2023年2月12日 降誕節第8主日礼拝

2023.0212.Syuuhou

聖 書  出エジプト記12章29~36節

説 教  過越し―神の贖い

 前回、1月29日の礼拝説教は「神が過ぎ越される」と題して説教しました。聖書の箇所は、出エジプト記12章29~36節。本日は、同じ聖書の箇所ですが、前回とは異なる観点から聖書の語るところを読みとろうと思っています。

 わたしたちは、神が愛であることを知っています。そのように信じています。これはイエス様の十字架の贖いは、父なる神の計画であるからです。では、旧約聖書ではどうなのか? 旧約聖書においても、神の愛と恵み、慈しみが注がれている。これがわたしたちの信じるところです。

 そのことを前提にして、本日の聖書である出エジプト記12章29~36節を改めて読み進めましょう。

 ここには、過越しについて記されています。おさらいですが、10章から神は、過越しを予告され、羊をほふり、その血を鴨居に塗るように命じられます。血が目じるしとなり、血が塗られている家には、神は過ぎ越されますが、血が塗られていない家には、神は初子を撃たれるのです。審きの結果として死んでしまうのです。29節を読みましょう。

真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。

 このことを通して、エジプトの王ファラオはモーセとアロンを呼び出してエジプトを去るように命じるのです。31節ですね。

 ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。

エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。

エジプトからの解放が実現したのです。以下、三つのポイントでまとめます。

 奴隷状態であったイスラエルは、集団で脱走したのではありません。ファラオの許可を得て、エジプトを去るのです。そして、乳と蜜の流れる神の約束の地への解放です。神の力が現わされ、エジプトの王ファラオは降参したのです。

 しかし、ここで考えることがあります。「初子の死」です。イスラエルの勝利、神の栄光が現わされました。その背後には、エジプトの人たちの初子の死、動物の初子の死があったのです。どれほどの子どもたちが死んだことでしょう。

 出エジプトの出来事は、イスラエル側にとって神の救いの実現です。同時に、エジプト側にとっては、初子の死は、神の審きでもあるのです。子孫がいなくなる。その象徴です。

 9の災いをもたらして、神の力の絶大さを示されたにもかかわらず、エジプトの王はかたくななままでした。神は、最後の手段として過越しをされたのです。それは死と滅びです。神の審きです。それは恐怖です。

 

 しかし、ここで疑問が起こります。愛の神ご自身が手をかけられたのかということです。

災いもそうですが、神ご自身の御手により、災いと死を招き、滅びをなされたのかということです。わたしたちは、神が憐れみと慈しみの神であることを信じています。同時に、神は審きの神、怒り、憤りの神、憤怒の神である。そのような神を創造することは困難です。

 過越しでの初子の死は、残酷です。むごい、凄惨、罪のない子どもたちの死をどのように考えればよいのでしょうか。直接、手を下したのは神ご自身、恐怖の顔 その顔を見ることが許されたら、わたしたちは恐怖でおぞましくなり打ち震えてしまいます。神が殺人者なのか? どのような顔をして神は子どもたちを殺されるのでしょうか。

 無数の子どもが死んだ。その死の責任はエジプトにあります。ファラオのかたくなさと不信仰です。しかし、エジプトの子どもたちに罪があるのでしょうか。未来を夢見、将来の希望を抱く無数の子どもがいます。その子たちの命が奪われるのです。連帯責任ということも考えられます。

 このことをたとえでいえば次のようになります。アナロギーというたとえです。

 第二次世界大戦の末期、連合国とくにアメリカは、沖縄、本土空襲を行い、日本は壊滅的な破壊を受けました。制空権を失いました。アメリカ軍は好き放題に空襲を行いました。闘う余力もない日本です。その日本に原爆を落としました。無数の兵士でもない本の市民、女性たち、子どもが原爆の犠牲になりました。広島、長崎に落とされた2発の原爆による死亡者数は、被爆から2-4カ月以内の死亡者数として、9万-16万6千人。2019年8月時点で、広島31万9186名、長崎18万2601人の合計50万1787人です。(日米共同研究機関公益財団法人放射線影響研究所)

 初子の死を神は予告されています。しかし、ファラオは無視します。神は最後の手段として、初子のいのちを奪われるのです。

神は過越しの夜、血が塗られていない家に入られて、初子を撃たれました。夜、ベッドに寝ている子どもたち、大人もいます。初子ですから。動物たちも。すべての初子。長男、長子を撃たれたのです。

手を下したのは、神ご自身でしょうか。どのようにして、神は子どもたち、初子を撃たれたのでしょうか。いのちを取られたのです。

想像してみましょう。神が両手で寝ている子の首を締める。あるいは、刃物で首を刎ねる。一息で心臓麻痺のようにいのちを取られる。どのようにして初子たちが死に至らしめられたのでしょうか。

