2026年10月11日仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録20章7節~12節

「キリスト者の慰め」

牧師 野々川 康弘

今日の箇所は、三階の窓から落ちて死んだエウティコを、パウロが生き返らせたことが記されています。それが起きたのは、トロアスです。その場所は、聖書の後ろにある「パウロの宣教旅行2、3」それを見ると分かります。

トロアスは、パウロの宣旅行2の旅で、パウロの願いに反して、聖霊に導かれていった町です。その町で、一人のマケドニア人、つまりギリシャの人が助けを求めている夢を見たのです。その時に、神の導きがあることを確信したパウロは、海を渡り、宣教活動をしたのです。その結果、トロアス教会が生まれたのです。

それはそうと、今日の箇所に記されている出来事は、パウロ宣教旅行3の時に、起こったことです。宣教旅行3の旅で、パウロはエフェソ教会で三年間宣教していた中で、ギリシャにあるコリント教会を訪れて、エフェソ教会に戻り、その後再びギリシャを訪れて、コリント教会に3か月間滞在した後、エルサレムに、向かおうとしていたのです。最初は、コリント教会から船で、エルサレムに直行しようと思っていたのです。ところが、ユダヤ人たちが、パウロを暗殺する陰謀があることが分かったので、予定を変更したのです

その結果、コリント教会から陸路を使って、フィリピ教会に行き、そこから船で、トロアスに向かったのです。そこまでが、20章6節までのことです。

20章6節には、パウロたちが、トロアスに7日間滞在したことが記されています。その滞在の最後の日、つまり、いよいよ明日、トロアスを出発しようとしていた時、今日の出来事が起こりました。

 トロアスを出発する前の日、パウロたちは、トロアス教会で神に礼拝を捧げていました。トロアスに住んでいた、キリスト者たちは、「パウロの話を聴けるのは、最後かもしれない。」そう思い、その礼拝に多くの人たちが、出席していたのです。明日、パウロたちが出立するために、パウロの話が夜中まで続いたのです。8節~9節によりますと、礼拝が行われていたのは、「階上の部屋」で、「三階」だったことが分かります。

トロアスにある家は、皆、平らな屋根の家でした。その平らな屋根の二階の屋上、つまり三階の部屋で、礼拝が行われていたのです。3階の窓のところ。そこに、エウティコは腰掛けて、パウロの説教を聴いていました。でも、パウロの話が長かったので、つい眠り込んで、三階の窓から落ちたのです。

みんな慌てて、彼の所に行きました。彼を抱き起してみると、彼は既に死んでいた。その時、パウロがやってきたのです。パウロは、彼の上にかがみ込み、彼を抱きかかえました。そして、「騒ぐな。まだ生きている」そう言ったのです。10節の「まだ生きている」という言葉。これを原文から直安しますと、「彼の魂は彼の内にある」そう訳すことが出来ます。「彼の魂は彼の内にある。」この宣言は、彼はまだ死んでいない、まだ息があるということではありません。そうではなくて、主イエスの、十字架の死と、復活によって実現した、霊肉共に、神と一緒に永遠に生きる、新しい魂が、彼の内にある。そういう宣言なのです。その宣言によって、エウティコは生き返ったのです。

実は同じようなことが、ペトロによって、行われたことがあります。その出来事が記されているのが、使徒言行録9章36節~42節です。そこを見ますと、タビタという女性の弟子を、ペトロが生き返らせたこが記されています。

今日の話は、その話と対になっているのです。以前にも申し上げましたが、使徒言行録の前半は、ペトロの宣教活動が記されています。そして、後半から、パウロの宣教活動が記されているのです。

つまり、教会を迫害していたパウロが、回心し、主イエスの十字架と復活を信じて歩み出したら、何と、伝道者ペトロと同じように、死者を復活させることが出来るようになったことを、今日の箇所を通して、使徒言行録の著者ルカは、私たちにお教えているのです。

それだけではありません。教会を迫害していたパウロが、回心し、主イエスの十字架と復活を信じて歩み出したら、主イエスと同じように、死者を復活させることが出来るようになったことも、使徒言行録の著者ルカは、私たちに教えているのです。

主イエスが、死者を復活させたことは、マルコによる福音書5章35節~43節に記されています。主イエスが、死んだヤイロの娘を復活させた時、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」そう言われました。この主イエスの言葉は、今日の10節の「騒ぐな。まだ生きている」その言葉と重なります。

つまり、自分がどんなに大きな罪を犯したとしても、主イエスの十字架と復活は、神に背を向ける、自分の罪のためだったことを信じ、神の子として歩みだしたなら、主イエスと同じように、死んだ人を、生き返らせることが出来るようになることを、使徒言行録の著者ルカは、今日の箇所を読んでいる私たちに教えているのです。

どんなに罪深い過去を、持っていたとしても、主イエスの弟子になったなら、死に勝利する御業が、人々に与えることが出来るようになることを、使徒言行録の著者ルカは、私たちに教えているのです。

その証拠に、主イエスが、死んだヤイロの娘を復活させたように、ペトロも死んだ、タビタという女性を復活させました。またパウロも、死んだエウティコを、復活させています。

