コリントの信徒への手紙15章12節~28節
「復活の命」
牧師 野々川 康弘
今日は、コリントの信徒への手紙1の15章12節~28節の御言葉を、皆さんと共に学びます。その前に、当時のコリントの町について、少々皆さんにお話しします。コリントには2つの港がありました。そんなコリントは、貿易でとても栄えていました。その町には、約70万人の人が住んでいました。しかし、そのうちの3分の2が奴隷だったのです。そんなコリントは、哲学も盛んな町でした。そんなこともあって、グノーシス主義が、コリント教会に入り込んでいたのです。グノーシス主義のことは、後でお話します。
コリントは貿易や哲学が盛んでしたがそれだけではありません。コリントには、アフロディテという愛と美の女神を祭る大神殿がありました。この女神はローマ神話のビーナスと同じ人物だと言われています。この神殿には千人の巫女たちがいました。この千人は 女神に捧げられた売春婦たちで、夜ごとにコリントの町で商売をしていました。
此処で疑問になるのは、何故神殿の巫女が売春していたのかということです。これには理由があります。当時、女神の巫女と結ばれることは、神聖な儀式の一環だったのです。巫女は神に仕えている女性であり、神託を伝える役割を担っていました。当時、巫女と結ばれることが、自分たちが神の力を受けることになり、自分たちの生活が潤うようになる。そう考えられていたのです。
コリントには、約1000人の巫女がいたと言われています。そう考えますと、いかに神殿が、コリントに大きな影響力を持っていたのかが分かります。
そんなコリントに、パウロが、宣教旅行2の旅で来たことで教会が出来たのです。
コリントに住んでいる人たちからすれば、神殿娼婦と姦淫しないなんてことは、自分たちから神の祝福を奪う行為なのです。また、先程ご紹介した哲学の一つであるグノーシス主義が、コリントには萬栄していました。グノーシス主義の人たちは、「霊的なことは崇高であるが、肉体は堕落している。」そう考えていました。そんな彼らは、肉体は堕落しているから、肉体の欲求を律していく必要がある。そう考えていた人たちと、霊的には崇高なのだから、肉体的なことはどうでも良い。どんな堕落した生活をしていたとしても、霊的な崇高さは変わらない。そう考えていた人たちと対立していました。
巫女と結ばれて生活をしていた人たちや、グノーシス主義の影響を受けていた人たちが、コリント教会に集っていたのです。そういうことを聞いただけで、コリント教会がどれだけ大変な教会であったのか、そのことが分かるのではないでしょうか。
そんな中で、パウロは、巫女と結ばれるのではなくて、主イエスと結ばれるように説いて、更には、人間の霊は、神が造られた崇高なものであるし、肉体も神が与えて下さった崇高なものであることを説いたのです。でも、コリント教会の人たちはなかなかパウロが説く神を受け入れないのです。
そんなコリント教会にパウロがいったことがこうです。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことしか分からないのですいか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたが失格者なら別ですが。。。。わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るように祈っています。」
この言葉は、何回いっても、自分の生活スタイルを変えず、コリント教会に集っていたキリスト者に対して、パウロが言ったコリントの信徒への手紙2の13章5節~6節の言葉です。
キリスト者とは、神を中心にして生きている人たちです。生活によって培った自分の信念を中心として生きている人ではありません。
主イエスを神として歩んでいる人は、御言葉を中心にして歩むのです。別の言葉でいえば、神が召しておられる伝道者が、四苦八苦して、御言葉が自分の言葉にならないように真剣に取り継いでいる説教によって、自分を吟味して歩み出すのです。
コリント教会の人たちは、自分はキリスト者といいながらも、パウロが取り次ぐ神の言葉を聴かないのです。巫女と結ばれるのではなくて、主イエスと結ばれなさいというパウロの言葉。人間の霊も、人間の肉体も、神が造られたもので、崇高なものなのだというパウロの言葉を、なかなか認めなかったのです。コリント教会はそんな頑なな教会だったからこそ、パウロは3回も手紙を出しているのです。その中に、涙の手紙といわれているものがあります。その手紙は、コリント教会の人たちを厳しく戒めている手紙です。
