使徒言行録19章 11節-20節
「健康な生活」
牧師 野々川 康弘
今日の箇所ではありませんが、8節を見ますと、パウロはユダヤ人の会堂で、「神の国」のことを話したことが記されています。神の国とは、神の御支配のことです。主イエスの十字架・復活・昇天の御業によって実現した神の御支配。それが喜ばしい知らせであり、福音です。それをパウロは語ったのです。
でもユダヤ人たちは、パウロの語ったことを信じずに、非難したのです。
彼らは昔から、父なる神が救い主を遣わして下さって、神の国が実現することを待ち望んでいました。そうであるにも関わらず、パウロの語った神の国、神の御支配を非難したのです。
何故でしょうか。それは、パウロが語った福音が、彼らが期待していたものとは違ったからです。彼らは自分たちなりに、神の国、神の御支配は、こういうものである。そういう思いを持って、その彼らの思いが実現すること。それを期待していたのです。
でも、パウロが語った神の国、神の御支配は、彼らの思いや期待に合わなかったのです。だから受け入れなかったのです。
神の国、神の御支配を信じるとは、神が示して下さったことを、素直に信じて、服従することです。神に服従する姿勢、それが基本的に必要なのです。そうであるにも関わらず、ユダヤ人たちは、自分の思い、自分の考え、自分の期待に固執して、それにそぐわないものであれば拒否するのです。
それが意味しているのは、神ではなくて、彼らが支配者になっている。そういうことです。
そんなことでは、神の国、神の御支配を、信じて生きることは出来ません。主イエスが、十字架・復活・昇天の御業を通して実現した、神の国、神の御支配に生きるには、彼らが主人であることをやめて、神を主人としてお迎えして、神に従う者にならなければならないのです。
それが、回心する、悔い改めるという意味なのです。
前回の御言葉であった10節後半に「だれもが主の言葉を聞くことになった。」そう記されていました。この箇所に記されていた「主の言葉」とは、自分が主人になっている言葉ではなくて、神が主人になっている言葉です。ということは、「主の言葉を聴く」とは、神が主人になっている言葉を聴く。そういう意味です。
神の国、神の御支配を到来させた、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業は、自分の思いや願いを、実現出来るようになるための、救いの御業ではないのです。
主イエスの救いの御業は、私たちを神の子にする御業です。主イエスのように、自分の思いではなくて、父なる神の御思いを、第一にしていくためのものです。
父なる神の御思いを第一にするとは、自分の思いではなくて、父なる神が言わんとしている聖書の言葉。それを自分のものにすることです。
父なる神の子供である私たちが、聖書に記されている通り、教会会議の決定を、父なる神の御思いとして受け入れて、それに従うことです。
教会会議の決定に従わない自分の思い。それが自己中心の罪です。その自己中心の罪の身代わりとして十字架で死なれたのが主イエスです。自己中心の私たちの罪が赦されている一対には、主イエスの十字架の死。主イエスの命の代償があるのです。
私たちの自己中心の罪は、主イエスが死ななければならない程、重いのです。父なる神は、自己中心の罪の代価として、命を求めるのです。それは旧約時代も新約時代も変わりません。だからこそ、主イエが、十字架に架かって死なれる必要があったのです。
私たちは、主イエスの十字架の死を、軽視してはいけません。私たちは、主イエスの十字架の死に、畏怖しなければならないのです。
主イエスの十字架の死は、私たちが神の子になるためであって、私たち生活が潤ったり、私たちの心が暖められたりするためのものではないのです。私たちが神の子となって、父なる神の御思いを第一にして歩んでいく時に、自分の思いを超えた祝福された生活。それが与えられるようになるのです。
父なる神の御思いは、聖書を通して、直接示されることもあるでしょう。あるいは、日本基督教団や仙台青葉荘教会の、ちゃんとした手続きを経て、正式に決まることを通して、父なる神の御思いが示されることもあるでしょう。
神の御思いは、自分に与えられている聖霊が、聖書の文脈通りのことを自分に示してくること。教会の正規の手続きを踏んで決定されること。そのことで明らかになるのです。
脇道に逸れました。聖書の話に戻ります。
今日の箇所である11節以下には、同胞のユダヤ人たちから、迫害される中、パウロがエフェソで福音を宣べ続けたことで、とても大きな奇跡が起こったことが記されています。
