2023年2月5日 降誕節第7主日礼拝

2023.0205.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙12章9~12節

説 教  霊に燃え、主に仕えなさい

1.霊に燃え、主に仕える

 20年ほど前に天に召された本田弘慈牧師について、みなさんご存じでしょうか。日本の福音主義に立つ教会の指導者でもありました。日本の代表的な伝道者でした。エヴァンジェリストとして教会や教団に所属せず、日本の各地で説教することをもっぱらとしました。総動員伝道とかケズィックコンヴェンション、ビリー・グラハム大会などの超教派の集会にも指導的な役割を担われました。本田牧師は日本の各地の教会で伝道集会や聖会等で招かれて説教されましたが、その行き先々でこの聖句が書かれた色紙を残しておられます。仙台青葉荘教会では見かけませんですが・・・

 前任地であるそれぞれの教会にも、この色紙がありました。

 これは、「霊に燃え、主に仕え」と書いてあります。ローマ書12章11節の言葉ですね。

「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」からのみ言葉です。口語訳では、

「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え」です。

霊に燃えとは、どういうことでしょうかね。信仰において熱心であれ、そして、主なる神に仕えなさい。そういう意味でしょうか。霊に燃えですから、自分の力とか自分の内から来るものではなく、聖霊によって燃える。イエス様は、ヨハネの黙示録で「冷たくもなく熱くもない」とラオディキアの教会のクリスチャンを評価されています。なまぬるい信仰ではなく、冷たいか熱いか。教会は、冷たい教会だと誰も寄りつかないでしょう。熱い、燃えている。熱心さですね。それは愛にあって豊かな教会ということでしょう。ただ熱く、燃えていても、愛がなければやかましい、うるさい楽器のようなものです。相手を労わり、支え、赦し、共感するということだと思います。

また、伝道するにおいて、讃美において、祈りにおいて、燃えている。しかし、時として燃えることで、忙しく走り回わることがあります。そして、自分たちの手にあまる重荷を背負い込んで燃え尽きてしまうということもありえるのです。燃え尽きるのではなく、聖霊によって燃え、暖かい愛と優しさで神を証しする。そういうことだと信じます。

2.偽りのない愛

さて、本日の聖書ですが、9節

愛には偽りがあってはなりません。

とあります。

 偽りとは、偽善です。イエス様がファリサイ派の人々を偽善者として糾弾された。あの偽善ですね。偽善は、もともとギリシャ語では演技する。見せかけ、仮面をかぶるという意味があります。仮面をかぶって演技するということです。敬虔な信仰を装う。外見は信心深いけれども、中身は腐敗している。腐っているのに、信仰深さを装う。それが演技であり、偽善です。

キリスト教は愛の宗教です。愛するといいながら、実は憎んでいる。軽んじている。そういうことが教会の内部でも起こらないように注意したいものです。

10節はとても教えられます。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」

第一コリントの信徒への手紙13章では、愛は礼を失せずとあります。非礼があってはなりません。愛すること、敬うこと、軽んじない。

栃木県の教会に6年いましたが、その教会でのことが忘れられません。若い兄弟がいました。彼は、重度の統合失調症を患っていたのですが、農業を営む両親と共に生活していました。時々、教会に電話がきて、話しを聞いてくださいというので、出かけます。田んぼが広がるなかで一軒家でした。病気のために、いつも親に苦労をかけていると申し訳なさそうにいうのです。病気のからだを押してアルバイトしていたのです。運転代行の仕事ですね。夜中なので、大変だと言っていました。それでも病気のために薬を服用せずをえないため、眠気が襲ってくるのですね。そのため、折角見つけた運転代行の仕事も長続きしないのです。

片足と腰を悪くしており、びっこをついて歩いていました。こころの病気のために、夜になると壁から声がするというのです。ある時、部屋から飛び降りろという悪魔の声がして、びっくりして言葉に従って、窓をあけて飛び降りてしまったのです。そのために腰の骨と足の骨を折ってしまい、入院、手術をしたのですが、普通に歩けなくなったのです。

そんな彼ですが、礼拝にはほとんど休まず出席していました。車で30分かかるところから、自分で運転してくるです。礼拝に来るのはいいのですが、礼拝中就寝するのですね。寝てしまうのです。静かに寝ていればいいのですが、時々、大きないびきをかいてしまうこともあります。彼の言うことでは、病気のために強い薬を飲まなければならない。薬をのめば気持ちは安定するのですが、寝てしまうのです。この種類の方々は、だいたい朝方まで起きているのですね。テレビを観ている。ビデオを見ている。寝るのは、朝方です。それで教会に来るために、寝ないで来るのです。そのため、礼拝中は眠気が襲い、寝てしまうのです。 