 神は霊であります。それゆえ、神の意思でもって、初子たちは死んだのでしょうか。あるいは、念じた・・・。念力ですね。神の全能のちから、霊のちからで子どもたちを撃たれたのでしょうか。

 原爆を落としたのは、エノラ・ゲイの飛行士です。これが実行犯です。しかし、上官の命令で広島、長崎に行き、原爆を落としたのです。その上官に命令したのは、大統領です。

過越しで、血が塗られていない家に入り、初子を撃ったのは、神ではなく御使いだと思います。推察ですね。実行犯は、御使い。主なる神ご自身が、いのちを奪う、つまり殺害の実行をされることがない。御使い、サタンとも解されてきました。神の命を受けて、手を下したのは御使いです。

3.聖書に記されている御使いたち 

①ソドム

 創世記18章では三人の人がアブラハムに現れました。アブラハムはこの三人をもてなすのです。そして神はアブラハムにソドムの審きを打ち明けられます。創世記19章では、二人の御使いがソドムを滅亡に至らせる過程が記されています。

神は霊ですから、目には見えないお方です。意思はお持ちです。全能の神です。愛と聖。聖において、俗なるもの、み旨に反するものには、警告を与え、従わない者には鉄槌をくださるのです。それは審きとなります。

 ソドムを滅ぼされるのです。ソドムは悪と罪の町ですが、多くの子ども、女性もいたはずです。そのひとたちも滅ぼされたのです。神のご意思により、御使いがソドムを滅ぼしたのです。死の使者となったのです。

②ヨブ記

 ヨブの家族、子どもたちを死に追いやったのはサタンですが、神の許しによってです。神とサタンはヨブの信仰の賭けをされたのです。

③サムエル記下24章

ダビデが人口調査をしたとき、神の審きがありました。人口調査を悪、罪とされた神は、ダビデに3択の審きを告げられます。疫病が起こり、7万人が死にました。その時に、御使いが7万人の死に関与したとあります。「民を滅ぼそうとする御使い」。

「主はこの災いを思い返され」御使いにこれ以上民を撃つのをやめるように命じられるのです。(15~17節)

④列王記下19章では、アッシリアの大軍がエルサレムを攻めている時、神はエルサレムを守るために主の御使いを派遣されます。その時、アッシリア軍の18万5千人の兵が撃たれたのです。一夜のうちに、天使たちはアッシリア軍の18万5千人を死に至らしめるのです。

⑤マタイ26章53節

旧約では、御使いの働きがほかにもあります。新約でも御使いが記されます。イエス様が十字架につけられる前夜、ゲツセマネの園で祈られた時、ユダヤ人の多くが来てイエス様を捕縛します。その時のイエス様のお言葉があります。

「父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」

ローマ帝国の1軍団は、5000人から6000人の兵士で構成されていました。12軍団なら、6万から7万2千人となります。そのくらいの天使、御使いがイエス様のところに来て、イエス様をユダヤ人から守るというのです。

黙示録には、天の軍勢が白い馬に乗り、イエス様に従う姿が描かれています。(19章)

4.神の審きは誰に?

 過越しのことから、考えさせられる事柄を宣べました。過越しは、神の審きと救いの出来事です。そこには、初子の死という神の審きによって、イスラエルに救いがもたらされるのです。血というしるしがない人たちに審きがくだります。その代表が初子なのです。審きは神が命じられます。神は審きの神です。しかし、その審きは誰に向かうのか? しるしとしての血がない人たちです。

  

神の審きには意味があると信じます。過越しは、神の贖いなしにはできなかったのです。羊を屠り、その血を鴨居に塗る。神の言葉への服従です。従った家には命が、従わなかった家には初子の死があったのです。 

 はじめに帰ります。神は愛である。これがわたしたちの信仰です。しかし、聖書は罪と悪を憎まれる神は、審きの神でもあるというのです。御使いに、罪びとを滅ぼし、死をもたらすように命じられるのです。

5.神の贖い

 神は贖われるのです。初子の死に対して責任をとられる。それは神がイエスという人となり、すべてのひとのために十字架に架かり、血を流される。ここに神がエジプトの初子の死を贖われるという秘儀があるのです。これがキリスト教です。

 手を下した者の如何にかかわらず、神はご自身の血でもって責任をもたれる。命令をくだした神の責任です。それは、御子イエスの血潮によって責任をとられるということです。ここに神の贖いがあります。

6.復活と再臨がある

 涙をぬぐわれる。初子たちのいのちの甦り。子どもたちの未来を贖われる。初子の死は、イエス様です。




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