2024年9月15日仙台青葉荘教会礼拝

2024.0915.Syuuhou

「担い、背負い、救い出す神」

イザヤ46章1-4節

[概説]

今日、皆様と学ぶ箇所は、人間が作り出した神々と比べて、真の神はどういうお方であるのか。そのことが語られています。

[区分]

1~2節  重荷となる神々

3~4節  重荷を担われる神

[内容]

 今日は、3ポイントメッセージをします。

1.まずは2節の「重荷を救い出すことはできず」という言葉より、「偶像は、重荷から人間を救い出すことは出来ない」そのことを覚えたいと思います。

古代中近東では、「戦争は、それぞれの国の、神の戦いである。」そう考えられていました。なので、他国との戦争になった時、勝利した側が、最初にしたのは、相手の国の偶像を、こなごなに砕いて、自分たちの勝利を宣言することだったのです。何故そのようなことをしたのでしょうか。それは偶像が、自分たちの民族のアイデンティティーであり、誇りとしていたものだったからです。だからこそ、偶像を砕く行為が、相手の全てを奪ったことを示す行為だったのです。なので、敗北した国は大変だったのです。

一刻も早く逃げないと、自分達の命が危ないのに、自分たちの神を、つまりは偶像を、そのまま置いて逃げることは出来なかったのです。大慌てで、獣や家畜に偶像を背負わせて、逃げないといけなかったのです。その混乱振りがよく現われているのが、リビングバイブルです。

リビングバイブルの1節~2節を見ますと、「バビロンの偶像ベルとネボは、牛のひく荷車に載せられ、遠くへ運ばれます。ところが、牛はよろめき、荷車はひっくり返り、神々は地面に放り出されます。自分が転げ落ちることさえ防げないのに、彼らを拝んでいる者をクロスの手から救い出すことなど、できない相談です。」そう記されています。

 つまり、自分たちが命を懸けて、必死に守ろうとした偶像は、自分たちの国の崩壊に直面した時に、何をしてくれる訳でもなく、偶像は、偶像を守ろうとしていた人たちの思いをよそに、倒れて転がってしまい、偶像を守ろうとした人たちの重荷を解放するどころか、かえって、重荷になっていたのです。

 これは、決して笑い事ではありません。私たちも、古代中近東の人たちのようなことをしてしまいがちなのです。

私たちも、自分のアイデンティティーや、誇りを象徴している偶像。それを、必死になって守ろうとしていることがあるのです。私たちのアイデンティティーや、誇りを象徴している偶像として、お金、社会的地位、持ち物、仕事、能力、人脈などを挙げることが出来ます。それらのものが無くなったら、自分が自分として、この世で立っていけないと思って、必死に守って、倒れかけてはいないでしょうか。

有名な三浦綾子さんも、目に見えない偶像があって、それを追い求めていて苦労された時があったのです。三浦綾子さんの偶像の一つは、病気から解放されて楽になることでした。健康な体が手に入りさえすれば、全てうまくいくと思ったことがあったのです。しかし、三浦綾子さんが、主イエスの十字架の愛を神に知らされた時、病気から解放されて自分が楽になれば、きっと幸せになるという思いというのは、自分が作り出した偶像であるということに気づいたのです。その気付きにより、自分の病気に対する再解釈が起こったのです。再解釈がなされた病気の告白を、三浦綾子さんは、こう述べています。

「私は長い病気の間、この世に病気がなければ良いと思った。自分の人生に、こんなに病みつづける日が来ようとは・・と嘆いたこともあった。だが、今となっては、自分の人生をふり返ってみるのに、その受けた試練は、宝石のようなものだと感じている。もしも今まで、ただの一度も試練に遭わず、つまり愛する人との死別にも遭わず、病むことを知らず、思いのままになる人生であったとしたら、私は涙というものを知らない人間になったであろう。」

 これさえあれば自分のアイデンティティーが保てる。これさえあれば、自分の誇りが保てる。これさえあれば、自分の生活が豊かになる。そういう偶像を握りしめていては、人は、重荷からは決して解放されません。

本当の神と出会って、どんな自分であっても無条件で愛されていることを知って、自分の偶像を手放した時に、自分の重荷から解放されるのです。

自分の偶像を手放して、自分の重荷から解放された時に、自分の隣人に、重荷から開放された喜びが、自然に伝達していくようになるのです。自分の重荷から解放されること。それが宣教の奥義なのです。

そして、その宣教の奥義を得る秘訣こそが、主イエスの無条件の愛である、主イエスの十字架の救いの御業を日々深く知らされていくことなのです。

2.次に「わたしが担い、背負い、救い出す。」という4節の言葉より、「神が担い、背負い、救い出す。」そのことを覚えたいと思います。

先程、私は、「自分の偶像を手放して、自分の重荷から解放された時、自分の隣人に、重荷から開放された喜びが、自然的に伝達していくようになる。それが宣教の奥義である。そして、その宣教の奥義を得る秘訣が、主イエス主イエスの十字架の救いの御業を知らされて、偶像から解放されていくことである。」そのように申し上げました。

