2026年10月18日仙台青葉荘教会

使徒言行録20章13節~27節

「キリスト者に必要なこだわり」

牧師 野々川康弘

トロアス教会で礼拝が終わった後、パウロたちはミレトスに向かいました。16節に記されている通り、彼らは、五旬祭までに、つまり、ペンテコステまでに、エルサレムに着きたいと思っていたのです。だからこそ、エフェソに寄らずに、ミレトスへ向かったのです。

 パウロたちは、ミレトスに着くと、エフェソに使いを送りました。それは、ミレトスに、エフェソ教会の長老たちを呼び寄せるためでした。エフェソ教会から長老たちが着くと、パウロは説教を語りました。その説教内容が、18節~35節に記されています。

31節に記されている通り、パウロは宣教旅行3の旅で、約3年間、エフェソに滞在しました。パウロの宣教旅行1~3の旅で、最も長く滞在したのがエフェソです。そういったこともあって、パウロは、エフェソ教会と深い絆で結ばれていました。だから、エフェソ教会の長老たちを、ミレトスに呼び寄せて、遺言説教をすることにしたのです。

それは、自分の死が近いことを、感じ取っていたからです。その証拠が22節~23節です。そこを見ますと、「わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。」

これだけではありません。25節にもこう記されています。「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」

パウロは、エフェソ教会の人たちと、この世で、もう二度と会えなくなると思っていたのです。だから、どうしても、18節~35節のことだけは、伝えておきたかったのです。

18節~35節の説教を聴いたのは、エフェソ教会の長老たちでした。長老というのは、私たちの教会でいえば役員です。

でも、今の教会の役員と、この当時の役員は少し違っています。この当時は、今の教会の指導体制が、確立していなかったのです。この当時は、「牧師」、「役員」そのように、職務の区別が無かったのです。

それはそうと、パウロは長老たちに対して28節の内容を語りました。そこを見ますと、こう記されています。「聖霊は、神は御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」

28節の「監督者」という言葉。これはギリシャ語で、「エピスコポス」と言います。実はこの言葉から、監督制という教会制度を表すギリシャ語、「エピスコパリアニズム」が生まれたのです。

監督制度とは、監督が、教会の指導責任者になる制度です。因みに、今日の箇所に出てくる長老という言葉。これは、ギリシャ語で「プレスビュテロス」と言います。

実は、今日の箇所には、後に長老制度になった「プレスビュテロス」という言葉と、後に、監督制度になった「エピスコポス」という言葉があるのです。

つまり、全く違う教会制度を意味する、「プレスビュテロス」という言葉と、「エピスコポス」という言葉が、同じ人たちを指す言葉として、出てきているのです。

その理由は、この当時はまだ、今のような教会制度が確立していなかったからです。

それも神の采配だと思います。必然的に、パウロの遺言説教は、今の長老制度の教会の指導者たちや、監督制度の指導者たちに対する、説教になっているのです。

つまり、パウロの遺言説教は、必然的に、今の全ての教会の指導者たちに対する遺言説教になっているのです。

因みに、長老制度の教会は、説教長老、教会政治長老、執事という職務があります。監督制度の教会は、監督牧師や、監督牧師に任命されて、派遣された牧師が、教会の指導者です。

因みに、日本基督教団に加入して以来、ホーリネスの群れの教会制度は、監督制度から、合議制度になっています。合議制度とは、教会の指導の責任は、牧師が半分、役員会が責任になうことになっています。

それはそうと、パウロの遺言説教は、全ての教会の指導者たちに、教会をどのように指導すべきなのか、教会とはどういう群れなのか、そういうことを語っています。そういう内容だからこそ、教会の指導者ではない、一般信徒の人たちも、聴く必要がある内容なのです。

 パウロの遺言説教は、18節~35節まで記されています。しかし、今日は、18節~27節の説教内容を、皆さんと共に学びたいと思います。

18節~27節の説教内容は、2つに分けることが出来ます。

一つ目は、18節~21節までです。此処でパウロは、自分がエフェソでどのように教会を指導してきのか。そのことを語っています。

 二つ目は、22節~27節までです。此処でパウロは、自分が今置かれている状況と、これからの見通しと、自分の決意。そのことを語っています。

先ず18節~21節の内容を学びたいと思います。18節~21節を見ますとこう記されています。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。」

