2022年5月22日

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「夫婦円満の秘訣」

エフェソの信徒への手紙 5章21節〜33節

関戸直子伝道師

今日は私の救われた証をさせていただきます。

私は、長野県の上田市で生まれ、母がお寺の子どもでしたので、小さいころはよく母の実家のお寺に連れていかれました。家にも仏壇があり、毎朝ご飯を盛り付け、お水を変えて、お線香をあげて仏様を拝むようにいわれました。ですからキリスト教という事は知らないまま、大きくなったのです。高校生の頃、学校の近くに教会があって、ちょっと興味がありまして、小さい聖書を買って自分で読んでみた記憶がありますが、でも、まるで意味が解らないまま教会に行くこともなく、大人になりました。

 夫も家が自営で運送会社を営み、やはりキリスト教とは無縁な家でありました。

私たちは学生時代に出会いましたので、結構早く結婚をしたのです。結婚をしてからは夫の両親と同居暮らしをはじめました。しかし、かなり個性的で、若い私にとっては、夫の両親と暮らして、嫁姑に仕えて暮らすというのは、あまりに考え方が違いすぎて苦しいことが多くありました。

夫の両親は二人とも大正生まれで、義母は、男は家の事はやるものではない、という考え方でしたから、台所に入ることも嫌がりました。家事と育児のすべては女性の仕事でした。夫と父は仕事に打ち込んで、家に帰ったら、ずっと座ってテレビを見ているというような、結構、あの頃は普通の家の風景だったのかもしれません。

 私はこんな結婚生活をするために、一緒になったのではない、と一方的にどんどん不満がたまっていき、あるとき、たまりかねて子ども連れて実家に帰りましたが、実家は実家で、父と母がケンカばかりしていて、すこしも気が休まるところがなくていたたまれなくなり、すぐにそこも出ていきました。東京の上野駅から、一番遠いところに行きたいと思って飛び乗ったのは東北新幹線でしたね。そして盛岡の友人のところに、家出をしたこともあります。いつも心の中は不満だらけで、からからに干上がったような状態でした。

そんななか、子どものために、おかあさんたちの絵本の読み聞かせのサークルに参加するようになりました。その時、そこのリーダーをしていらっしゃる方が、いつもにこにこして、とても豊かな感じのおかあさんでした。

ある日、その方がお茶に招いてくださいました。その時私はおもわず「あなたはどうしてそんなにいつも、にこにこしているんですか?私の心はカラカラで干上がっているんです。」と悩みをうちあけたのです。するとその方は、一冊の子育ての本を貸してくださいました。

どうやらその本は、クリスチャンのお母さんが書いた本のようで、そのなかに聖書の言葉がかいてありました。あるページに「妻は夫に従いなさい」とかかれていました。

それが今日のエフェソ5:22です。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」新共同訳聖書は「妻は夫に仕えなさい」とありますが、ほかの聖書では「夫に従いなさい」となっているものもあります。

わたしはいままで、そんなことばに出会ったことがなかったので、驚きました。私が知っている夫婦関係とは「男はだめだから女がしっかりする」というものでした。「ダメな旦那を支えている、立派な奥さん、しっかりした妻、そういう女性になるべきだ」という価値観でした。そのころウーマンリブというのが流行っていたのですね。

私はそういう価値観しか知りませんでした。

 私の幼いころ父が母をなぐっている、それを私は階段の陰からみて、泣いている。そんな記憶が今でも消えません。父は、ほかの女の人にはやさしかったですが、母や私には、ちょっとしたことで、怒鳴るので恐い人でした。父を怒らせないようにするのが母の役目、その母の愚痴を聞き続けるのが私の役目といった感じで、私は母の不満のごみ箱のようでした。

 ですから、妻が夫に従い、夫は自分の体のように妻を愛するというような夫婦は、いままで見たことも聞いたこともない光景でした。

 私は夫婦げんかの仕方はよく見て学んでいましたが、夫を愛する愛し方をしらなかったし、妻を愛する夫の存在がよくわからなかったのだと思います。

 そんな私がこの本に書いてあった「妻は夫に従いなさい」という言葉に出会い、それがほんとうなのか?という大きな疑問になって心にのこりました。

その次の日の朝、いつものように、家族の洗濯を、2階のベランダに干しました。ベランダから家に入ろうとして足をかけた途端、背中にあたたかい光が当たったのを覚えています。それは不思議なぬくもりでした。

