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2022年1月9日 降誕節第三主日礼拝

2022.0109.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙7章1~6節

説 教  新しくされた人生

 昨年からローマの信徒への手紙を連続講解説教していますが、11月28日からアドヴェントに入り新年1月2日までクリスマスの特別行事のためローマ書を中断していました。クリスマスを恵みのうちに過ごし、新年を迎え、今は平常の歩みに入りました。そこで、ローマ書を再開いたします。

 ローマの信徒への手紙のエッセンスは何かと申しますと、「信仰義認、キリストの十字架の恵みを信じる信仰によって救われる。これが律法を超えた新しいいのちの始まり。これが福音である」ということです。イエス・キリストの十字架によってもたらされた神の恵みは特別の恩寵として、キリストにつながる者に新しいいのちを与えるのです。それは特別の恵みなのです。なぜなら神が人となれ、その方がわたしたち罪ある人間とすべての被造物のために十字架にかけられたのです。そのかたこそ、救い主イエス・キリストであります。三日に甦り、天に昇り、再臨される。これが福音であります。

 そこでこういう定義が生じるのです。「クリスチャンとは何か?」

 その問いかけに対して、こう答えるのです。「クリスチャンとは、神の恵みによって新しく生まれ変わったものである」。

 ローマの信徒への手紙の著者であるパウロは、このことを、手を変え、品を変え、言葉を尽くして説明します。今まで学んできた通りです。そこには、律法という規則を守ることに汲々とし、肝心な神の愛と恵みを忘れてしまってはならない。むしろ、信仰によって神の義とされること。キリスト者は、罪に死に、キリストに生きている者である。律法の奴隷ではなく、キリスト・イエスの義の奴隷として、神の賜物であるイエス・キリストの永遠のいのちをいただいているのだと宣言するのです。

 

洗礼のたとえ 死といのち 

6章4節

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたよ うに、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

6章8節

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 さて、7章に入って、パウロはキリスト者の新生(新しく生まれ変わった者であるというテーマ)をもう一度別の言葉で説明します。それは結婚ということです。結婚のたとえを用いて、律法と福音を対比し、福音の豊かさ、高さ、広さ、深さを謳歌いたします。

 1.結婚のたとえ

 牧師として結婚式を執り行うことがありますが、式を執り行う度に感動を受ける言葉があります。誓約です。「あなたは病める時も、健やかな時もこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか」という誓約の言葉ですね。

そして、結婚の宣言をします。結婚は神が結び合わせたものですから、人は離してはならない。

結婚は男女の出会いの神秘を表しますね。父母を離れて、新しい家庭を築いていく。夫婦が人間として向き合い、助け合って生きていく。

ところで、結婚生活をしていくうちに、夫婦、家庭といろんなことがあるものです。山あり、谷あり。試練や誘惑があります。夫婦の葛藤や子育ての問題が襲ってきます。何も問題がないというのは、ありえないといってもよいでしょう。

その中で、夫婦の危機というのがあります。異性の問題です。巷間では不倫と言われます。キリスト教では、この問題に対してどう教えているのでしょうか?

旧約聖書・律法は、不倫(姦淫)に対して非常に厳しい考えを持っています。不倫(姦通)を冒したものは死刑になる。これが律法です。

結婚は神と人との関係を表すことでもあるのです。信仰とはある面、神との結婚です。神以外の神々にこころを寄せることは、姦通を意味しました。神への裏切りに当ります。背信ですね。そこで、神の怒りに遭うのです。これが裁きとなります。

これと同じで、夫であれ、妻であれ、配偶者以外の者にからだもこころも寄せることは、パートナーに対する背信、裏切りであり、姦通として、結婚の破れになるのです。

聖書は、この点は非常に厳しいものがあります。

今、パウロはこの結婚に関する律法の教えを引用しながら、福音の真髄を説明いたします。結婚は、夫が妻以外の他の女性、妻が夫以外の他の男性と一緒になると、姦通の罪を冒すことになるのですが、夫または妻が死ねば、律法から解放されて、他の異性と一緒になることができる。律法の効き目は、生きているだけの間であるというのです。

「妻を愛していたから、もう結婚はしません」という人もいるでしょう。「夫を愛していたから、他の男性を愛することはしません」という女性もいるでしょう。

でも、律法は「他の異性を好きになって、一緒になることはできますよ」となるのです。

1節「律法とは、人を生きている間だけ支配するものである」からです。

死んだ者に対して支配は及ばないのです。

2.キリスト者は律法に対して死んだ者である

 そこでパウロは、キリスト者は「律法に対して死んだ者となった」というのです。

4節

ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。

律法に対して死んだのだというのです。律法が死んだというのではありません。もう律法は必要でないとも言いません。今まで律法に従っていた人が死んだのです。だから、もはや律法に支配されていない。これがパウロの論法です。

このことは、6章で洗礼をたとえとして説明しています。水の中で死に、水からあがって甦る。罪に死に、キリストにあって復活する。これがキリスト者です。

新しいいのちを生きているキリスト者は、新しいいのちを与えられたイエス・キリストに結ばれている。

3.律法から解放されてキリストに生きる

5節、6節

わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、““霊””に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

 パウロは律法と福音を別の言葉で言い換えています。それは、肉に従う、文字に従うという表現です。これが律法に従う生き方です。それは、罪へ誘う欲情を催し、死に至る実を結ぶものでした。これに対して、キリストの福音は、律法に対して死んだ者となり、従って、律法から解放されているのですが、律法に死に、福音によって甦り、生かされるのです。律法が文字に従う生き方であるなら、キリストの福音は霊に従う、新しい生き方となるのです。

 これが、わたしたちが信じるキリストの福音です。霊に従うとは、キリストの霊である聖霊によって歩むということであり、聖霊に導きのもとで生きることを意味するのです。

 文字に従うということで、もう一箇所、有名な聖句がありますね。コリントの信徒への手紙二 3章です。

 ここでは、新しい契約の奉仕者としての生き方を託されたキリスト者は、そのこころに墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙だと記しています。

 また、このようにも記されています。6節

神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

このように、文字は人を萎縮させ、その才能や賜物を十分に発揮させないものがあります。むしろ、そこから解き放ち、自由にして生き生きとしていのちを発揮する。これが聖霊によって歩むことなのです。

 17節

主の霊のおられるところに自由があります。 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 キリスト者の人生の最終目標(ゴール)があるとすれば、ここですね。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる」

 クリスチャンは新しく生まれた者である。それは古い基準・古い価値観のもとで生きるのではなく、新しい価値観、新しい生き方でもって生きる人であるということです。わたしたちは新しくされているのです。

 

付録

救いの歴史 救済史、救拯史、救いの経綸から律法と福音を説き起こす必要がある。

日本人であるわたしたちが聖書、とくに新約聖書だけでよいのではないか? なぜ旧約聖書、それも律法について深く学ぶ必要があるのか?

マルキオン(100年-160年頃) 聖書正典を最初に唱えた人。ルカによる福音書のみ、パウロ書簡を正典とした。旧約聖書は必要ないと大胆に語った。賛同者が多く出た。

わたしたちの信仰はそうではない。旧約聖書と新約聖書とは連続性があり、統一性がある。神の言葉として霊感されたもの。旧約39巻、新約27巻 66巻

啓示

日本基督教団信仰告白

 律法の問題 律法と福音

神が人となられた。旧約の完成、成就である。