2022.8.7 聖霊降臨節第十主日礼拝

聖 書  ローマの信徒への手紙9章30~10章4節

説 教  福音とつまずき

 本日は、「福音とつまずき」と題して説教します。

1.福音とは・・・

福音とは、主イエス・キリストを信じる信仰によって救いが与えられるという神の恵み

の知らせを言います。天地創造、萬物を統べ治められる神が人となられた。その人とはイ

エス・キリストであり、その人となられた神が十字架につけられて死に、そして復活され

た。罪と死に打ち勝たれた。キリストを信じる人は罪の赦しと永遠のいのちにあずかる。

なぜなら、罪の結果は死と滅び。キリストの十字架と復活は、死と滅びへの勝利であり、信仰者は、キリストの十字架と復活にあずかり、罪と死に勝利したものとされる。それを救いというのですね。

イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。

また、福音書にしるされているキリストの生涯と教え。

福音とは、そのことを言います。グッド・ニュースなのですね。

それを信じる信仰がキリスト教であります。信じる人たちがクリスチャンです。

2.つまずきとは・・・

次に「つまずき」とは、何か?

道を歩いていて、物や小石にひっかかってよろけて、転ぶ。そう言いますね。

物事の中途で、思わぬ障害につき当たって失敗することを意味したりします。

 つまずきとは、小さな石や小さな障害物です。けつまずくのですから・・・。つっかかり、前のめりに転ぶのです。それに対して、大きな石(岩ですね)や大きな障害物だとつまずくのではなく、ぶち当たって進めなくなる。むしろ、後に倒れるのです。まともに当れば、大怪我をするでしょう。

教会用語として、この「つまずく」「つまずき」という言葉は頻繁に使われます。

「熱心に教会に来ていたのに、急に教会に来なくなった人がいる。だれだれさんの言葉につまずいた。」

そのように使われます。つまずく原因は、大きなものではなく、些細な言葉や行為が原因であることがあります。

この福音がつまずきであると聖書はいうのです。そして、つまずいたのはイスラエルの民であります。

32節

なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。  「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

このカッコの言葉は、旧約の預言書イザヤ書からの引用であります。28章16節と8章14,15節の二箇所からとった言葉です。イスラエルの民は、旧約の預言書を熱心に読んでいました。そしてメシアが現れるのを待ち望んだのです。イザヤの預言は、そのメシアは実はつまずきの石だというのです。これは、ブラックジョーク以外の何ものでもありません。

パウロは、そのような理解でイスラエルの人たち、とくにその指導者であるファリサイ派の人々や律法学者を、聖書に書いてあるとおり、イザヤ書に引用されているように、つまずきの石につまずいたというのです。

このつまずきの石こそが、福音なのです。

もう一つ、つまずきについて申し上げれば、パウロはコリント書一1章18節以下にも、つまずきについて語っています。

有名なことば、

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

 この後に、21節~23節ですね。次のようにあります。

そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。  ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです、

つまずきは、ギリシア語でスカンダリオンといいます。英語でスキャンダルといいますね。あの人はスキャンダラスな人だとか、スキャンダルな事件とか、新聞種になります。

スキャンダルとは、誘惑とか罪を犯させるという意味もあるのです。これがつまずきです。

福音がつまずきとは、まさしく、ユダヤ人にとっては、罪を犯させるものでした。そして、今もなお、わたしたちにとって、罪を犯させることでもあります。

3.福音と律法

福音がつまずきとなる。ユダヤ人にとってです。では、そのユダヤ人とは何ものか? これは9章から11章にいたるテーマであり、今まで何度も申し上げました。イエス様も肉によればユダヤ人ですし、弟子たちもユダヤ人、このローマの信徒の手紙を書いているパウロもユダヤ人です。

福音がもたらされることによって、つまずくのですが、それまでどういう歩みをしていたのか。この福音に対立する言葉があるとすれば、対立というほどの強い意味ではありませんが、それは「律法」です。律法は、出エジプト記に記されていますが、エジプトにおいて奴隷状態で苦しんでいたイスラエルの民を神はモーセという偉大な指導者を通して、救いに導くのです。その際に、神はご自身を啓示し、神の定められた掟に従うならば、神の祝福を受け、国家、民族の繁栄、力、栄光を保証するとの契約をイスラエルの民と結ぶのですね。