このことを心に刻むことは、とても大事なことです。

ところで、パウロが死から復活させたエウティコは、何処で、死から復活したのでしょうか。実はそのことが、7節の始めに記されています。そこを見ますと、「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」そう記されています。

週の初めの日とは、日曜日のことです。日曜日に、人々はパウロのもとに集まっていたのです。その目的は、明日、トロアスから出立する、パウロの説教を聴くためと、「パンを裂くため」だったのです。「パンを裂く」この言い方は、使徒言行録2章42節にも出てきました。そこでは「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」そう記されていました。

パンを裂いて共に食べることは、教会の中心に据えるべきことです。そのことは、パウロが書いたコリントの信徒への手紙1の11章からも分かります。そこには、私たちが礼拝で、五感で味わう聖餐にあずかる時、いつも読まれる言葉があります。それは、いつも私が、「制定の言葉」そういってから、読み上げている言葉です。

トロアス教会の人たちが、礼拝でパンを裂いていた意味は、私たちの礼拝で、五感で味わう聖餐を頂くのと、全く同じ意味なのです。トロアスに住んでいたキリスト者たちが、「パンを裂くために集まった」とは、聖餐にあずかるために集まっていたということです。

でも、今日の箇所に記されている礼拝の様子を見ますと、実際にパンを裂いて食べたのは11節になってからです。それまでは、パウロの説教が、夜中まで続いていたのです。11節を見て分かるのは、パンを裂いて食べた後も、夜明けまでパウロは説教をし続けたということです。 

夜が明ければ、トロアスから、エルサレムに出発するのです。パウロは、もう二度とこの町の人たちに会うことはないだろう。そう思いながら、主イエスのことを、沢山語ったのです。実際、これがパウロの告別説教になったのです。

トロアス教会の礼拝において、最も多くの時間を費したのは、パウロの説教です。使徒言行録の著者ルカが、9節で「パウロの話が長々と続いた」そう証言している通り、トロアス教会の礼拝の中心は、パウロの説教と、聖餐式だったのです。

そんなトロアス教会の礼拝は、私たちが守っている礼拝と同じです。初代教会の時代から、週の初めの日である日曜日に、説教と聖餐を中心にする礼拝が行われていたのです。

週の初めの日とは、主イエスが復活された日です。だから、週の初めの日が、「主の日」そう呼ばれるようになったのです。主イエスが、神に背を向ける罪の身代わりとして、十字架で死なれ、復活されたことを信じた人たちは、「主の日」に共に集まって、神の言葉の説き明かしである説教と、パンを裂いて共に食べる聖餐式を、礼拝の中で行なっていたのです。今日の箇所で語られている死者の復活は、そんな「主の日」の礼拝の中で起ったのです。

でも、死者の復活が、「主の日」の礼拝の中で起った意味を、考える前に、何で、エウティコは転落して死んだのか。そのことを知りたいと思います。

エウティコは、三階の部屋の窓に腰掛けながら、パウロの説教を聴いている中で、居眠りをしてしまって、転落して死んだのです。

今日の箇所に記されている礼拝は、主の日の礼拝、日曜日の教会の礼拝です。でも今日の箇所に記されている礼拝は、夜に行われています。三階の部屋に、沢山のともし火をともして、行われていたのです。そして、それが夜明けまで続いたのです。

さて、何で、日曜日の午前中ではなくて、夜に礼拝をしていたのでしょうか。それは当時、日曜日、普通に仕事をしていたからです。

日曜日が休日になったのは、紀元4世紀になってからです。それまでは、日曜日の礼拝は、仕事を終えた後、夜に礼拝をしていたのです。つまり、トロアス教会の礼拝に来ていた人たちは、昼に働いた上で、夕方になって集まって来ていたのです。エウティコもそうでした。一日の仕事を終えた後、教会の礼拝に来て、長々と続く、パウロの説教を聴いていたのです。

つまりこの当時の人たちは、私たちが日曜日の朝に、礼拝を守っているのとは、比べものにならない厳しいコンディションの下に置かれていたのです。そんな中、エウティコは、襲ってくる睡魔と必死に戦っていたのです。彼が窓のところに腰掛けていたのは、多くの人たちが集まっていて、程よい熱気が部屋に籠っていたのと同時に、たくさんの灯の熱気によって、眠気に襲われていたからです。だから、新鮮な空気を吸って、睡魔を追い払うために、あえて、三階の窓に座っていたのです。それだけではありません。エウティコが三階の窓に座っていた理由は、落ちるかもしれないという緊張感を自分に与えるために、目を覚ましているためだったのです。でも、そんな必死な努力が報われることなく、居眠りをして、転落してしまったのです。

それ程までに、エウティコは、疲れた体に鞭を打って、パウロの説教を、しっかり聴こうとしていたのです。

さて、現代の私たちはどうでしょうか。エウティコのように、真剣に説教を聴いているでしょうか。当時の人たちのように、礼拝を大切にしているでしょうか。

現代の私たちは、主の日である日曜日を、仕事の休みの日ぐらいにしか、思ってはいないでしょうか。ひどい場合、日曜日が一週間の始めの日ではなくて、一週間の終わりの日。そう思っているキリスト者もいます。現代人の私たちは、日曜日は休日だから教会へ行って礼拝をする。そんな感じにはなっていないでしょうか。でもそれは、教会の先達たちの信仰を知らなすぎです。