12節を見ますと、こう記されています。「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」
12節が示していることは、パウロがエフェソで、福音を宣べ伝えたことで、病と、病の苦しさに支配されて、心が荒れていたが故に、悪霊に心が支配されて、生活をしていた人たちが、悪霊の支配から解放されて、心も体も健康な生活を送ることができるようになった。そういうことです。
自分のことばかりを思う自己中心の罪を悔い改めて、神の言葉を聴く人、神の御支配を信じる人になれば、その人は、心も体も健康になるのです。確かに、体が健康にならない場合もあります。でも、そうであっても、そのことの故に、悪霊に心が支配されることは無くなって、病気は寛解するのです。寛解とは、病気が完治しなくても、心が落ち着いていて、日常生活を喜んで歩んでけるようになることです。
12節に記されている軌跡が起こった時、多くの人たちが、心を打たれたのです。
また、13節を見ますと、各地を巡り歩いていた、ユダヤ人の祈祷師たちが、悪霊に取り付かれている人たちに、試しに、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」そう言たことが記されています。
ユダヤ人の祈祷師たちは、パウロが主イエスの御名で、病気を癒したり、悪霊を追い出したりしているのを見て、「イエスという名前に、特別な力が宿っているのでは?」そう思ったのです。
彼らがそう思ったということは、パウロは、自分の名とか、自分の力で、奇跡の業をしていなかった証拠です。
パウロは、主イエスの御名、主イエスの御名の力、それを証ししていたのです。そういう宣教活動の中で、神御自身が、人間が考えられる範疇を超えた、奇跡を起こしておられたのです。
実は、今日の箇所に出てくる「祈祷師」という言葉は、口語訳聖書では「まじない師」そう訳されていました。ということは、「ユダヤ人の祈祷師たち」はイスラエルの民ではないのです。選ばれた民でありながらも、神に背を向けているユダヤ人であり、聖書の教えから逸れたユダヤ人たちなのです。
申命記18章9節~14節には、異教の習慣に見習って、まじない師になってはいけないことが、ちゃんと記されています。まじない師は、異教の神々に仕える人たちです。異教の神々に仕えている人は、もはや割礼を受けていたとしても、割礼を受けていなかったとしても、イスラエルの民ではありません。
確かにイスラエルの民であっても、神に背を向けることがあります。そうであっても、自分を中心にして歩む罪を悔い改めて、聖書の神と共に歩む人。それがイスラエルの民です。
現代的にいえば、洗礼を受けさえすれば、他の宗教に改宗したとしても、キリスト者である。神や神を信じた人たちと永遠に生きることが出来る。そういうことではないということです。では何で、洗礼を受けたらクリスチャンになれて、神と共に生きることが出来るようになる。そういうふうに教会はいうのでしょうか。
それは、洗礼を受けたら聖霊が与えられて、その聖霊に導かれて自分を中心にして歩むようになる罪を悔い改めるようになる。そのように、洗礼を受けた人を肯定的に見ているからです。
だから、洗礼を受けたらクリスチャンになって、永遠の命を得られるようになる。そういうふうに教会はいうのです。
でも、神を探究しなくなる人は、神に選ばれている神の民ではありません。現に日本では、クリスチャンの平均寿命は約3歳。そう言われています。つまり3年経てば、教会から離れて、神に背を向けた歩みをするようになる。そういうことです。
でも何で、父なる神は、「まじない師」、「占い師」、「霊媒師」になることを、禁じるのでしょうか。それは、今日の箇所に出てくる、「まじない師たち」の在り方を知れば分かります。
13節後半を見ますと、「まじない師たち」は、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」そう言ったことが分かります。
「パウロが宣べ伝えているイエスによって。。。」この言い方は、「パウロがイエスの名を使って、大きな奇跡を起こしている。イエスの名に特別な力がある。その力を自分たちが利用出来るようになりたい」そういう気持ちが現れているのです。
彼らは、口にした、イエスという御方を知らないのです。というか知るつもりもないのです。また彼らは、イエスという名を口にしても、イエスを畏怖していないのです。その理由は、彼らは主イエスの救いを信じていないし、求めてもいないからです。