此処に記されている、パウロがエフェソでしていた働きは、 「主にお仕えしてきました」という19節の言葉。その言葉に集約することが出来ます。

「主に仕える」こと。それが伝道者の働きです。でもそれは、伝道者だけではありません。「主に仕える」ことは、キリスト者であれば、誰もがするべきことです。

日曜礼拝のことを、英語で、サンデーサービスと言います。日曜日に神にサービスすること。つまり、日曜日に神に仕えること。それが礼拝です。キリスト者とは、日曜日に神にサービスする者、神に仕える者です。ということは、礼拝に出席することが、「主に仕える」ことなのです。

また、キリスト者は、私たちが神に背を向ける罪のために、主イエスが十字架に架かって死んで下さったこと。主イエスが、父なる神の御力によって復活なさったこと。復活された主イエスが、天に昇られた時に、私たち一人一人に聖霊を与えて下さったこと。そのことを宣べ伝えていく人でもあるのです。そのことを宣べ伝えていくことも、「主に仕える」ことです。

また社会の中で、罪を犯した人、弱い人、貧しい人が、主イエスの救いを見上げていけるように支えること。それも、「主に仕える」ことです。

教会は、「主に仕える」こと。そのことを、いつも活動の中心に、しっかりと据えて、歩んでいるのです。

 でも、「主に仕える」とは、一体どういう意味なのでしょうか。ひょっとしたら私たちは、「自分が、『これが最善である。』そう思ったことを、神のためにすること。それが、主に仕えること。」そう思い込んではいないでしょうか。でもそれは違います。もし私たちが、『これが最善である。』そう思ったことに従って、行動しているならば、それは神ではなくて、自分の思いに仕えているだけです。

そうであれば、何をすることが、「主に仕えること」になるのでしょうか。実は、それが簡単なことではないのです。だからパウロは、自分がどのようにして、「主に仕えてきた」のか。そのことを語って、そんな自分を模範として、「主に仕える」ように教えているのです。

ではパウロは、どういう模範を示しているのでしょうか。それは、19節に記されている通り「自分を全く取るに足りない者」そう思うことです。此処の部分は、口語訳聖書では「謙遜の限りをつくし」そう訳されていました。

徹底的に謙遜であること。それが、パウロが示した模範です。謙遜であるとは、「自分を全く取るに足りない者と思う」ことです。それがなければ、「主に仕えること」は出来ないのです。私たちは、「謙遜とは、自分の能力や成果を控えめに語って、へりくだった態度をとること。」そう考えてしまいがちです。でも、そういう謙遜は、パウロがここで模範として示している謙遜とは違っているのです。

私たちが考える謙遜は、力のある者が、その力をひけらかすことなく、隠して、相手を立てることです。別の言い方で言えば、自分の能力をストレートに出すことなく、秘めておいて、相手を立てることです。 

でもそれは、パウロが言っている「 自分を全く取るに足りない者と思う」こととは全く違います。

力をひけらかさずに、隠しておくということは、裏を返していえば、自分に自信を持っているのです。でも、パウロが示している謙遜は、「自分を全く取るに足りない者と思う」ことです。つまり、自分が、「これがよい。」そう思うことや、自分が、「これをすることこそ、主に仕えることになる。」そう思うことは、取るに足りない無価値なものだと知ることなのです。そのことを知ることによってこそ、私たちは、神の御言葉をしっかり聴いて、それに従っていくことが出来るようになるのです。

口では、「主に仕える」そう言いながら、結局は、自分の思いに仕えてしまうことが起こるのは、「自分を全く取るに足りない者と思う」謙遜を知らないからです。

「自分は取るに足りない無価値な者である。」そう口では言いながらも、本当はそう思っていないのです。

試しに、「自分はとても駄目な人間だ。何も出来ない。」そう言っている人に、「本当にそうだよ。あなたは駄目な人間で、何も出来ないね。」そう言ったとしたら、どうなるでしょうか。

あるいは逆に、自分が謙遜して、そのようなことを言っている時に、そんなふうに答えられたらどうでしょうか。

「あいつは私を馬鹿にしている。人を立てることを知らないのか!」そう思わないでしょうか。私たちの「謙遜」という言葉にまで、「自分は良いものを持っている。自分は良い存在なはず。」そういう思いが入り込んでいるのです。

本当に自分が良い存在であって、神に献げられる何か良いものを持っているならば、主イエスの十字架は必要ありません。自分が、自分の義を打ち立てることが出来る良い存在で、神の目から見て、良い何かを持っているのであれば、自分の力で、神に認められる義を得ていけば良いのです。でも、それが人間に出来ないからこそ、主イエスが十字架にお架かりになられて死なれたのです。