前置きはそれぐらいにしておきます。
今日の箇所に記されていることは、私たちの体は復活するということです。何故、復活のことをパウロガ書き記す必要があったのでしょうか。それはグノーシス主義と関係しています。グノーシス主義の人たちは、「人間の霊は崇高なもので、人間の体は堕落している。だから、人間の体の復活なんかありえない。サドカイ派のユダヤ人たちも、人間は復活しないと言っている。」そんなふうに教会で言っていたのです。だからこそ、人間の体が復活することを、パウロは今日の箇所で書き記しているのです。
15章12節を見ますと「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」そう書かれています。これはグノーシス主義の人たち向けて言っている言葉です。
そうであれば、パウロは復活につて、グノーシス主義の人たちにどんなことを言っているのでしょうか。そのことを紐解く鍵が15章19節です。そこを見ますとこう記されています。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最もみじめな者です。」
この意味は、「キリスト者は、父なる神が、愛する独り子・主イエスを、わたしたちの自己中心の罪のために、十字架で死なせたことで、私たちと和解して下さったことを知らされている。そんなキリスト者は、自分の命を分け与えてでも、人の自己中心の罪を赦して歩んでいく者たちである。だからもし、この世の生活でキリストに望みをかけているだけならば、この世の全ての人の中で、最もみじめな者である。」そういう意味です。
せっかくの機会ですので、メノナイトの歴史を少し分かち合いたいと思います。メノナイトとは、オランダで生まれ出たキリスト者の群れです。
16世紀、彼らはオランダに住んでいました。当時のオランダはスペイン領でした。1556年に、フェリペ2世が、スペイン王国の王位につきました。彼はカトリックを守護するために、プロテスタント教会を激しく迫害したのです。1567年に、フィリペ2世は、オランダの総督として、アルバ公をオランダに派遣しました。彼はオランダで、国民の想統一を図るために、カトリック信者でないキリスト者を、徹底的に弾圧をしまたのです。当時、カトリック教会に異議を唱えた1800人ものキリスト者を死刑にしたのです。
その出来事が起こる直前に、そうなる兆しが既にオランダにはあったのです。1531年頃から、カトリックに異議を唱えるキリスト者を、火あぶりの刑、溺死刑、生き埋め刑、骨がとびちるまで拷問台の上で傷みつける刑が、執行されていたのです。そういうことがあって、メノナイトの人たちは、ドイツやポーランドに逃げました。
メノナイトの人たちが、最初にオランダからポーランドに逃亡したのは、1540年~1550年の間です。逃亡者であった彼らは、人が嫌がる職業を、率先して引き受けなければなりませんでした。彼らは逃亡先のポーランドで、オランダで、海抜より低い土地を開墾して生きていた技術を用いて、堤防を造り、ヴィステワ川近くの沼地を開墾しました。そんなこともあって、メノナイトの人たちは、大きな土地を所有していた人たちや、政治家から歓迎されました。その結果、経済的な職務に専念出来る特権が与えられて、兵役の免除が認められました。でも1772年に、メノナイトの人たちの移住区が、プロイセン王国の支配下に入ってしまったのです。
プロイセン王国は、フリードリヒ2世が支配する軍国主義でした。フリードリヒ2世は、メノナイトの人たちが増えていくことや、経済上、重要な役割を担っていることを恐れて、メノナイトの人たちに不利になる政策を打ち出しました。一番大きなことは、プロイセン王国の軍隊を訓練する学校を支えるために、重税を課したことです。更にいうと、メノナイトの人たちに対して、新たな土地を買ってはいけないことにしたのです。
重税を拒否していたこと、土地を開墾出来ないことは、日常生活が脅かされることになります。なのでメノナイトの人たちは、1540年~1790年まで、プロイセン王国に留まっていた中で、新たな移住先を探し求めるようになりました。
そんな中、1763年に、ロシアの女帝エカテリーナ2世が、声明書を発布したのです。
それはトルコ人との数回にわたる戦争を通して獲得した広大な未開の土地を切り開いて、家を建てて、そこに住みつく外国人を求めているというものでした。エカテリーナ2世は、プロイセン王国に住んでいるメノナイトの人たちに、使節団を送りました。その理由は、女帝はメノナイトの人たちの勤勉さや、農業技術のことを聞いていて、彼らが移住したがっていることも聞いていたからです。女帝は、彼らがロシアに住み着くことを条件に、色々な特権を与えることを約束しました。