 これが律法です。律法を守れば、祝福を受け、守らなければ裁きと呪いを受ける。裁き

とは国家の崩壊であり、民族の滅びを意味します。事実、イスラエルは律法を守ることを

しなかったので、バビロンという強大な国家に滅ぼされ、捕囚にあったのです。

 この時に活躍したのが、預言者たちです。預言者は、律法を守らず、神の契約を履行し

ないので、神は憤りを覚えられ、イスラエルに裁きを招かれた。国家の滅亡、民族の離散

を宣告したのです。

 バビロン捕囚からの帰還後、イスラエルの民は結集して、律法を守ることを堅く誓いま

した。たとえ国家の滅亡があっても、律法を守る。実にイスラエルは国家を持つことは20世紀にいたるまでなかったのですが、民族としての誇りを忘れることなく、律法の民として律法を守ることで、神の救いを待望するという信仰共同体として生きていくのです。

 たとえば、熱心党の人たちがローマに反旗を翻して、独立を目指して反乱を起こしました。結束して戦い、ローマ軍はユダヤ軍を鎮圧するのに手こずります。そこで、ローマ軍は一計を案じます。律法を逆手に取ったのです。安息日は、律法の最重要事項です。安息日には、何もしてはならない。これが律法です。その安息日に、ローマは兵を送ります。安息日ですから、ユダヤ軍は戦うことはできないのです。たとえ、この世で死ぬことがあっても、神の国で永遠のいのちに預かるほうを選ぶユダヤ人は、無抵抗のうちにローマ兵によって惨殺されるのです。ローマ兵は無抵抗のユダヤ人の首を次々に切り落としていくのです。

イエス様の時代、まさにイスラエルの民は、律法中心の民族であり、律法がイスラエル

の人々の希望であり、すべてでありました。律法を熱心に守り、律法の命じることを忠

実に実行していたのです。いのちをかけてと言っても過言ではないでしょう。自分たちと民族の存亡をかけて、律法を守っていたのです。そこに神の義があると信じているのです。しかし、何度もみてきましたように、人は律法を守りきれないこと。行なうことはできないのです。むしろ、律法ゆえに、イエス様を十字架につけたのです。
 

 ローマの信徒への手紙は、その律法なしに、神の義を誰にでも与えられるというのです。

イエス・キリストという方こそが、神が人となられ、十字架にかかり、復活された。律法の手続きなしに、いわば超法規によって、神は信じるすべての人に神の義を与えようとされた。神の義とは、救いということですね。祝福と神の国の恵みの約束です。

神の義と救いについては、10章5節以下に続きますので、その時に詳しく学びたいと思います。

 本日は、このことを述べさせていただきます。ユダヤ人の役割があります。律法を与えられた民であります。その律法は、来るべきものの影であるのです。ガラテヤ書では、養育係りと位置づけられているのです。成人となったユダヤ人が見るものこそが福音であったのです。パウロの評価は、ユダヤ人は信仰ではなく、行いによって義を得ようとしたのですね。

 9章30節

では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。

 行いによる義とは、自分を正当化する行為です。神の憐れみではなく、自分が自分を義としていく。ユダヤ人こそが超法規的に自己の救いを自分で勝ち取っていこうとしているのです。

そこには、行うという首尾一貫さは認めても、信仰は認められないのです。信仰とは、神を見つめる行為です。神を仰ぎ、自分をむなしくする行為です。

4.聖霊のいのち

 大切なことは、聖霊のいのちに満ち溢れた信仰の生き方であろうと信じます。8章に展開された聖霊のいのちに溢れた信仰を主イエスはわたしたちに与えてくださったのです。

律法によるがんじがらめに束縛され、看視された生き方ではない。わたしたちは、キリストによって解放され、自由にされたものです。聖霊の自由、喜び、感謝があります。

 律法は、行いが先立ち、自由と自発性、喜び、感謝を損ないます。自分の義と力、能力を誇ります。

 

先週、「いこい」誌が発行されました。原稿を読んでいると、おひとりびとりの信仰と神への愛を感じて、教えられ、感動いたします。

 とくに仙台青葉荘教会111年の歩みに関して、初期からの信仰者、教会員の苦労や祈りを感じます。わたしたちは、いまその苦労と祈りの実を享受していると言っても過言ではないでしょう。その土台の上にしっかり立っていく。苦労を無にしない。信仰と祈りを無駄にしない。

 パウロは、言っています。キリストの十字架を無にしない。福音にしっかり立つ。律法に戻ってはならない。自分の義、行いを誇るのではない。キリストのみを見上げ、十字架によって贖われた恵みを感謝していくことが大切です。




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