2022年10月30日 聖霊降臨節第22主日礼拝

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聖 書  ローマの信徒への手紙11章17~24節

説 教  神の慈しみと厳しさ

 実りの秋です。米やりんごやなしなど果物の収穫が豊かで、スーパーでは溢れています。本日の聖書にはこの収穫に関する言葉があります。

 前回ローマの信徒への手紙11章11~16節から「両方が生きる」と題して説教しました。喧嘩両成敗という言葉を使いました。イスラエルと異邦人の両方が生きる。これが十字架の福音であると。

 本日は、その両方がどのように生きるのか。どのように生かされるのか。そのことをみ言葉を通してみていきたいと思います。

それは「収穫」に関する記事といってもよいでしょう。とくにその中で、接ぎ木という言葉が何度も使用されているです。

17節から読みましょう。

しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

 ここでは、イスラエルはオリーブの木にたとえられていました。神はイスラエルというオリーブの木を植えられたのです。しかし、何年たってもオリーブの木は、神が期待されるようには、実がならなかった。そこで、イスラエルというオリーブの枝を切り取って、イスラエル人以外の異邦人という枝を接木にされた。これがこの文章の意味するところです。

 信仰の世界を接ぎ木にたとえています。

1.接ぎ木とは?

 接ぎ木とは、農業に従事する人はよくお分かりのことと思います。

辞書を引きますと、こう記されていました。

枝などを切り取って、同種または近縁の他の植物の幹に接ぐこと。

2個以上の植物体を、人為的に作った切断面で接着して、1つの個体とすることである。このとき、上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という。

接ぎ木の目的は増殖、新品種のためともいえるでしょう。

ちなみに内村鑑三は、自らの宗教観を、「武士道の上に接ぎ木されたキリスト教だ」と言ったそうです。

 この場合、切り取られた枝はイスラエル、その幹に接ぎ木されたのが異邦人です。その根とは、聖書に記されたイスラエル代々の信仰といえるでしょう。アブラハム、イサク、ヤコブはじめ聖書の信仰の人物たちです。そこには、神の選びと祝福がテーマです。

2.切り取られたイスラエル

 なぜイスラエルは切り取られたのでしょうか? 福音を受け入れなかったからです。神が遣わされた神の子イエス様を受け容れず、十字架につけたからです。しかし、神の計画は永遠の昔から永遠の未来まで一貫しています。それは人間と被造物の救いということです。神の救いの計画は聖書に記されています。律法であり、預言者でしたが、最後に福音つまりイエス・キリストを通してすべての人に救いといのちが与えられるということでした。

 イスラエルは、その証人、執り成す人として用いられることだったのです。そのための選びでした。しかし、イスラエルは、選ばれたことの優越性を意識し、高慢になったのでした。その結果が神の子イエス様を拒否したのです。つまり、実を稔らせない者になったのです。

 そのために、神はイスラエルという枝を切り取って、別の枝を接木して、神のご計画を遂行しようとされたのです。これが教会であり、キリスト教であります。

 わたしたちクリスチャンは、神のご計画の内に使命を与えられたのです。それは実を稔らせること。その実を楽しみ、神に感謝し、多くの人にその稔りの実を分かち合うことです。それが証しということです。伝道ということです。

3.神の慈しみと厳しさ

 このように使命を与え、そのための必要なもの、すべてを神は備えてくださっておられます。選んだ者に対する慈愛です。慈しみですね。聖霊を注ぎ、祝福を与えてくださいます。22節

  しかし、厳しさもあるのです。22節は、口語訳は「神の慈愛と峻厳」でした。

神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。

 

そこには、神のご支配、統治があります。神はみこころによって統べ治められるのです。

神の厳しさとは、どういうところに現れるのだろうかと思います。

 神は慈しみ、それは神の優しさであり、愛であります。キリスト教は愛の宗教です。赦しの宗教です。愛を語るものが片一方の手で、裁きを告げ、鉄槌を下す。それは自己矛盾です。しかし、愛を語りっぱなしか、赦すばっかりか。それはかえって人間を駄目にするのではないか? 厳しさも必要ではないか? 

ルカによる福音書13章6節以下では、実らないいちじくの木に対して「切り倒してしまえ」とぶどう園の主人が命令するところがあります。しかし、園丁が「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。実がなるかもしれません」と言います。「切り倒せ」という主人の怒りや厳しさに対して、園丁はなだめ、とりなしをするのです。いちじくの木を世話し、水を注ぎ、肥やしをやって、手入れをするのです。

 わたしたちの人生でも、「役に立たないから切り倒せ」「邪魔だからもう必要ない」。そんな声がまかり通る社会に住んでいます。企業ですね、会社や組織はまさにその通りです。銀行や証券会社が倒産しています。利益を生む能力があるものだけが必要とされる。そういう時代、社会です。学校もそういう傾向がありますね。

 しかし、神の世界は違います。教会は能力主義でも利益優先主義でもありません。むしろ、力や利益とは方向が異なる世界であります。

 聖書は、厳しさを試練とか忍耐という表現で言うことがあります。平和な家庭で父があるいは母が重い病いにかかる。家族や自分自身が不慮の事故に遭遇し、大怪我をする。あるいは、亡くなる。

神様、どうしてですか? そう神に問うことがあります。そんな時、神は愛の神ではなく、厳しい方だなと考えます。それを神の愛とは考えないでしょう。順調であった生涯が突然逆境に遭う。嵐に遭い、道に迷い、苦しみ、悩むようになる。そういうこともあるのです。

 皆さんもそういう経験を持たれたことがおありではないでしょうか。信仰をもち、洗礼を受けて忠実に教会生活を送ってきた。礼拝に出席することを第一とし、喜びとしてきた。教会の兄弟姉妹との交わりにも喜び、感謝し、このような愛の交わり、信仰の共同体があるのだと奇跡のように思え、神の恵みを感謝してきた。

しかし、家族の病気、事故、思わぬ苦難が襲ってきた。眠れない夜が続く。聖書を読み、祈ってきた。それでも解決がない。苦しみが癒されない。「その経験をしました」という兄弟姉妹はいらっしゃるでしょう。

4.つながっていること

接ぎ木であろうと挿し木であろうと、神につながっていることが大切です。根から来る養分、いのちを神からいただくために、つながっているゆえに生かされるのです。

証し 

20年前のこと。前任教会の教会員のこと。

神の慈しみと厳しさ。キリストの十字架の贖いにより、信仰により神とつながっている。これが一番大切なこと。

折り取る ἐκκλάω エックラオー

   切断する

接ぎ木する ἐγκεντρίζω エングケントリゾー 

  inoculate, ingraft, graft in  接種、移植、接ぎ木

χρηστότητα καὶ ἀποτομίαν θεοῦ クレーストテータ カイ アポトミアン セウ

神の慈愛と厳しさ  「神の慈愛と峻厳とを見よ」(口語訳)

 ローマ2章4節  「慈愛と寛容と忍耐」




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