2026年9月27日 仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録19章21節~40節

「聖餐に結ばれなさい」

牧師 野々川 康弘

 パウロの宣教旅行3の、エフェソでの宣教活動の締めくくりが今日の箇所です。21節を見ますと、「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った。」そう記されています。

パウロは、マケドニア州とアカイア州、つまり、ギリシャのあちこちを回った後、コリントに寄って、エルサレムに行った後、ローマで、主イエスの救いを宣べ伝える決心をしたのです。でも、彼の決心はそれだけではありません。彼はローマに行った後、今のスペインで、福音を宣べ伝える決心もしていたのです。

その証拠として、彼がコリントに寄った時に、まだあったことがないローマ教会の人たちに、ローマの信徒への手紙を書いています。その手紙の15章22節~24節で、彼はローマ教会の人たちにこういったことを言っています。「あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。」

イスパニアというのが、現在のスペインです。彼がローマで福音を宣べ伝えた後、スペインに行く決心をしていた理由は、ローマの信徒への手紙15章23節で、「もうこの地方に働く場所がなく」そうパウロが言っている通り、スペインの方以外は、今までのパウロたちの宣教の働きで、既にいろんな場所に、教会が出来ていたからです。

 でも、注意しないといけないことがあります。それは、今日の21節を見ますと、パウロ一人が決心したかのように見えますが、実はそうではありません。その証拠に、21節を、口語訳聖書を見ますと、こう記されています。「パウロは御霊に感じて、マケドニヤ、アカヤをとおって、エルサレムへ行く決心をした。そして言った、『わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない』」

口語訳聖書では、パウロは、御霊に感じて、決心したことになっています。なので、原文を見てみました。そうしましたら、「霊において決心した」そう原文では言っているのです。

つまり、パウロが決心したという意味は、自分の夢や希望に基づいてm勝手に計画したという意味ではないのです。そうではなくて、日々の祈りの中で、自分に与えられている使命を深く考えて、神の御心を探りながら、ローマや、スペインに行く決心をしているのです。でも、神の導きは、結局成就した後でなければ分からないのです。その証拠に、パウロはスペインに行くことは出来ませんでした。

それはそうと、パウロがローマに行くことを思い巡らしていた時に、エフェソである騒動が起こったのです。そのことが記されているのが24節~27節です。そこを見ますとこう記されています。「そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。『諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。』」

此処を理解するためには、エフェソのアルテミス神殿のことを知る必要があります。アルテミスとは、女神の名前です。この神は、大地を潤す女神、豊穣の女神です。

エフェソにはアルテミス大神殿があって、あまりにも壮大で、当時とても有名だったのです。神殿の正面の幅は43メートル、奥行きは103メートルありました。有名なアテネのパルテノン神殿の四倍の大きさです。そこに、直径1.8メートル、高さ16メートルの大理石の円柱が、100本立ち並んでいたのです。エフェソにあったアルテミス神殿は、当時、世界最大級の大神殿だったのです。27節に「アジア州全体、全世界があがめるこの女神」そう記されていますが、これは事実です。

エフェソは、そういうアルテミス大神殿の周辺に築かれた町として栄えていたのです。24節に記されているデメトリオを始めとする銀細工師たちは、大神殿の銀細工の模型を売って、多大な利益を得ていたのです。ところがその人たちが、パウロたちの3年に及ぶ宣教活動によって、自分たちの生活に、危機感を抱くようになったのです。それはパウロたちが「手で造ったものなどは神ではない」そういったことを、盛んに言っていたからです。

 主イエスの救いを宣べ伝えることで、ある種の仕事をしている人たちと衝突することが、現実に起こるのです。実際に、私の母の遺骨の件で、曹洞宗のお坊さんと衝突しました。父はキリスト者ではないので、曹洞宗のお寺にある、先祖のお墓に分骨したいとのことでした。なので、そのことをお坊さんに頼みに行きました。その時、分骨するなら戒名をつけた方が良い。そう言われたのです。母はキリスト者なので、戒名は必要ないことを、私はお坊さんに告げました。そうしたところ、ちょっと言い合いになって、父がハラハラしました。結論を言えば、戒名をつけることなく、先祖のお墓に分骨することが出来ましたが、結構疲れました。

