2022年11月6日 降誕前第7主日

召天者記念礼拝

2022.1106.Syuuhou

聖 書  ヘブライ人への手紙11章13〜16節

説 教  旅のいのち

 中世ヨーロッパの修道院では、「メ・メント・モリ」という言葉が、修道僧の間で挨拶となっていたと言われます。<メ・メント・モリ>とは、「死を忘れるな」、「死すべきことを覚えていなさい」。そういう意味です。

 「おはよう」とか「こんにちは」という代わりに、「メ・メント・モリ」「メ・メント・モリ」 そう挨拶するのですね。「死ぬよ」「あなたはもうすぐ死んじゃうよ」

どんな顔をして、挨拶していたのでしょうか? 興味あるところです。

 日本では「四」は「死」につながり、連想するので、忌み嫌われることがあります。「九」も「苦」につながり、嫌われる。「死」は忌むべきものであり、命を奪う悪魔のわざ、罪がもたらした滅びということです。エレベーターには4の数字のボタンがないものがあります。ホテルの部屋でも4号室がない。そんな迷信が大手を振っています。旧統一協会の霊感商法もそういう迷信や忌むべき考え方が支配しているのです。死は縁起でもないもの、否定すべきこと、なるべく考えない。そういう傾向をもつことがあります。生まれてきた以上は、いつか死ななければならないわけですが、死を直視することをしない。

  

 キリスト教では、死はイエス様の十字架によって、克服されたものです。イエス様は死に打ち勝たれた。復活されたのです。その意味するところは、死は死で終わらないということです。死の先には、いのちがある。肉のいのちということではなく、霊のいのちと申しますか、コリント第一の手紙15章では、「霊の体」という言葉が使われています。「自然の命の体」と「霊の体」と言うのです。そのことを、ヨハネは「永遠のいのち」と言います。

 それは、今の「肉のからだ」を軽んじることでも、貶めることでもありません。今のいのちを一生懸命に生きて、霊のからだ、霊のいのちにつなげていく。キリストにある希望と永遠のいのちがあるのだという信仰ですね。

 本日は召天者記念礼拝です。永眠者記念礼拝とも言います。伝統的に教会は亡くなられた兄弟姉妹の写真が展示する教会が多々あります。仙台青葉荘教会でも100人を超える遺影、在りし日の写真を飾っていました。コロナ禍にあって、お預かりしている写真を展示することはしなくなりました。まだ展示している時、召されたおひとりおひとりの写真を見ていくと、謙虚な気持ちになります。わたしたちもいつか、この写真の中に加わる時が来るということです。それだけでなく、その信仰を学ぶと申しますか、信仰の先達者としての尊敬と畏れを覚えるのです。

 

 本日の聖書はヘブライ人への手紙です。

 11章13節から、もう一度お読みしましょう。

 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であ り、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

「約束されたもの」とは何でしょう。直接には8節の「自分が財産として受け継ぐことになる土地」であります。これが、神の約束でした。そして、そこから召し出されるのです。

8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」

 信仰とは、約束の言葉をしっかり持って出て行く旅路だと言うのです。しかも、行き先も知らずに出発する旅路です。そこには、神への信頼と服従、神が確かに与えてくださるという信仰だけです。

 しかも、どうでしょうか? そういう無目的な旅路の果ては、どうだったのでしょうか?

13節「約束されたものを手に入れませんでした」です。客観的に見て、愚かな旅路、無駄足だったのでしょうか? 何のため? 

