様は赦してくださるのです。そして、赦してくださるしるしが洗礼(バプテスマ)なんですね。

 洗礼(バプテスマ)は、罪の赦しであり、罪で汚れたこころを洗う儀式なんですね。それは、水につかる。水に浸す。水に沈む、という意味があるのです。

 洗礼(バプテスマ)は、神様を信じると決心した人、神様とともに生きていこうと決心した人がその信仰の証しとして受ける聖なる儀式、それを聖礼典と言います。

教会の礼拝で、皆さんの前で、そのことを言い表し、水を灌いでくださるのですね。

 洗礼を受ける人は大人だけでなく、神様を信じる人は子ども構いません。神の子とされるのですね。お父さん、お母さんの許可があれば、洗礼を受けることは大歓迎します。

 お祈りします。

 恵みの神様。今日は、光の子礼拝です。フェスティバルはできませんでしたが、コロナが終わり、来年は光の子フェスティバルができるように導きください。こころのけがれが取り除かれますように。イエス様を信じて、神の子としてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

 さて、ここから大人向けにお話しします。

1.洗礼(バプテスマ)の意味

 今日の聖書は、3節「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けた」とありますね。結ばれるとは、イエス様とひとつになるということです。もちろん、これは、信仰の事柄です。比喩、たとえですね。

 先ほどの子でも向けの説教でも言いましたように、洗礼(バプテスマ)は、罪の赦しであり、罪で汚れたこころを洗う儀式なんですね。それは、水につかる。水に全身を浸す。水に沈む、という意味があるのです。

 洗礼(バプテスマ)は、神様を信じると決心した人、神様と共に生きていこうと決心した人がその信仰の証しとして受ける聖なる儀式、それを聖礼典と言います。

教会の礼拝で、皆さんの前で、そのことを言い表し、水を灌ぐのです。

 聖書には、キリストと共に葬られるとか死ぬとありますが、本当に死んで墓に葬られるのではありません。信仰の契機として、キリストと合わせられることを言うのです。キリストに結ばれることが一番大切なことです。

 これも比喩、たとえですが、夫婦のことですね。結婚は夫婦、男と女が一心同体となるといいますね。本当に仲の良い、愛し合った夫婦は、そのように形容され、譬えられます。結び合わせられるのです。愛によって。教会とキリストの結婚、花婿であるイエス様、花嫁である教会というたとえもあります。

 信仰はキリストによって合わせられ、結び合わされ、ひとつとされるのです。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2章19,20節)

 2.洗礼(バプテスマ)は救いの証し

洗礼(バプテスマ)自体が救いではないということ。これは大切なことです。イエス様が自分の罪の贖いとして十字架に架かられたことを信じ、言い表すことによって義とされると聖書にあります。

 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死人の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。ローマ10章9節

 信仰によって義とされ、救われているのです。その証しが洗礼(バプテスマ)ということです。

  洗礼の水は罪を赦し、罪で汚れた心を清めるという象徴です。神に背き、逆らってきた生き方、それは自己中心の生き方で、その結果は滅びです。罪は、わたしたちの心と身体、精神を汚し、蝕み、ついには滅びに至らしめるのです。

 その罪が赦される。まったく新しい人となる、新しい生き方が始まる、第二の人生を生きるといってもいいでしょう。そこから罪赦された人への神の恵みであります。

 そのことを罪に死に、キリストにあって新しく生きるというのです。

3.洗礼(バプテスマ)の種類 ― 水の象徴行為

バプテスマは、具体的には水の中に入ります。浸かるのです。それで死を意味します。水の中に全身浸かることで、それは墓の中に葬られたということを意味するのです。水から上がったときに、生き返るのです。それはまた、甦って墓から出ることを意味します。今まで説明した通りです。

そこで、洗礼の種類について説明します。バプテスマには三つの種類があります。

①滴礼 ②灌水礼 ③浸礼 ですね。

 仙台青葉荘教会は、代々滴礼で洗礼式を行っています。

そこで、こういう疑問が起こります。

 クリスチャンになるためには浸礼、全身、水に浸かるバプテスマを受けなければ本当の救いにはならないのではないか、という問題です。

 先ほど申しましたように、これは比喩、象徴行為、儀式でありますので、実際にわたしたちが死んだのではありません。罪に死に、キリストに生かされるという信仰こそが大切なのであります。

 残念ながら、世の教会ではバプテスマをめぐって意見が一致しないことも事実です。全身浸かるバプテスマでなければ、本当のバプテスマではないと主張する教会があります。それ以外の洗礼を認めず、無効であるというのです。

 事実、その種の教会に出席したりすると、転会するとき、そのことを指摘され、その教会の会員になるために、洗礼を受けなおさなければならなくなるのです。再洗礼です。それは自分が信じ、育ってきた教会の信仰の否定となります。注意しなければなりません。

 何度も申しますが、イエス・キリストをわたしの主、救い主であると信じ、公に言い表し、信仰告白ですね、そのことが心の深くまでなされた時、いかなる形の水の洗礼であっても、神の救いのみわざは成就しているのです。

 洗礼を受け、クリスチャンになっても、残念ながらクリスチャンになる前の生き方に戻る人がいます。いろいろな躓きや事情によって教会から離れ、キリストを主と告白することをやめ、キリスト教を棄てる(棄教)人たちがいるのも事実です。元の木阿弥と申しますか、信仰以前の生活に戻る人たちもいるのです。罪を悔い改めで、罪を赦されても、やはり罪を犯すことがあるのです。人間は完全ではないからです。

 全身を浸かるバプテスマを受けたからといって、その人たちが終生信仰を全うしているかというと必ずしもそうとはいえません。むしろ、わたしたちが行っている滴礼(頭に水を注いだり、滴らせる方法)のバプテスマと変わりません。

 大切なことは、キリストの霊をいただいているかということです。ローマ書8章でこうあります。肉の人と霊の人ということで、「クリスチャンはキリストの霊を持っている人である」というのです。「キリストの霊を持たない人はキリストに属していません」。キリストの霊とは神の霊であり聖霊です。神様ご自身から直接、聖霊によって、バプテスマを授けていただくのです。こころの底にあるけがれを取り除かれ、清くされる。これが聖霊のバプテスマというのですね。

 水と霊によって洗われるのです。イエス様は言われました。

「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」

(ヨハネ3章5節)

水は洗礼の水と理解することができます。悔い改めの洗礼ですね。霊とは御霊、聖霊をいいます。聖霊によってバプテスマにあずかる。これが救いであり、義とされることであり、神の国である永遠のいのちをいただくことであるのです。

 キリストと共に死に、キリストと共に生きる。そこに水と霊の灌ぎ、洗いがあるのです。