その瞬間、「そうか、神はいるのだ。」という事が急にわかりました。「神がわたしをここに連れてきたのだ。だから神がゆるさなければ私は、ここから出ることはできない。」それは自分ではおもいもつかない考えでした。あんなに「この家から出たい」と思っていたのに、それは消えていました。

そして次に思ったのは、「じゃあ、神って誰なの?」ということでした。日本にはたくさん神と呼ばれるものがいます。そのうちどれが神なのかわかりません。そして、その日から私の神探しがはじまりました。1歳の娘をベビーカーにのせてあちらこちらを散歩しました。神社に行きましたが、誰もいません。お寺にも行きましたが、誰も出てきません。

ある日、お寺からの帰り道、路地をまっすぐ行ったところに、3歳の息子の通っている保育園の園長先生のお宅がありました。当時、園長先生のお宅が教会だったのです。そこに看板が出ていて、「すべて重荷を背負うものはわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という文字がかかれ、日曜日の礼拝の時間の案内がでていました。

「ああ、日曜日にここに来れば、神がいるんだ」と行ってみようと思い、その週の日曜日から、二人の子供を連れて、園長先生の家の教会に通うようになりました。

そのとき、牧師にいわれました。「関戸さん、教会はね、わかってもわからなくても、毎週来るところですよ。」と。ですから、私はわかってもわからなくても、かなりわからなかったのですが、とにかく毎週へはいくものだ思って一年間通い続けました。

 わたしが教会に通って、わかってもわからなくても礼拝を捧げるようになったら、まず一番先に姑が変わってきました。私に対してやさしい言葉をかけてくれるようになったのです。そのつぎに夫が変わってきました。子どもにも私にも時間を割いてくれるようになりました。私が変わっていったら、家族がみんなが変わっていきました。つまり、すべては、相手ではなく私の問題だったという事がわかってきました。

パウロはエフェソ信徒へ手紙の中で、結婚についてとても大切な真理をときあかしてくれています。この時のエフェソという町は、とても荒れており、教会はサタンの試みにさらされていました。

異なる教えを説く者、性的な罪、キリストの教えからはなれようとする者たちが多くいたようです。パウロは人々がキリストの健全な教えから離れないように、教会を固く立て上げるようにと手紙を書きました。そして、それと共通して、夫婦の関係も同じであるという論法を用いました。

夫婦の事について、パウロはいろんなところで、1ペテロ3章1節、コロサイ3章18節、テトス2章などと、とても念入りに書きました。という事は、昔も今も、いつの時代もやはり夫と妻という関係は難しく、デリケートな関係だからなのでしょう。そして神様はこの関係をとても大切なものだとされたことが聖書をよむとわかります。 

夫と妻が一緒になるという事は、キリストが教会を愛して一体になる関係と同じであると5:32にはっきりと書かれています。

 夫が妻を愛し、いとおしく思い、妻が夫を愛し、信頼する関係。その麗しい姿がキリスト教会であり、夫と妻の本当の姿であると書かれているのです。

 夫は私にプロポーズするときに「キミのためなら死んでもいい」といってくれたんです。わたしは、ほんとに感動しました。

でも、さあ結婚してみると、まず最初は自分の事、次に仕事の事、次は自分の親の事、子どもの事、私の事は一番最後でした。

人間が人のために命を捨てるというのは、本当に難しいことですね。相手のために自分が犠牲になることは人にはできないのでしょう。

夫は私が洗礼を受けてから10年後にキリストに救われ、洗礼を受けました。今は、本当に私のために死んでくれています。つまり、自分を犠牲にして、私を神学校へ送り出し、卒業後は東北に送り出してくれました。だから今、私はここにおります。

そして、自分は一人暮らしをしながら、母教会の役員として教会に仕え、イエス様に従って生きてくれています。その力を夫に与えてくださったのは、イエス様だと思います。イエス様が我が妻のように、私の夫を力づけ励ましと愛で共にいてくださっているのです。

夫には一緒にデボーションをしてくれる仲間が3人います。毎朝電話で10分間と決めて互いに聖書を読み、共に祈りあいます。その時に、イエス様がみ言葉の力を毎朝くださるといいます。

わたしも毎朝5時15分ときめて、夫とデボーションをして祈ります。夜は夕食のときに電話し合って、今日一日あったこと、神様がしてくださったこと、お互いの気持ちをシェアして、一日を感謝し合い、祈りあって電話を切ります。一緒にいるときも、離れているときも、同じです。これは長く習慣になっています。これができるように、神様が未熟な私たちを成長させてくださったのです。