教会が平安の場であること。素晴らしいと思っています。ゆっくり寝てていいよと言っていました。彼は週の半ばの祈祷会にも時々ですが出席します。彼はヘビースモーカーなのです。教会の駐車場で一服吸って、教会に入ります。狭い車の中で煙草を吸うので、髪の毛、衣服にたばこのにおいがするのです。しかもヘビースモーカーなので、普段から髪の毛がたばこの臭いがします。祈祷会では、6畳ほど狭い部屋、そこは事務室を兼ねた部屋で、7,8人はいればいっぱいになります。彼はそこに入るのです。祈祷会は女性が多く出席していました。彼が部屋に入ると、部屋の空気は一変します。煙草のあのいやなにおいが充満するのです。

信仰深い、敬虔な女性たちは、いやな顔もしかめっ面をせず。彼がいることを歓迎します。礼拝に来て、隣に座られた人は、その間彼の衣服や髪の毛からたばこの臭いが漂ってきます。それでも、誰一人「来ないでください。たばこをやめて」とか「くさい、臭うわよ」と彼を批難する人はいません。受け入れているのですね。

礼を失せずとは、このようなことだと思うのです。

 「互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」

とはこのようなことではないかと信じます。

 みんなに愛された兄弟でした。ある朝、電話がありました。母親からです。「雅徳が亡くなった」との連絡でした。

 仏教式で葬儀は行われたのですが、教会から多くの兄弟姉妹が葬儀に参列しました。

愛された兄弟でした。

 葬儀が終わり、母親がわたしのところに来て挨拶されました。母親の言われたことは忘れられません。

「いつも雅徳のこと心にかけてもらってすみません。雅徳は教会に行くことが大好きでした。教会だけが雅徳の唯一の喜びだったのです。でも献金もできないで申し訳ないと言っていました。それなのに、教会で葬式ができなくてすみません。あの子の姉は大阪にいるのですが、こう言いました。お母さん、どうして教会で葬式あげさせないの?

雅徳はあれだけ教会に行くのが好きだったのに」

 わたしは、救われた気持ちになりました。

教会員でありながら、亡くなっても遺族の事情で、教会で葬儀を行わないことがあります。それでも、牧師として葬儀に出ます。信仰をもって亡くなった魂は、神様の御許に召されたと祈ります。

 長くなりました。

3.希望をもって喜ぶ

次に12節ですね。

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

聖書の語る言葉でわたしたちを力づけるものがあります。信仰、希望、愛です。

失望し、意気消沈しているときにも、神がなお希望をお与えになる。これがキリスト教2000年のメッセージでした。今もなお、この希望の言葉は変わることがありません。環境がどうであろうと、周囲の情勢はどうであろうと、神が共におられる時、そこに希望があるのです。わたしたちの力や信仰、金銭、社会的な地位ではなく、神がともにおられる。インマヌエルの神によって、希望が与えられている。これは真実であり、力であります。

マルチン・ルーサー・キング牧師についてみなさん、ご存じのことと思います。1960年代、アメリカ南部では黒人は差別され、疎外され、抑圧されていました。キング牧師は黒人の当然の権利である公民権のために命がけで働き、ついに暗殺されました。彼の言葉に有名な、I have a dream. という演説があります。

全文をお読みしたいのですが、時間の関係で割愛します。

この有名な演説は1963年8月28日、リンカーン記念センターで行われました。60年前になります。キング牧師は、自分の夢を信仰と希望をもって語ったのです。アフリカから奴隷として売られ、差別と疎外、抑圧の人たち、彼らは、来る日も来る日もエジプトで重労働にあったイスラエルのように、自由と平等を祈り、求めていました。

この演説から45年後、アメリカ合衆国では黒人のオバマ大統領が誕生しました。キング牧師自身、こんなに早く黒人の大統領が誕生するとは、想像だにしていなかったかもしれません。ここにアメリカの良心を見るものであります。

公民権運動のためにキング牧師はじめ、それに賛同する白人たちは歌を歌いつつデモをします。その歌は、 We shall overcome です。この歌を歌いながら、数十万という人間が整然とデモ行進をしている。差別と抑圧を克服し、自由と平等を求めて。本日説教後の賛美は、このWe shall overcome.です。神の愛と信仰、そして希望の勝利の賛美です。

今、わたしたちの社会は自由です。平等です。しかし、なおわたしたち人間のこころの奥底に、差別や偏見、疎外、抑圧があります。それは隣人であったり、家族であったり、自分自身でもあります。わたしたちは家族を、自分自身をも攻撃しているのです。それを生みだすものは、罪であり悪の力です。わたしたちは、自らの罪を悔い改め、真の自由を勝ち取りましょう。そこに神の力、神の愛、キリストの十字架があるのです。




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