2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日礼拝

2022.0724.Syuuhou

聖 書   ローマの信徒への手紙9章19~29節

説 教   憐れみの器

いつの時代にも、遅れてきた人間というのがいます。もっと、早い時代に生まれてくればよかったという意味です。そんな友人がいました。戦時中に生きておれば、お国のために働きたかった。その友は何と、特攻隊に憧れ、特攻隊の書物を何冊も読んでは、涙を流していたのを思い出します。彼は、自分が当時生きていたら、特攻隊に志願して、お国のために死んでしまいたかった。そう、何度も言っておりました。彼は創価学会の熱心な信者だったのですが・・・。無二の親友でした。

 ノーベル賞の文学賞を受賞した大江健三郎氏に「遅れてきた青年」という小説がありました。

遅れてきた人とは反対に、早く来すぎた人たちもいます。彼らの多くは、生きている同時代には理解されず、むしろ不評であり、不遇な生涯を送りました。もっとあとの時代に生きていれば、時代の寵児としてもてはやされ、社会のために、多くの人間のこころを豊かにし、潤すことができたのにと思います。早く来すぎた人もいるようです。

たとえば、石川啄木。彼はまさしく天才でありましたが、極貧のうちに若くして亡くなりました。

「働けど 働けどなお わが暮らし 楽にならざり じっと手を見る」の有名な歌があります。彼は26歳で亡くなります。

シューベルト、彼も天才作曲家でしたが、生前、ほとんど無名でした。31歳という若さで亡くなりました。それにもかかわらず、膨大な作曲を残しています。死後に多くは発見され、評価されました。バッハなどもそうですね。彼も膨大な作品を作曲していますが、ほとんど使い捨てのようで一度演奏すれば何度も繰り返し演奏されませんでした。教会が彼を雇っていたのですが、有名な教会作品、ミサや受難曲、カンタータは使い捨てのようなものでした。

余談ですが、牧師の説教、これも使い捨てでしょうか?

わたしたち平凡な人間は早くもなく、遅くもなくという感じです。むしろ、信仰的にはすべてが神の配剤です。神がすべてを計画されているのですから、その時々に神の恵みと神の時を受け入れ、信じるのです。一瞬一瞬が神の時なのです。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。(伝道 3:11)ですね。

 さて、本日の聖書ですが、創造者である神と被造物である人間の関係が語られています。すべての決定権は神にあり、それに対して人間はいかんともしようがない。これは前の段落における選びに関してのことからでもあります。えてして、神は専制君主ではないか、横暴な絶対君主ではないか、と思うようなこともあるのです。

9章13~15節

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。

神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。

 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。

なぜ、一方を愛し、一方を憎むのか? エコ贔屓ではないか。そんなことがあるのですね。親子の間で、兄弟の間で。

そのことに関して、本日の聖書は、決定権は神にあるというのです。つまり、造られた者は創造者に対して文句をいうことはできないというのです。造られた目的があり、その目的に従って神は用いようとされるのです。

20節以下にあるとおりです。

人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

問題は、神のご計画に対して、わたしたちが従順であるかどうかということです。従順でないところに神の裁きがあるのです。

24節

神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 

1.神の選びは自由

イシマエルよりはイサクを、エサウよりはヤコブを、サウルよりはダビデを選ばれた神は同じようにパウロを選び、ユダヤ人よりは異邦人を選んで、福音が宣べ伝えられたのです。そして、福音はローマ帝国の支配領域に浸透し、ついにヨーロッパ全体に伝わりました。聖書はユダヤ人に与えられましたが、ユダヤ人は信仰熱心であるにもかかわらず、従順ではなかったのです。従順さと信仰の態度は一致しないことがあるのです。信仰の名前でユダヤ人はイエス様を十字架につけました。信仰の名前で、中世の教会は魔女狩りを行いました。信仰の名前でカトリックは、教会の体制を改革運動に対して異端狩りをして改革者を焚刑に処しました。ウィクリフ、フスなど。