でも、現実的には、とても難しいのではないでしょうか。勿論、「主イエス主イエスの十字架の救いの御業を知らされれば、偶像から解放されていく。」のはその通りです。そのことを、私は一切疑ってはいません。でも、私たちは罪人なのです。主イエスの十字架の救いの御業を知らされたと思ったその次の瞬間、偶像を堅く握りしめてしまっているのです。それが、罪深い私たちの現実です。偶像を手放せる訳がない。「偶像を手放すのは、無理!」そう言い切っても過言ではないと思います。

私たちは、つい目先の不安に心が揺さぶられて、これさえあれば安心という偶像にしがみついて生きようとするのです。しかし偶像は、人間が造り出したものであったり、安心感を保証する何かであったりします。それに頼るということは、自分の力に頼るということです。自分が目利きであることを自負しているのです。自分を過信しているところに、神共にいましという信仰は在りません。神よ神よと口では言いながらも、神不在なのです。そういう問題がを、イスラエルが抱えていたが故に、イスラエルの国は滅んだのです。

イスラエルは、国、友人、家族、財産、社会的地位、民族の誇り、伝統等、全てを失ったのです。そのことが起こったという事実は、聖書の神を慕う人にとって、正直、途方にくれる衝撃的現実ではないでしょうか。

しかし、聖書の神を慕う人にとって、朗報ともいうべき、驚きの事実が、3節にあります。それは、「負われ」という言葉です。3節の「負われ」という言葉。これは、1節の「負わされ」という言葉と、同じ言葉が使われています。つまり、人々の迷惑となる荷物として「負わされる」偶像と、私たちが生まれた時から「負われる」神が、対照的に書かれているのです。

つまり、すぐに偶像に心を奪われ、疲れてしまいがちな私たちを、天地を創造された神が、生きて働いておられて、最初から最後まで責任を持って、私たち人間を負って、救い出して下さるということです。その宣言が、3節~4節に記されている「生まれ出た時から」、「胎を出た時から」、「老いる日まで」、「白髪になるまで」、「担い」、「背負い」、「救い出す」という言葉なのです。

イスラエルの民が、偶像に心を奪われて、神に背を向けて、神を悲しませても、人生に挫折して信仰を失っても、苦しみのどん底で、孤独を感じていても、神は天地創造以来、イスラエルの人たちを見捨てないのです。イスラエルが滅びた時も、イスラエルの人たちを抱え込まれたのです。そして今も、これからも、イスラエルの人たちを抱え込まれるのです。神は私たちに対しても、そのようにして下さる御方なのです。

それはそうと、4節の「背負い」という言葉も、極めて重要な言葉なのです。原文の「背負い」という言葉は、重い荷物を、苦労して運ぶときに使う言葉なのです。つまり、神だから簡単に軽々と、私たちを背負うのではないのです。

偶像をすぐに愛してしまいがちな、不真実な私たちを愛して、「背負う」ことは、かなりの痛みを伴うことです。とても忍耐が必要なのです。

でも神は、労を惜しまず、脂汗をかいて、傷ついて、涙を流しながらも、最初から最後まで、私たちと関わり続けて、私たちを救って下さるのです。聖書の神は、そういう御方なのです。

そうまでして、聖書の神は、「わたしが担い、背負い、救い出す。」そう宣言して下さっているのです。それ程までに、私たち人間一人一人を、愛して下さっているのです。そういう事実があることが、私たちの安らぎであり、心の支えなのです。

私たちは、信仰が与えられていても、生きている中で、辛く、悲しい事柄が沢山あります。もう立ち上がれないと思って、苦しむ時があるのです。そんな時、私たちは、これさえあればという目に見える偶像に、ついつい助けを求めてしまうのです。そういう現実的問題が、生活の中に出てくるのです。

でも、私たちは、そんな状態になっている時、「そうなってはいけない!」そのように一人で格闘する必要はないのです。自分一人で格闘しても、人間は、罪に勝つことは出来ません。イスラエルのように滅びるのがおちです。 

私たちは、格闘せずに逃げれば良いのです。「え?」そう思われるかもしれません。でも、全てを神に任せるとはそういうことなのです。

神は、人間の罪深さを知っておられるからこそ、脂汗をかいて、傷ついて、涙を流しながらも、「私が担い、背負い、救い出す。」そう宣言しておられるのです。その神に、私たちが背負われてこそ、私たちは強くなれるのです。