 パウロは、アルテミス大神殿の周辺に築かれたエフェソの町で、「手で造ったものなどは神ではない」そういったことを、盛んに言っていたのです。エフェソ教会のすぐ傍に、教会とは全く違う別の世界が存在しているのです。それは、キリスト教会からとても遠い世界です。そういったことを思う時、「一番遠くに出かけていく伝道は、一番近くでの伝道ではないか。」そう思うのです。もっとも遠い伝道は、まだ主イエスの救いを信じていない、自分の家族や親族にする伝道です。

私たちのすぐ傍には、全く別の世界が、キリスト教の影響も受けず、存在しているのです。その現実を、私たちは決して良しとしてはいけないのです。

実際に、3年間のパウロのエフェソ宣教は、アルテミス大神殿の周辺に築かれたエフェソの町を揺るがしたのです。銀細工師たちが、危機感を覚えて騒動を起こすほど揺るがしたのです。

それが意味しているのは、多くの人が、主イエスの救いを信じて、人々の生活が変わってきたということです。エフェソのアルテミスが、いかに世界で有名であっても、人間の手で造られた神は本当の神ではない。本当の神は天地万物を造って、私たちに命を与えて、導いておられる御方であることが、エフェソの人たちの心に深く浸透してきて、彼らの生活が具体的に変わっていったのです。エフェソの町の人たちが変わったのは、自分たちの生活が潤うことばかりを願い、神を無視してしまっている自分たちの罪の代価を、御子・主イエスが、御自分の命で償って下さった、十字架の愛を知らされたからです。父なる神と、永遠に共に生きることが出来るようになるために、父なる神の独り子・主イエスは、御自分の命を手放して下さったのです。父なる神は、私たちを愛するが故に、御自分の一番大事なものを手放すことを良しとする御方なのです。そんな神と、共に生きる道があることが、パウロの宣教活動によって、明らかになったのです。主イエスの救いを信じたキリスト者が、「この道」といわれるようになったのは、そういう神と共に生きる道に入って歩んでいたからです。だからこそ、キリスト者とは、洗礼という儀式を受けた人ということではなくて、洗礼を受けて、聖霊が与えられて、その聖霊の導きに支えられて、聖書の神と共に生きている人、聖書の神を探究している人のことなのです。

信仰とは、主イエスがたどった足跡をたどっていくことなのです。つまり、主イエスが御自分の命を投げ出す苦難を引き受けてまで、父なる神や、私たちを愛されたように、私たちが自分の大切なものを投げ出してまで、神を愛し、隣人を愛することです。そういう道を歩んでいった時に、社会を変えていくような力が生まれて来るのです。期せずして、今日の午後2時から中地区協議会がエマオで持たれます。そこで、私が「メノナイトが考える平和」を話します。メノナイトの人たちが、自分たちの大切なものを投だしてまで、神を愛し、隣人を愛しぬいたことが、最終的にはアメリカ社会に影響を与えたことを語ります。誰でも参加することが可能です。良ければ聴きに欲しいと思います。

それはそうと、27節を見ますと、デメトリオが、アルテミス神殿の仕事仲間たちを、煽動するために語った中心的なことが記されています。そこを見ますとこう記されています。「これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう」

ここで彼が問題にしたのは、偉大な女神アルテミスの威光と、神殿の威光のことです。でも彼の本心は、「このままでは自分たちの仕事がなくなって、生活が出来なくなる。」そういうことです。

つまり彼が、本当に考えているのは、自分の利益を守ることです。確かに、彼の煽動によって、多くの人たちが野外劇場になだれ込んで、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」そう叫び続けました。でも、本当は、自分たちの町の誇りや名誉を傷つけられたこと、つまり、自分の誇りや名誉を傷つけられたことを、怒っているのです。

つまり、騒ぎを起した人たちが、本当に神としているのは、自分の利益、自分の名誉、自分の誇りなのです。そしてそれが、人間が「手で造ったもの」を、神とする発想を生み出すのです。つまり、人間が造った神々は、人間の欲望や誇りを投影しているのです。

