2023年1月29日 降誕節第6主日礼拝

2023.0129.Shyuuhou

聖 書  出エジプト記12章29~36節

説 教  神が過ぎ越される

 本日は出エジプト記12章29節から説教いたします。前回は、昨年の11月20日アドヴェントに入る直前に、出エジプト記12章1~28節から説教しました。説教題は「始まり」です。何が始まるのか? 新しい歴史の始まりです。創世記においては、神が天地を創造され、アダムとエバを土くれから創造された。人間の歴史の始まりです。

 出エジプト記において、400年もの長い間、エジプトにて奴隷状態にあったイスラエルの民を神は解放し、乳と蜜の流れる地カナンに導かれる。いわば、救いの歴史の始まり。神がイスラエルを救おうと歴史に介入された。その始まりであります。

 ちなみに、再度、神が歴史に介入される時があります。いつのことでしょうか。クリスマスですね。神が人となられ、そのイエス・キリストを通して、全人類を救おうとされた。これが第二の介入です。十字架ですね。

 ルカによる福音書9章28節以下では、モーセとエリヤがイエス様と語り合っている光景を記しています。以下31節をお読みしましょう。

二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスとそばに立っている二人の人が見えた。

この栄光に輝く姿をしているイエス様とモーセとエリヤは何を話し合っていたのでしょうか? 「エルサレムで遂げようとしておられる最期」です。ギリシャ語原典では、この言葉は「エクソドス」です。エクソドスとは、直接的には死とか終わり、旅立ちという意味ですが、旧約聖書では、「エクソドス」は文字通り出エジプトのことなのです。すなわち、第二の出エジプトのことです。それは、神の救いの実現、救いの達成、成就なのです。英語では、fulfillment と訳されています。

いつも申し上げていますが、この出エジプトの出来事がイエス様の十字架の贖いが連動しているのです。旧約聖書の完成、これが十字架であるということです。

少し先走りました。

さて、11章では、神はモーセに最後のわざわいをエジプトにくだすと予告されます。それまで9つの災いを下して、神の奇跡としるしを示されました。その度に、ファラオはモーセの要求を受け入れるのですが、すぐにこころをかたくなにして、拒むのです。そして、最後の災い、10番目の災いです。それが主の過越しです。12章11節ですね。

これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」

こうして29節になり、いよいよ過越しとなるのです。

真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。

「始まり」神ご自身の御手による救いのわざ、それはイスラエルにとっては奴隷からの解放であり、救いであります。しかし、エジプトにとっては、神の怒りの鉄槌が下されたのです。神の裁きであります。文字通り、エジプトの滅びと破壊となる。神の絶大な力の行使がここにあります。神は生きておられる。その力をあらわされたのです。

今日の説教題は「神が過ぎ越される」です。過越しは、通り過ぎることです。

鴨居に小羊の血が塗られている家には、主は通り過ぎてしまわれるのですね。血が目じるしとなります。血が塗られていない家には、通り過ぎるのではなく中に入られて、初子の命を奪われる。初子の死です。子どもも赤子も、大人でも老人でも、初子は死んでしまうのです。初子とは長子のことですね。人間ですと長男、動物ですと最初に生まれる子です。それが死んでしまう。断たれるのです。いのちの断絶でもあります。

そんな残酷なことがあるのでしょうか? これは恐るべき審きです。それゆえに、31節。過越しの結果ですね。

 ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが 願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」

エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。

ファラオはやっとイスラエルを去らせることにしたのです。しかし、最初の災いに至る交渉の時は、5章1節にあるのです。

「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせてください』と」

こうして、神はいろいろな災いを行われたのです。7章16節

『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしに仕えさせよ』

「祭りを行う」も「主に仕える」も、神を礼拝することです。いわば、信仰の契機です。

自由になること、解放されることは、神とイスラエルの民の信仰共同体を形成するためであることが分かります。

エジプトから解放される神の言葉。

12章の1節から28節まで、神はモーセにその意味の大切さを語られました。どれだけ重要なのか。

14節「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」

17節、24節と3度繰り返されています。

1.永遠に守るべき定めとして

2.主の祭りとして祝うこと。祭り、喜びですね。解放です。

3.代々にわたって守るべき不変の定め

 過越しは、死といのちの選択です。小羊の血を鴨居に塗った家には、神は過ぎ越されますが、血が塗られていない家には、初子に死が訪れるのです。小羊の血が死と命を分けるのです。

 小羊の血をほふり、その血がいのちと死を分ける。神のさばきと救いのみわざであります。その小羊の血こそ、神の子イエス・キリストの十字架を意味します。

 これは新約の恵みです。

最初にご紹介したルカによる福音書9章28節以下では、モーセとエリヤがイエス様と語り合っている光景を記しています。キリスト者は、この第二の出エジプトにおいて、イエス様の血潮によって罪から解放され、神の国建設の使命を教会に持っています。

出エジプト記の主の過越しにより、イスラエルは代々に亘ってこの過越しを祝います。現在に至るまでイスラエル人は守っているのです。

 イエス様の時代も同じように守っていました。これがユダヤ人なのです。その過越しの日にイエス様が十字架につけられます。その夜、イエス様は弟子たちと食事をされます。その食事こそ、最後の晩餐といわれるものです。そのときのイエス様のことば

マタイ26章26~28節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。

これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

この食事の後に、イエス様はユダヤ人官憲に捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑にしょせられるのです。十字架で流された血潮。神の子であり、罪を犯されなかったイエス様の血潮が出エジプト記の過越しと同じように生と死を分かつものとなるのです。

 いま、わたしたちは旧約の出エジプト記を読むごとに、イエス様の十字架の血潮によって贖われ、死ではなくいのちに預かってることを感謝するのです。そして、代々にわたって神の恵みとしての十字架をこの過越しの時に祝うのです。それは、十字架と復活として、祝い守るのです。キリストの再臨にいたるまで。

 すべての人を救おうとの神のご計画。

罪赦され、永遠のいのちにあずかるという恵み、恩寵がキリスト者にあります。

神の国の住民とされたことの喜びと感謝。礼拝共同体としての教会がここにあるのです。




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