「自分は人から認められるべき良い人である。」「自分が人から認められて良いものを持っている。」そういう誇りが打ち砕かれて、自分が良いと思うことや、自分の考えなんか、取るに足らない無価値なものであることを知らされてこそ、神の御言葉をちゃんと聴いて、神が示して下さることに聞き従う、本当の謙遜を身にまとって、生きることが出来るようになるのです。

「自分が取るに足りない無価値な者である。」そういう謙遜を自分の身にまとってこそ、私たちは、「主に仕える者」に、なることが出来るのです。

 本当の謙遜を身にまとった人は、19節に記されている通り、「涙を流しながら」に、繋がる歩みになるのです。パウロは、本当の謙遜を身にまとって、「主に仕えて」いました。そんな彼の歩みは、涙を流しながらの歩みだったのです。そんな彼の歩みは、19節に具体的に記されています。そこを見ますと、「ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも」そう記されています。

パウロの涙は、迫害や、妨害を受ける、苦しみによる涙です。迫害や妨害の苦しみを、甘んじて受けて、涙を流しつつ耐える。それが「主に仕える者」の姿です。

「主に仕える」中で、私たちが流す涙は、いろいろなものがあります。パウロのように直接、迫害に遭う涙ばかりではありません。自分の信仰を、人々に理解してもらえない悲しみの涙。自分が一生懸命にしたことが、誤解されたり、曲解されたりして、真意を受けとめてもらえない悔し涙。自分の奉仕が、正当に評価されない悲しみの涙。いわれのない誹謗中傷を受けて、心を傷つけられる涙。その他、色々な涙があります。でも大事なことは、パウロは涙を流しつつも、主イエスの十字架を見上げて、耐え忍んだのです。

「自分を全く取るに足りない者と思う」本当の謙遜は、主イエスの十字架を見上げて、涙を流しつつ耐える姿に現れるのです。

でもパウロは、エフェソ教会で、人の言いなりになって、全てを耐え忍んで、涙していた訳ではありません。

「神に仕える」、パウロのもう一つの側面を知るためには、20節~21節に記されていることを知る必要があります。

そこを見ますとこう記されています。「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。」

そうなのです。「主に仕える」とは、神のことで、人の目を恐れることなく、語るべきことを大胆に語ることも必要なのです。そうでなければ、教会の指導者として立つことはできません。じゃあパウロは、大胆に何を語ったのでしょうか。それは、20節に記されている通り、教会の人たちの「役に立つこと」です。口語訳聖書では20節の「役に立つこと」とい言葉を、「益になること」そう訳していました。

教会の人たちの「益になること」とは、教会の人たちの信仰が成長して、心から「主に仕える者」となっていくために役に立つ言葉。それを人の目を気にすることなく、大胆に語ることです。心から「主に仕える」ようになる、信仰成長の言葉は、本当に「主に仕えている人」にしか語れません。

自分の思いに仕えている人、自分の感情に従っている人には、信仰の益になる言葉は語れません。

「自分を全く取るに足りない者と思って」、涙を流しながら、苦しみや試練を、十字架を見上げながら忍耐出来る人、つまり、本当の謙遜を身にまとっている人。そういう人のみが、人の目を気にせずに、信仰成長を促す言葉を、大胆に語ることが出来るのです。

パウロが語った「役に立つこと」とは、21節に記されている通り、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」です。パウロは、神に対する悔い改めを語ったのです。

「あなたがたは神に対して、背を向ける罪を犯している。だから、その罪の赦しを求めなければならない。」そのように悔い改めを求めたのです。これは、決して、耳に心地よい話ではありません。みんなが喜んで聞いてくれるような話ではないのです。むしろ「はぁ!ふざけているの!私を勝手に罪に定めるな!」そう言いたくなる話です。でも、パウロは、人々が嫌う、耳の痛いことも、大胆に語ったのです。

でも、それだけでは終わりません。同時に彼は、主イエスが、神に背を向ける私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったことを信じて受け入れるなら、私たちのその罪が赦されること。更には、全世界の人々の罪を背負って、罪人に定められて死んでいた主イエスが、父なる神の手によって神の子として復活したように、神に背を向ける罪に満ちて死んでいる私たちが、父なる神の手によって神の子として復活出来る保証として、主イエスが天に昇られていった時に、聖霊を私たち一人一人に与えて下さったこと。聖霊が、私たちが神に背を向ける罪から、いつも切り離して下さっていること。そのことをも、大胆に語ったのです。