全ての家族に無償で土地を与えること。ロシアまでの旅を援助すること。家を建てるための材料を提供すること。お金を貸す事。兵役に就くことを永久に免除すること。税金も考慮すること。宗教的自由や、学校や、教会を自由に運営すること。自由に伝道することも赦すこと。そういった特権を与える約束をしたのです。
だからメノナイトは、ロシアに2人の人を派遣しました。彼らが視察した土地は、プロイセンの土地に匹敵するものでした。しかし、プロイセン王国は、自分たちの領土に住んでいるメノナイトの人たちを、手放そうとしなかったのです。その理由は、生産力がある農夫や、勤勉な労働者を失いたくなかったからです。だから、ロシアへの移住を許可しなかったのです。
プロイセン王国は嫌がらせとして、教会の長老たちが、礼拝の中で洗礼や聖餐を行うことを禁じました。また、財産を持っている人たちに対しては、ロシアに入国出来る旅券を与えなかったのです。
そういったこともあって、最初にロシアに移住できたメノナイトの人たちは、比較的貧しい労働階級の人たちに限られたのです。1788年秋に、228家族がロシアへ旅立ちました。
でも、彼らが移住しようとしていた土地で、トルコとロシアが戦争をしていました。なので、別の場所に移住しなければならなくなったのです。メノナイトの人たちは、コルチザという場所に移住しました。でもそこは、とても貧しい土地だったのです。コルチザに着いたのは、1789年7月です。コルチザでは色々な困難がありました。その困難を乗り越えて、18世紀の終わりには400の家族を有する15の村に発展しました。1804年には、モロッチナに、新たな土地が与えられました。そこでは1200の家族を有する58の村にまで発展しました。メノナイトの人たちが移住した所には、ロシア政府から監督官が一人派遣されてただけで、メノナイトの人たちが、自由に色々自分たちで決めて動くことが出来ていました。此処に正教分離の国家が誕生しました。
でも、霊的な枯渇が起こってきました。その理由は、1788年秋にロシアに移民してきた288人の中で、牧師が一人もいなかったからです。メノナイトでは、牧師は信徒の中から選ぶことになっていました。牧師は報酬を受けることなく、牧師の働きに携わっていました。ということは、牧師の務めを十分に出来る余裕のある人、つまり、比較的裕福で有能な人が牧師に選ばれていたのです。プロイセン王国では、そういう人たちがいました。しかし、比較的裕福な人たちは、プロセイン王国から旅券が与えられなかったのです。ロシアでは、牧師職を担う人が信徒の中から立てられても、その人に手腕が無かったのです。プロイセン王国から、牧師や長老が、ロシアに同伴出来なかったが故に、指導者として信徒たちに選ばれても、牧師の働きのための教育や、訓練が何もなされていなかったのです。その結果、内実のないキリスト者が多くなっていって、教会生活が堕落していったのです。そんな中、1870年に、ロシア帝国から、兵役免除が解除されました。その結果、1万8千人のメノナイトの人たちが、1874年~1880年にかけて、北米に逃亡しました。また、1917年10月にボルシュビスクが、ロシアの政権を握ることになって、共産党政権になりました。その時、メノナイトの将来を憂いて、1万8000人のメノナイトの人たちが、1923年~1926年に、カナダに向けて旅立ったのです。
アメリカに来たメノナイトの人たちは、1707年頃に、既に移住していたアーミッシュの人たちの功績により、良心的兵役拒否者として、法的地位を与えられました。その地位が何を意味しているのかは、紛争によって大きく違っていたのです。第一次世界大戦中は、良心的兵役拒否者は、軍隊で非戦闘的な役割を担うことを余儀なくされました。第二次世界大戦中は、良心的兵役拒否者は、男性は森林キャンプなんかで数か月間勤務した後、農場や酪農場で働いて、地域奉仕義務を果たすことが可能でした。
南北戦争後、アメリカでは基本的に、兵役を回避する連邦政府の憲法上の権利はありませんでした。ところが、良心的兵役拒否は、連邦政府の憲法の原則に基づいて、各州が制定している法律に委ねられていたのです。アメリカの多くの州は、良心的兵役拒否を認めていました。その理由は、宗教の理由で、戦うことを拒否している人を強引に兵士にしたときに、兵の士気が下がる傾向があったからです。メノナイト派の男性が、良心的兵役拒否の地位を与えられていたのは、彼らが全ての戦争に反対する、長年の信仰を持っている信仰共同体だったからです。