彼らは、主イエスが実現しようとしている神の国、神の御支配に服従することを求めていないのです。神の御支配に服従することを求めていないどころか、自分が主人であり続けるために、神の力を利用したかったのです。
もし、自分が主人であり続けるために、主イエスの名を利用しようとして、自分がクリスチャンであると言っているとすれば、「ユダヤ人のまじない師たち」と同じです。
自分を中心として歩む、罪を悔い改めることを拒み、自分が自分であるために、自分が自分の人生の主導権を握りしめるために、クリスチャンになっているとすれば、それは、「ユダヤ人のまじない師たち」と同じです。そんなことをしているようでは、神と自分の正しい関係、しいては、自分と隣人の正しい関係が損なわれるのです。
十戒の第三の戒めである「主の名をみだりに唱えてはならない」という意味は、自分が自分の人生の主導権を握るために、神を利用するな。そういう意味です。
前回、皆さんと共に学びました。「名前を使う」ことは、名前の持ち主が、成し遂げようとしている事柄に、自分が追随することを意味します。
ということは、自分の自己実現のために、主イエスの名を唱えるのであれば、名前の持ち主が成し遂げた事柄に、自分が追随することとは、正反対のことをしていることになります。それは、神に背を向ける罪以上の罪、神を冒涜する罪です。
「まじない師」、「占い師」、「霊媒師」は、人々の生活を潤わせて、本当の神ではなくて、自分に気持ちを向けさせる人たちです。
彼らにより頼む人たちは、自分がこの世で潤うこと。そのことしか考えていません。自分がこの世で潤うことばかり考えること、自分に気持ちを向けてもらうことばかり考えること、それが、神に背を向ける罪です。自分がこの世で生きやすくなることばかりを考えて、神を、自分が生きやすくなるための道具としてしか見ていないならば、それは自分が神より上の存在になっているのです。それが、神を自分の中心に置かない罪なのです。
人間は、善悪の実を食べて以来、神に従うことから離れて、自分で善悪の判断を下して歩んでいく存在になりました。その時以来、人間は神や人との関係に生きるよりも、自分が善悪の判断をする王として生きること。そのことを邪魔する者を、排除して生きるようになったのです。自分を中心として生きやすくなるために、神や人との関係を断ち切るようになったのです。神や人との関係を断ち切るとは、神や人との関係に死を迎える。そういうことです。
よくあることですが、夫婦は離婚する前に、多くの場合、別居生活をします。別居生活は、神によって結ばれたお互いが、再び正しい関係に生きるために必要なことです。でも、よくあることは、自分が生きやすくなるためには、相手が邪魔で関係を断絶すること、関係に死を迎えることを前提として、別居生活をする夫婦が結構いるということです。はっきり言います。夫婦関係の断絶は、お互いを結び合わせた神を無視する行為です。和解に生かされているキリスト者は、和解に生きる存在なのです。
話が逸れました。聖書に話を戻します。
「まじない師のユダヤ人たち」は、父なる神との正しい関係を損なっています。十戒の第三の戒めに背いているのです。つまり、神を愛しなさいという律法に背いているのです。
神を愛さないところ、神との関係に生きて、隣人との関係に生きていないところ、そこには本当の健康な歩みはありません。
神ではなくて、自分を中心にして生きていく場合、自分が苦しくなった時に、自分が楽になるためだけに、神の名を利用するようになるのです。また、自分を中心にして生きていく場合、自分が人間関係で苦しんでいる時、「自分を苦しめる隣人との関係を断ち切れば良い。モーセの十戒なんか罪深い人間が守れるわけがない」そういった悪霊の囁きに飲み込まれるようになります。悪霊の働きは実に巧妙なのです。私たちに悪と思わせない形で、私たちを神に背く者にしていくのです。
そんな巧妙な悪霊に、私たちはどうしたら勝つことが出来るのでしょうか。
そのヒントが、15節~16節に記されています。そこを見ますとこう記されています。「悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。」
まじない師だったユダヤ人たちは、病気になって、病気で弱ってしまっている人に、ものの見事に取りついた悪霊に、パウロが宣べ伝えているイエスの名によって、「悪霊よ出ていけ」そう命じてはみたものの、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」そう悪霊に言われてしまって、彼らは悪霊に取りつかれた人に、ひどい目にあわされたのです。