教会が権力を持った時から、教会は堕落したといってもよいでしょう。そこには、神の計画、神が人となられたという奥義、神秘に対して無頓着になり、貧しさよりは富を、小ささよりは大きさを誇るようになったのです。

イエス様の宣教命令は「すべての人に福音を宣べ伝えなさい」です。そのようにして、教会が生れ、組織され、福音宣教の働きによって、クリスチャンの数が増えました。文化を形成するようになったのです。

しかし、現在福音はヨーロッパよりアジアやアフリカが中心になっているのを皆さんご存知だと思います。古い伝統があるヨーロッパ、建物も音楽も美術もキリスト教文化を形作ってきたヨーロッパですが、今は閑古鳥が鳴いています。

イギリスは国教会であるアングリカンチャ-チですが、メソディストの創設したウェスレーの時代、メソディスト教会には入れ切れない程の会衆でいっぱいでした。従来の教会は閑古鳥が鳴いている言われるほど、礼拝出席者が少なかったのです。

今はキリスト教の霊的衰退は著しく、1990年代だけで200以上の教会堂がイスラム寺院になりました。クリスチャン全体が少なくなり、仏教徒が増えたと言われます。オランダ、デンマーク、ドイツなどは宗教改革の拠点ともなった国ですが、クリスチャン人口が少なくなり、無神論者やイスラム教徒が増加しています。ヨーロッパの教会には観光客と高齢者しかいないと言われます。

そして、今、キリスト教はヨーロッパからアジア、アメリカ、アフリカへと中心が移っているのです。そこに神のご計画をみます。福音がユダヤ人から異邦人に委ねられたように、現代、ヨーロッパからアメリカ、アジア、アフリカに委ねられていくのです。

2.従順であるということ

 わたしたちはどれだけ神の言葉に従順であるかと問われます。ユダヤ人は預言者を敬っていそうで、実は迫害していました。

マタイ23章29節

預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。 

そういうことはあります。

「あの時代に生きていればよかった」。そう考えることってありますよね。イエス様の時代に生きていれば、イエス様に会える。生きた信仰が与えられただろうとか・・・

しかし、イエス様の時代に生きていたとしても、わたしたちはイエス様を十字架につける側に立っているかもしれません。パウロに時代に生きていても、パウロを迫害する側に立つこともあるのです。絶対少数派なのですから・・・

 モーセのような指導者であっても、ユダヤの民はモーセに対して(それは同時に神に対してであったのですが)、不平不満を言っていましたし、モーセを引き釣り下ろそうとしたこともあったのです。

 神が遣わされた預言者や指導者に対して拒否的になること、拒否的態度を取る事、それが聖書の歴史ですし、キリスト教の歴史でもありました。神は一方を頑なにし、残りの者に恵みを与えられるのです。

 

 27節(イザヤ10章22節)

また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」。

 聖書は、不思議な書です。残りの者という思想があるのです。全部ではない。全体ではない。少数の残りの者にこそ、神のいのちの計画があるというのです。

 そこにこそ、福音が生きた形として引き継がれていく。従順さと忍耐です。

わたしたち現代の教会、少数者でありますが、生きた信仰をもって神に従っていきたいと願います。

要は、今、現在、ここ日本という国で宮城県仙台市に生きている、生かされている。このわたしという存在に神が係わっておられるという信仰なのですね。明日でもない、昨日でもない。あさってでもない。5年先でも、10年先でもない。同時に5年前でもなく、10年前でもない。昔はよかったという言葉は、信仰においてはありえないのです。

今が救いの時であり、今が神の時であるのです。ですから、今の時を、信仰をもって生きるのです。今、神の臨在を信じ、今、神が聖霊を注いでくださっておられることをしんじないのなら、いつまでたっても生きた信仰は与えられないでしょう。

 神が人となられたということに、福音の真髄、本質があります。謙虚さ、謙遜さを忘れずに、そこから愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、聖日、柔和、節制の聖霊の実を結びながら信仰生活を全うしていきたいと願います。   




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