 信仰とは、約束されたものを受け継ぐという確信です。その希望をもって、進み行く旅路です。

 13節の後半は、「自分たちが地上ではよそ者であ り、仮住まいの者である」とあります。口語訳聖書は次のように訳されています。

地上では旅人であり寄留者である

 キリスト者は永遠の都に向かって旅する者であるということです。いまの姿は、寄留者、よそ者だというのです。定着するのではない。目的地は神の都です。神の国ですね。

しかし、11章に記されている名前、旧約聖書の馴染み深い信仰者、そのどれをとっても、約束されたものを受け取っていないのです。

 注目するのは、「信仰によって」という文が何度も記されているのです。

4節「信仰によってアベルは・・・」、5節「信仰によって、エノクは・・・」、7節「信仰によって、ノアは・・・」、8節「信仰によって、アブラハムは・・・」、9節「信仰によって・・・」17節「信仰によって、」20節「イサク」、21節「ヤコブ」、22節「ヨセフ・・・」23節、

 彼らもまた、39節「約束されたものを手に入れませんでした」。骨折り損のくたびれ儲け。一切は無駄骨だったとして、徒に希望をもったことを恥じることだったのでしょうか?

 

そうではありませんね。11章16節以下「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望したのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたのです」

 

 キリスト教の希望、喜び、幸いは、天に都が備えられているという希望、喜び、幸いです。行き着くところ、終着点、目指す場所がはっきりしているのです。

 神はわたしたち信仰者を、神が備えられた場所に迎えてくださいます。その約束を実現してくださる保証があります。イエス・キリストによってです。イエス様を救い主と信じる信仰によって、希望が生まれるのです。

イエス様を信じる信仰には、二つの意味があります。

 第一は、神の約束の実現、成就であるということです。

 39節— 約束されたものを手に入れませんでした。これは、旧約の限界とも言えます。

 新約に生きるわたしたちは、手に入れているのです。旧約の信仰者が憧れ、求めてきた救い主が来られた。これが、新約の恵み、代々隠されてきた神の奥義が開かれた恵みなのです。イエス・キリストとして啓示された神の恵みです。わたしたちは、それを与えられたのです。贖われたことの意味。更にまさった計画に到達したのです。

 第二は、神の都への確かな希望です。

わたしたちの救いは、それで完成したわけではありません。わたしたちは、旧約の信仰者と共にさらに神の国の都を待ち望むものです。世の終わりは、つまり、イエス様の再臨です。それから神の国が実現するのですね。そのことを待ち望む信仰。これがキリスト者の信仰です。それまで、旧約の信仰者と共に旅にあるのです。寄留者であり、よそ者であるのです。しかし、キリストにあって永遠のいのちをいただいている。そのいのちは、「旅のいのち」といってよいでしょう。

 わたしたちは、信仰と希望と愛をもって、信仰生涯の旅路を歩いてきました。仙台青葉荘教会116年の歴史いま、去年の召天者記念礼拝から一年間で4名の愛兄姉が召されました。遺影が設置されている通りです。そして召天者の名簿があります。実に194名の方々のお名前が記されています。これらの方々は神の都を目指して信仰を固く守ってこられたのです。その生涯は、苦難、病、悩みがあったでしょう。しかし、家族が支えあい、助け合い、慰めとなった。喜び、感謝、家族、励まし、慰めをあたえられた。これが教会です。

終わりの時には、先に召されたすべての先達の信仰者とお会いすることができるという希望、喜びです。また、愛する家族と再会できるという希望と喜びはいかばかりかですね。

  はじめに戻りますが、

「メ・メント・モリ」と挨拶することで、わたしはこのように解釈し、理解しています。

「天国は近いね」。「一緒に天国に行こうね」。「神様、感謝します」「ハレルヤ」

教会の歴史から言っても、全世界で数億人、数十億人がこの希望をもって、信仰の生涯を辿ってきた。その信仰の歩みは無駄でも、むなしく終わることなく、これからも連綿と続いていくことでしょう。大切なことは、わたしたちが生きているこの時代、この仙台青葉荘教会という空間での信仰の歩みです。

 

 最後に、12章1〜2節を読んで終わります。

祈ります

主イエス・キリストの父なる神

わたしたちは、あなたの御国に迎えられるという希望と信仰のゆえに感謝いたします。死を超えて、あなたのいのちがあることを信じます。そこにおいても、あなたを礼拝し、あなたの愛にあって、永遠のいのちを生きるものとしてください。

 かしこにおいて、あなたと愛する家族にまみえる希望と喜びを感謝します。




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