彼らは、マタイによる福音書5節44節の言葉をしっかり握りしめて歩んでいたのです。そこにはこういう御言葉が記されています。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
メノナイトの人たちが、この言葉をしっかり握りしめて歩んでいたのは、自分の自己中心の罪のために、十字架に架かって死んで下さった御方の言葉だったからです。
メノナイトの人たちはこのように言っています。「自分が守られるために平和運動を願うのであれば、真の平和はこの世に訪れない。自分が平和のために住み慣れた場所を放棄する覚悟や、自分が平和のために犠牲になる覚悟があってこそ、平和は実現する。平和のために、自分が犠牲になる覚悟は、主イエスの十字架を見上げて、主イエスの十字架の軛を負う、真の主イエスの弟子にならなければ不可能である。」
本当にそうだと思います。でも、19節に記されている通り「この世の生活でキリストに望みをかけているだけであれば、自分を犠牲にして、人を愛しているキリスト者は、すべての人の中で最もみじめな者」でしかありません。この世の生活だけで終わって、復活の命が与えられないならば、自分が特をするように、今を生きた方が良いのです。
でも、本当に神がいて、私たちが死んだ後、復活する命があるとすれば話は変わってきます。メノナイトのように、人と争わないために、自分の住み慣れた場所を捨てる犠牲を負って、迫害に屈して、逃げる方が良いのです。自分を犠牲にして、自分を殺す罪を犯させないように敵を守ったり、自分が迫害されても、迫害してくる敵を愛したりすることが大切になってくるのです。
この世は、死の力を使って物事を解決しようとします。戦争の力や、関係の死の力を用いて、物事を解決しようとするのです。でも、神の目から見れば、それで終わりではありません。私たちが死んでも、やがて、主イエスが再臨されたその時には復活するのです。その時に、私たちが、悪魔が司っている死の力の支配の中に生きていたのか、神が司っている和解の力の支配に生きていたのか、そのことが問われることになるのです。
その時、キリスト者は、たとえ十分に、神が司っている和解の力の支配に、生ききれてなかったとしても、神や人との和歌に生きれない自己中心の罪のために、父なる神が、主イエスを十字架に架けて下さったことを信じているからこそ、神が司っている和解の力の支配に生きているものであることを、神に宣言されるのです。
パウロは20節~21節でこう言っています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によってくるのです。」
ここでパウロが言っていることは、「十字架で死んだ主イエスは、父なる神の御手によって復活した。それは、既に死んだキリスト者たちが、主イエスのように復活する補償である。かつてアダムは、神との関係に生きる命を捨てた。神の善悪の知識に頼るのではなくて、自分の善悪の知識に頼って生きることを選んだ。その時以来、人間は生まれもって、自分の善悪の知識に頼って生きるようになった。人間がそうなって以来、人間は、自分の善悪の判断を認めない相手との関係を切って生きる、自己中心の存在になった。」そういう意味です。でもその自己中心な人間を再び、神との関係に生かして、隣人との関係に生きるように人間を回復したのが、主イエスの十字架です。
自分の善悪の知識で、全てを判断する自己中心な人間の罪。自分の善悪の判断を認めない人との関係を切ってしまう自己中心の罪。自分の善悪の判断を認めない人を殺してしまう自己中心の罪。そういう人間の自己中心の罪の身代わりとなって、主イエスは十字架に架かって死なれたのです。
そして、そのことを信じた人に、聖霊を与えて、その聖霊の働きによって、自己中心に満ちている人間を、神との関係に生きるように導くのと共に、隣人との関係に生きるようにも、導いて下さっているのです。それが、聖書が言っている神の愛です。
神が、父・子・聖霊の三位一体の関係に完全に生きておられるように、私たち人間が、神、自分・隣人の三位一体の関係に完全に生きることが出来るようになるのは、主イエスが再臨して、私たちの霊から、自己中心の罪が完全に取り除かれて、自己中心の罪が完全に取り除かれた霊が、入るに相応しい新しい肉体が与えられた時です。
この世で生きている私たちキリスト者も、既に天に召されたキリスト者たちも、その時が来るのを心から待ち望んでいるのです。
今日そのことを、皆さんの心に刻んで頂けたらと思います。
最後に一お祈りさせて頂きます。