自分の欲望や誇りを第一として歩んでいる人たちは、野外劇場になだれ込んで、自分たちと考え方が違う、パウロの同行者を捕えて、32節に記されている通り、あれやこれやとわめき立てたのです。32節を見ますと「集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」そう記されています。

この32節の「集会」と訳されている言葉は「エクレーシア」です。これは、自分の欲望や誇りを第一として歩んでいる人たちの集会ですが、私たちはこの言葉のもう一つの意味を知っています。それは「教会」です。私たちは信仰告白として「日本基督教団信仰告白」を告白しています。その中に、「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」という文言があります。私たちは、主イエスを頭とする一つの体です。バラバラではありません。主イエスの救いを中心として歩む「エクレーシア」、主イエスの十字架の軛を負う「エクレーシア」、です。しかし、自分の欲望や誇りを第一として歩んでいる人たちの群れ、「エクレーシア」は、デメリオに煽動されたエフェソの人たちのような「エクレーシア」なのです。

ある者はこのことを、他(ほか)の者はあのことをわめき立てて、何のために集まったのかさえ分からない「エクレーシア」なのです。それは、国会の議論と同じだと私は思っています。国会の議論をテレビで見ていますと、自分の党のことや、自分のことしか考えていません。言い合いになっているだけで、何のために彼らが集まって議論しているのか、まるで分かりません。

しかし、私たちキリスト者は違うのです。主イエスによって開かれて、示された一つの道、十字架の軛を負う道、その道を共に歩んでいるのです。

自分の思いや、自分の願いを神とするのではなくて、主イエスに示された道、十字架を負う道、神や人を愛する故に、自分が大切に思っていることを手放す道を、教会の兄弟姉妹たちと共に歩んでいるのです。

その道を歩むなら、手で造られたもの、つまり、自分の欲望や誇りを神とするよりも、ずっと素晴らしい豊かな実りある人生を歩んでいくことが出来るようになるのです。

本当のキリスト者の信仰は、自分の悩みや苦しみ、悲しみや怒りにこだわって、そこに神がどんな慰めや救いを与えてくれるのか、お手並み拝見しようという信仰ではないのです。そうではなくて、主イエスの十字架の愛を見上げて、自己愛から来る、自分の悩みや苦しみ、悲しみや怒りを手放して、主イエスのように、父なる神を愛し、隣人を愛していけるようになるために、自分が執着していることを捨てることです。それが本当の信仰です。その証拠に、マタイによる福音書26章39節を見ますと、主イエスは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」そう祈っています。

ちょときついことを言いますが、人は、人に認めて欲しい、優しくして欲しい、思いやって欲しい、分かって欲しい、そういう自己承認欲求を持っています。その自己承認欲求が満たされない時に、苦しみ、悩み、悲しみ、怒るのです。自己承認欲求は自己愛です。そして、自己愛にいつも拘ることが、関係の断絶に生きている私たちの現実です。関係の断絶に生きるようになったのは、人類に原罪が入って来て以降の私たちです。原罪からの解放、神を無視する罪からの解放が、私たちの悩み、苦しみ、悲しみ、怒りから解放される秘訣なのです。

聖書の神を見上げるようになれば、いかに私たちが愛されているか分かるはずです。私たちは主イエスが十字架にお架かりになられて、聖霊が与えられている程、聖書の神に愛されている一人一人なのです。

そうであるにも関わらず、まだ自己承認欲求が満たされていないのでしょうか。

自己承認欲求が強いのだとすれば、私たちは、割かれた主イエスの肉、流された主イエスの血に、まだまだ深く結ばれていないのです。主イエスの十字架に感謝出来ていないのです。

そうであれば、何が私たちをそうさせているのか、神と対話すること、祈ることが大切なのではないでしょうか。神と対話するならば、必ず私たちは聖餐と結ばれた歩みになっていけます。

何故でしょうか。それは、聖書が教えている神は、私たちを愛するが故に、主イエスの肉が割かれたこと、主イエスの血が流されたことを、私たちに伝えているからです。私たちが神を無視しても、神は私たちを愛し、私たちを御自分との関わりに生きるように、常に導いて下さっている神だからです。

最期に一言お祈りさせて頂きます。