ある20代の女性の話です。彼女は礼拝に毎週出席して、祈祷会にも、ほぼ毎週参加していた信徒さんでした。そんな彼女が、ある時を境に、教会のある方に対して憤りを持ってしまったのです。その憤りが、全然消えなかったのです。そのため、教会に行っても、その人がいるから楽しくなかったのです。そればかりか、憤りを引きずっている自分が、キリスト者として、とても情けなく思えて、自分が嫌になっていたのです。だから、相手を赦すことが出来るように、必死に毎日祈っていたのです。でも、赦さなければと、強く思えば思う程、赦すことが出来ない自分に自己嫌悪して、疲れ果てて、とうとう教会に行くのが嫌になってしまったのです。そんな時、ある牧師が、「赦せるようになりたいという願いは、あなたの願いであって、あなたの心からの本当の祈りではない。赦せなくても良い。神の時がある。自分で他者を赦すことが出来ない罪人だからこそ、主イエスは辱められ、痛み、十字架に架かられた。」そのように、彼女に言ったのです。その時、彼女は、「そっかあ。赦せなくても良いのだ。神の時に任せよう。」そう思ったのです。その時から、彼女は、本当の意味で神に解放されて、憤りを持っていた相手のことも気にならなくなったのです。つまり、彼女は憤っている相手に、気持ちがいかなくなったのです。そして、そのことが、彼女の気持ちが、今まで以上に教会に向かうことになっていったのです。

私たちは、神の無条件の愛の暖かさ、つまり、十字架の愛のあたたかさを感じた時に、自分で何でも抱え込んでしまう自分の弱さ、愚かさ、罪深さに気付かされるのです。そのことに気付かされた時、自分が頑張って何かを負わなければならないのではなくて、自分がこの世に生まれ出た時から、ただただ私たちの造り主なる神によって、自分が負われ続けてきた事実に、気付かされるのです。

その事実に気付かされた時、肩の力が抜けて、逆に神にあって頑張っていける人へと、神の力によって変えられていくのです。

私たちは、神に背負われてこそ強くなれるのです。だからこそ、2ポイント目の冒頭で私が言ったこと。つまり、なかなか偶像を手放すことが出来ない現実があったとしても大丈夫なのです。何故なら神が、脂汗をかいて、傷ついて、涙を流しながらも、「私が担い、背負い、救い出す。」そう宣言しておられるからです。

それが分からされている人であれば、たとえ罪深い人であったとしても、罪深い自分なりに、精一杯の応答を神にしていくようになるし、していきたいと願うようになるのです。

私たちの造り主である神が、私たちを担い、背負い、救い出すことを分からされたなら、そこに怠惰な信仰生活は生まれないのです。

3.最後に、「私」という4節の言葉より、「私がなすと宣言する神に、心を向ける大切さ」を覚えたいと思います。

 原文で見ますと、「私」という言葉が、4節だけで10回も出てくることは驚きです。でも、新共同訳聖書ではかなり省略されていて、3回のみしか「私」という言葉が出てきていないのです。しかし、新改訳聖書では、「私」という言葉が、10回の内、5回出て来ています。なので、新改訳聖書を読んでみます。そこにはこう記されています。

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(新改訳聖書)

 つまり4節は、「他の誰でもない!このわたしこそがあなたを持ち運ぶのだ!まさにこのわたしこそが救うのだ!」そういうとても強い意志を表す、宣言のような言い方になっています。神は私たちに、どんなに裏切られても、見放されても、絶えず御自分の存在を、私たち人間に対して示して下さるのです。

神は、偶像とは違って、私たちと関わって、自分が「担い、背負い、救う」神であることを、常に私たちに教え諭すのです。

 旧約時代、神は、出エジプト、アッシリヤ捕囚、バビロン捕囚を通して、愚かな罪深いイスラエルの民を、救い出しました。

新約時代では、御自分の独り子である主イエスを十字架につけて、御自分の独り子、主イエスの命までかけて、神は、救いを完成されました。

そして、将来においては、再臨を通して救済なさることを、神は私たちに、聖書を通して教え諭しています。

神は、御自分が痛みながら、人間の歴史を背負って、私たち人間を、「担い、背負い、救い出す」神なのです。そういう測り知れない、神の恵みの御手の内に、私たちの人生はあるのです。

[結論]

人に運んでもらわなければ何も出来ない偶像は、私たち人間を救うことが出来ないどころか、私たちを疲れさせるだけのものでしかありません。しかし、主イエスの十字架という神の無条件の愛を知って、本当の神と出会った時、私たちは偶像を手放すことができて、再解釈が起こって、重荷から解放されるのです。とはいっても、罪深い私たちは、たとえ主イエスの十字架という神の無条件の愛を知って、本当の神と出会ったとしても、そう簡単に偶像を手放すことが出来ません。その結果、この世で生きている中で起こってくる、辛い事柄、悲しい事柄に対する再解釈が起こってこない現実を抱えています。

しかし、そのようなことは、すでに神はご存知なのです。

私たちのそれ程までの罪深さを知っているが故に、生まれる前から、この世の終わりの時まで、「担い、背負い、救う」という宣言を、神はして下さっているのです。そんな私たちを追ってやまない神の愛に目を留める時に、私たちは、肩の力を抜くことが出来て、神に希望を持って、自分たちなりの精一杯の応答を、神にしながら歩んでゆけるようになるのです。

私たちの人生は、「私だ!私が担い、背負い、救い出す」そう宣言される神の恵みの御手の内にあるのです。そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。




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