悪霊は、主イエスや、主イエスの御名に浸っているパウロは知っていて、恐れるのです。悪霊は、彼らからは逃げるしかないのです。でも、まじない師だったユダヤ人たちは、主イエスの名に浸っていない。あくまでも自分が主人であり続けながら、イエスの名の力だけを使って、悪霊に対抗したのです。その結果、ひどい目にあわされたのです。
自分が主人であり続けようとしている人、別の言葉で言えば、神の言葉である聖書を、善悪の判断にしているのではなくて、自分が生きやすいように、自分の理性で善悪を判断して生きていく人は、悪霊にとって、何の脅威でもないのです。むしろ悪霊は、人間がみんな、自分の理性で善悪を判断して生きていくようになって、神や隣人との関係を断絶して、歩んでいくようになることを望んでいるのです。
悪霊は、自分の思惑通り歩んでいる仲間であるはずの人が、主イエスの御名を使って自分を追い出そうとするなら、悪霊は自分に従わせるためにひどい目にあわせるのです。焼きを入れるのです。
でも悪霊は、17節に「イエスのことは知っている。主イエスの御名に浸っているパウロのこともよく知っている。」そう記されているように、自分を追い出すことが出来る御方を良く知っているのです。
そんな主イエスの御名を、エフェソに住むユダヤ人やギリシア人たちが、大いにあがめるようになったのです。
主イエスが十字架・復活・昇天の御業を通して実現した神の国を受け入れて、別の言葉で言えば、たとえ苦しくても、自分がこれさえあれば幸せだ。これさえあれば、苦しくなくなる。そう思っているものを手放してでも、神を愛し、隣人を愛する神の御支配を受け入れて歩むなら、私たちに与えられた聖霊が豊かに働いて、悪霊の支配から、別の言葉でいえば、自分が楽になるために、神や隣人との関係を断ち切って歩む歩みから、解放されるようになるのです。
悪霊が、悪霊にとりつかれた歩みをしているくせに、悪霊を追い出そうと馬鹿なことをしているユダヤ人まじない師たちに焼きを入れているところを見て、更には、悪霊が、主イエスや、主イエスの名に浸っているパウロを恐れているところを見て、既にキリスト者になっていた大勢の人たちが来て、自分たちの悪行をはっきり告白したのです。
その証拠に、18節を見ますとこう記されています。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。」
18節に記されている悪行には色々ありますが、少なくとも19節の、「魔術を行っていた」ことも含まれています。
主イエスの救いを信じて、神の国、神の御支配の下に生き始めていながらも、魔術を行っていた人たちがいたのです。これはとんでもないことです。ですが他人事ではありません。私なんか、今日のようなことを語っていながら、離婚した経験があります。
私のような大きな破れでなくても、小さな破れを持っている人は結構多いと思います。所詮人間は、神に背を向ける罪人です。私たちにとって大事なことは、破れない生き方をする以上に、自分の破れをちゃんと告白して、自分の破れのために、主イエスが十字架に架かって下さったことを見つめて、破れに生きないように再びチャレンジしていくことです。それが、主イエスの名に浸っている人の歩みです。
毎週日曜日、父なる神は、神に背を向ける罪の赦しを宣言するために、私たちをこの仙台青葉荘教会の礼拝に、私たちを招いて下さっています。神に背を向ける罪の赦しの宣言を受けるには、その罪の告白をしなければ、罪の赦しの宣言を受けることは出来ません。
私たちが、霊肉共に健康な歩みをこの世でしていくために必要なことは、神に背を向ける罪の赦しである聖餐を、毎週日曜日に、仙台青葉荘教会で受けることです。仙台青葉荘教会は、毎月第一日曜日に、五感で味わうことが出来る聖餐と、毎週日曜日に、聴くことが出来る聖餐である説教を、神から与えられています。
私たちはその罪の赦しの聖餐を受けて、復活の命に与って生きていきたいと思います。今日の箇所でいえば、19節に記されている通り、魔術を行っていたキリスト者たちは、魔術の書物を持ってきて、皆の前で焼き捨てました。わたしたちも毎週日曜日に、神に背を向ける罪の赦しの宣言を受けて、その罪に死んで、神と共に歩む新しい命、自分の握りしめたい大切なものを手放して、神や隣人を愛して、歩んでいく命に与りたいと思います。
神に背を向けている罪を、毎週日曜日に告白して、神に背を向けている罪を手放して、自分の握りしめたい大切なものを手放してでも、神や隣人を愛していくチャレンジを、いつもしていくことが、霊肉共に健康になることが出来る秘訣です。
最期に一言お祈りさせて頂きます。