キリスト教会は、日曜日が休日だから、礼拝を行っているのではありません。日曜日が休日に定められたのは、キリスト者たちが、色々な困難や、迫害の中で、何百年に及んで、主の日に、礼拝を守り続けた結果です。

エウティコのように、疲れた体に鞭を打って、命がけで主の日の礼拝を守った多くの先達たちのおかげで、キリスト者が礼拝を守っている主の日が、休日に定められるようになったのです。日曜日がもともと休日だったのではなくて、キリスト教会が、色々な困難や、迫害の中で、日曜日に命がけで、礼拝を守っていたからこそ、その日が休日に定められるようになったのです。そのおかげで私たちは今、休日である日曜日に、礼拝を守ることが出来ているのです。

つまり、「日曜日はせっかくの休みだから、それを教会の礼拝のために使うのはもったいない。せっかくの日曜日の休日は、他のことのために用いたい。」そう思うことは、教会の先達たちの信仰継承が出来ていないのです。色々な困難や、迫害の中で、日曜日に礼拝を守っていた先達たちの努力を無駄にしているのです。

私がそう言いますと、律法的に思う人がいるかもしれません。でもそうではないのです。トロアス教会の礼拝に集っていたエウティコも、エウティコ以外の人たちも、決して、「日曜日の礼拝を守らなければならない」そういった義務感で、礼拝に来ていたわけではないのです。

彼らは皆、喜んで礼拝に来ていたのです。それだけの価値が、主の日の礼拝にはあるからです。命をかけても、主の日の礼拝を守りたかったのです。それは、命をかけるだけの恵みが、礼拝にあったからです。今日の話は、礼拝の中で与えられる恵みが語られています。

その恵みは、死からの復活です。

エウティコは、一生懸命パウロの説教を聴いている中で死にました。でも、死んだ時に、「騒ぐな。まだ生きている」、「彼の魂は彼の内にある」そういう宣言を礼拝の中で与えられたのです。最初の方で申し上げました通り、「彼の魂は彼の内にある」という意味は、主イエスが、十字架の死と復活によって実現した、霊肉共に、神と共に永遠に生きる、新しい魂が彼の中に在る。そういう宣言なのです。それが、礼拝の中で与えられて、霊肉共に、神と共に永遠に生きる人として、礼拝の中で復活したのです。その時に聖餐が与えられて、更にパウロの説教に聴き入る人になったのです。

キリスト者は真に、エウティコのような歩みをしているのです。一生懸命キリスト者として生きて、礼拝に出席して、一生懸命伝道者が語る御言葉の説き明かしである説教を聴いている中で、自分の弱さが露呈して死ぬのです。あるいは、自分の罪が露呈して死ぬのです。そうなった時に、霊肉共に、神と共に永遠に生きる新しい魂があなたの中に在る。そういう宣言を神から与えられて、復活して、聖餐によって、主イエスの十字架の救いを五感で味わって、更に御言葉の説教を熱心に聴く人として歩んでいくようになるのです。それが、キリスト者の姿です。

 それはそうと、トロアス教会に集っていたエウティコと、教会員たちは、その後どうなったのでしょうか。それが記されているのが12節です。そこを見ますと、「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」そう記されています。

主の日の礼拝において、教会員のみんなが、大いなる慰めが与えられたのです。12節の「慰め」という言葉は、「かたわらに呼ぶ」そういう意味の言葉なのです。

そうなのです。キリスト者が与えられる「慰め」は、父なる神が、私たちをかたわらに呼んで下さって、主イエスの十字架と復活によって、霊肉共に、神と共に、永遠に生きる命が与えられること。そのことを聴かされることなのです。それが、聖書が語る「慰め」なのです。

その「慰め」が、主の日の礼拝において、いつも私たちに起るのです。

 私たちは、苦しみや悲しみを忘れさせてくれるこの世的な慰めではなくて、神が、御心自分のかたわらに呼んで下さって、主イエスの十字架と復活によって、霊肉共に、神と共に、永遠に生きる命が与えられることを聴かされる「慰め」。それを受けて、皆さんと共に歩んでいければと思います。

神のかたわらに呼ばれる「慰め」を受けるには、神の招きに応えて礼拝に集って、礼拝で、神の御言葉の説き明かしを聴いている中で、自分の弱さや、神に背を向けている罪深さが露呈して、古き自分に死んで、復活の命を頂いて、主イエスの十字架の救いを、五感で味わう聖餐を頂いて、更に、神の御言葉の説き明かしを、熱心に聴いて歩んでいくことが大事なのです。

 私たちは、いつも神のかたわらに呼ばれる慰め、礼拝に出席する「慰め」を受けて、神の御言葉の説き明かしである説教を聴く中で、死と復活を体験しながら、皆さんと共に歩んでいければと思います。

 最後に一言お祈りさせて頂きます。