 さいごに、夫婦円満の秘訣をお話します。

もしあなたが夫ならば、28節を心においてください。「夫は自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。」

私の父は母を殴りました。それは自分を殴っていたのです。父は自分を愛することができなかったので、妻を愛せなかったのです。自分が神に愛されていることを知らなかったから、その代わりに人間の女性の愛をむさぼり歩いていたのです。自分が自分を大切にするように、もう一人の自分である妻を大切にするのです。それは自分を大切にすることと同じです。

しかし、その父も70代で洗礼を受け、変えられていきました。イエス様は父をも我が妻のように愛してくださったのです。

もしあなたが妻ならば、22節と33節を実践してください。

「妻たち、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」そして「妻は夫を敬いなさい」とあります。キリストを敬うように尊敬するのです。相手に従い、敬うということは、女性にとって難しいことです。なぜかというと、女性のほうが、相手を批判したり、支配する性質を持っているからです。家庭の中で夫も子どもも支配したいという気持ちが、だんだんと現れてきて、相手が自分の思いどうりにならないと腹が立つのです。しかし、そうやって、自分の支配下に夫と子どもを入れようとするということは、自分が神になっていることと同じなのです。

神とはキリストであります。あなたではありません。もちろん夫が神でもありません。

夫にとっても、妻にとっても、神はただおひとりです。

21節に「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」とあります。「仕える」とは、ギリシャ語で「相手の下に身を置く」という意味です。お互い相手を自分よりも上に置いて、自分は下になり、関係を結ぶということです。相手の上に立とうとすると、どうしてもパワーゲームになってしまいます。

 どちらかが上か下かではなく、「互いに」なのです。

 キリストも神の身分でありながら、わたしたちより下に身をおいてくださいました。だからこそ、十字架で釘付けにされ、命を捨てられたのです。それが愛です。愛するとは感情ではなく決断です。相手を大切にしていこうという決断なのです。

これは余談ですが、私も、夫を裁いたり、子どもを叱ったりする気持ちを抑えることができない者でした。でも、あるときマザーテレサの言葉をよみました。「もし、夫を子どもを非難したくなったら、掃除をしなさいと。そうすれば、家の中は美しくなります」とありました。わたしは、相手を怒っても何も変わらないんだから、だったらそうしようと決心しました。すると家の中はみるみるきれいになっていきました。不満があればあるほど、家が片付きます。不思議です。家がきれいになると、私自身の心も磨かれるような、すっきりした気持ちになりました。不満を忘れ、心の中がすっきりして清くなると、神様のみことばが通りやすくなりました。そして、家族を愛そうと決心しやすくなりました。

今はあまり不満がないもので、掃除が行き届かない点がありますが・・・。当時は、毎日不満をぶつけて掃除ばかりしてました。

 教会とはキリストと夫婦であり、神の家族です。キリストが夫であり、教会の一人一人は妻であります。キリストは命を捨てて、教会を愛してくださいました。イエス様は、気に入らないとすぐ怒鳴るような夫ではないのです。その妻を、どんなに足りなく愚痴や不満が多い妻であっても、命がけで愛してくれたのです。

27節にあるように「シミやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。」とあるように、

美しく輝く妻を誇らしく喜んでいるお方、それがイエスキリストであります。私たちもキリストを愛して、自分のパートナーを愛して、教会にいる一人一人の家族を愛することを今日、決断しようではありませんか。

愛とは感情ではありません。愛は決断なのです。

夫婦が円満になっていくこと、教会の家族が円満になっていくこと、それによって神の国がこの地上にやってくるのです。

祈りを捧げます。

天の父よ、あなたは夫婦の関係は、キリストと教会の関係であるという真理を解き明かしてくださいました。

どうかわたしを変えてください。夫を愛せるように、妻を愛せるように、教会の家族を愛することができるように、変えてください。

あの人が、この人が変わるようにではなく、まず自分が変えられていくように助けてください。無力な私たちはあなたの力が必要です。私のためにも、あの人のためにも、主は命を投げ出して、愛をあたえてくださいました。ですから、ここにいる一人一人が、互いに愛し合い、夫婦も互いに尊敬し合って、神の国を教会にも、家庭にも建て上げることができるようにどうぞお助けください。

この祈りを、尊い主イエスキリストの御名によって祈ります。

アーメン

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