そのパウロが語ったことが、「わたしたちの主イエスに対する信仰」です。パウロはそういう福音、そういう喜ばしい知らせを、人の目を恐れることなく、大胆に語ったのです。

パウロは、自分の思いや、自分の確信によって生きているのではなくて、神が全てのことを成して下さるという信仰によって生きていたのです。そういう信仰に立っていたからこそ、彼は、「自分は、全く取るに足りない者である」そういう謙遜を身にまとって生きることが出来ていたのです。

「自分は、全く取るに足りない者である」そう思える本当の謙遜は、生まれつき備わっているものではありません。パウロも、主イエスと出会う前は、謙遜とは、ほど遠い人だったのです。自分が正しいと思うこと。それを神のためにすることが、神に仕えることだと確信して、キリスト者を迫害していたのです。その時の彼は、自分は立派に神に仕えている。そういう自負と、誇りを持っていたのです。

その時の彼は、涙を流しながら忍耐に生きる信仰ではなくて、自分の力で神を支えようとして、キリスト者に怒りを燃やして、迫害していた信仰だったのです。でも彼は、復活した主イエスと出会って、変えられたのです。自分の力で神を支えようとしたあげく、神に仕える人たちを迫害して、苦しめていた自分のために、主イエスが十字架で苦しんで、死んで下さって、自分の罪を赦して下さった恵みに触れた時に、彼は、「自分が全く取るに足りない無価値な者であること」を、素直に認めることが出来たのです。その時から、自分の思いや考えに固執するのではなくて、聖霊が自分に示して下さったこと、使徒たちが語った主イエスのことを、しっかりと聴きとって、それに従っていく思いを持つことができたのです。つまり、本当に謙遜な者になることができたのです。そのことによって、人々に悔い改めを求めていくことも出来るようになったのです。それが意味しているのは、信仰の役に立つ本当に必要なことは、人々言いにくいことでも、人々の目を恐れずに、大胆に語ることが出来るようになったということです。

それはそうと、22節~27節は、パウロのこれから先のことへの思いが語られています。22節~23節を見ますとこう記されています。「今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。」この言葉を受ける形で、パウロ24節で、「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」そう言っています。

24節の「この命すら決して惜しいとは思わない」という言葉は、「自分の思いに仕える」ことから、完全に解放されている人の言葉です。言葉を換えて言えていえば、「自分がこだわっていること」から、完全に解放されている人の言葉です。

「自分を全く取るに足りない者と思う」謙遜を身にまとった人は、「自分のこだわり」から解放されるのです。

 パウロが、自分のこだわりから解放されているのは、自分のこだわりを捨てようと決意したからではありません。自分で自分のこだわりは捨てられません。自分で自分のこだわりを捨てることが可能になるのは、自分が、自分のこだわり以上の何かに捕えられた結果です。

では、パウロは一体、何に捉えられていたのでしょうか。実はそのことが、22節に記されています。そこを見ますとこう記されています。「そして今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます。」

22節の「促されて」という言葉を原文から直訳しますと、「縛られて」そう訳すことになります。

ということは、パウロは聖霊に縛られて、エルサレムへと向かおうとしていたことになります。それを言い換えれば、「聖霊へのこだわり」を持って生きていたということです。聖霊によって、神が自分をどのように導いて、何をさせようとしているのか、そのことにこだわっていく時に、自分のこだわりから解放されるようになるのです。

そこに、本当の謙遜があるのです。謙遜とは、自分はダメだと思うことです。自分はダメだと思うなら、そのダメな自分の思いにこだわることをやめて、神の働き、聖霊の働きにこだわって、聖霊に身を委ねて生きていけば良いのです。神の言葉を正しく説き明かす聖霊の働きにこだわって、歩んでいくようになった時に、人々の目を恐れることなく、大胆に神の御言葉を語っていく歩みが、与えられるようになるのです。

パウロの大胆さが最も現れているのが26節~27節です。27節です。そこを見ますと、「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」

これは、「もう私は、神から示された語るべきことを全て語った。だから、後はあなたがた自身の問題である。」そういう意味です。これは、自分の働きや、自分の働きの結果にこだわる思いを捨てて、ひたすら聖霊の働きに、身を委ねる本当の謙遜から出てきている言葉です。「自分を全く取るに足りない者と思う」謙遜は、27節のような大胆な言葉が出てくるようになるのです。それこそが、パウロが私たちに模範として示している、「主に仕える」生活です。私たちは、パウロのような謙遜さと、そこから生まれる大胆さを身にまとって、皆さんと共に、「神に仕える」歩みを、益々していければと願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。