2026年8月30日仙台青葉荘教会

コロサイ人への手紙1章21~23節

牧師 野々川 康弘

教会では、よく福音という言葉を口にします。福音とはどういう意味でしょう。それは、「良き知らせ」という意味です。では、良き知らせとは、一体何でしょうか。それは、神と和解すること、神との平和があることです。

「キリストとの平和」

今日の21節を見ますとこう記されています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」

私たち人間は、生まれたその時から、神に背を向けています。神なんかいない。自分の人生は自分のものである。そう思って生きています。それが、聖書がいう罪です。

聖書が教える罪は2種類あります。一つは神を無視して歩んでいる罪です。そして、もう一つは、神を無視して歩んでいるが故に、神や隣人を傷つける行いをしてしまう道徳罪です。

これを教会では罪の二重性と呼んでいます。そうなのです。神を無視する一番大きな罪から、神や人を傷つける道徳罪が生まるのです。

教会が取り扱っている罪は、神を無視する罪です。何故なら、その罪が無くなること。それが、神や人を傷つける道徳罪を根絶することになるからです。

今日の21節でいえば、「神から離れていること」それが一番大きな罪であり、そこから悪い行いをする沢山の罪が出てくるのです。つまり、罪の2重性を認めない人。そういう人が神に敵対している人です

神を無視する歩みは、「神なんかいない。自分の人生は自分のもの。」そう思って歩んで、自分が生きやすいように生きることを妨害する人、自分の人生を否定する人、そういう人たちを排除(はいじょ)することです。

でも何で、「神なんかいない。自分の人生は自分のもの。」そう思って歩んでいる人は、自分の生きやすい人生を阻む人、自分の人生を否定する人を排除するのでしょうか。

それは、自分の人生を豊かにするのは、自分が何かを得ている感覚。それを持つことだからです。そうなのです。神を無視して、自分の人生は自分のものとして歩んでいる人は、自分にプラスになる何かを得ていくことが生きがいなのです。だから、その生きがいを邪魔する全てのものを排除するのです。それは、自分が何かを得ている充実感で満たされていたいからです。

でも、神を神として歩んでいる人は違います。自分の人生を豊かにするのは、神を神として崇めて、神が人間を造られた目的に沿って歩むようになることです。

神が人間を造られた目的は、人間が神との関係に生きて、人間との関係に生きることです。人間は、神との間に生きる人であり、人との間に生きる人なのです。だがら、人の間と書いて人間という言葉になるのです。

では、神との間に生きる人、人との間に生きる人とは、どういう人なのでしょうか。それは、神を愛し、隣人を愛する人です。神との間に生きるために、人との間に生きるために、自分の握りしめたいものや、握りしめているものを放棄すること。それが愛です。

その証拠に、父なる神は、御自分の大切な独り子・主イエスを、十字架に架けて殺しました。それは、神を無視して、自分の人生は自分のものとして、自分にプラスになる何かを得ていくこと。そのことに必死になって生きている人間の罪の代価。それを、主イエスに背負わせるためです。

神の愛は、御自分にとっては、マイナスにしかならない、愛する独り子・主イエスを手放してでも、罪の二重性に生きている人間を救う愛なのです。

神は、人間をお造りになられた御方であるが故に、御自分を無視すること。別の言葉でいえば、御自分との関係を断ち切ること。そのことを赦しません。その理由は、神は人間を、神との関係に生きて、隣人との関係に生きるようになる存在としてお造りになられたからです。

人間がそのことから外れて、神との関係や、隣人との関係を断ち切ってでも、自分が満たされようとする自己中心な歩みを赦さないのです。神や人を愛する以上に、自分が満たされることを第一とすることを赦さないのです。

エレミヤ書18章に、陶工の手中にある粘土の話が記されています。神は陶器士で、人間は粘土です。陶器士である神は、人間を、神との関係に生きて、隣人との関係に生きること。それをしていく器として造られたのです。そうであるにも関わらず、器である人間は、自分が満たされること。それをしていく器でないと嫌だ。そう主張するのです。

陶器士の立場に立ってみて下さい。陶器士が造る器が輝くのは、陶器士がイメージしている物を入れた時です。もし、陶器士がイメージしているものを器に入れないなら、その器は輝きません。器が輝かないなら、それは失敗作です。陶器士は、失敗作は、自分の傍に置くことなく、壊して捨てます。

でも父なる神は、失敗作に自らなることを選んだ人間を、壊したく無かったのです。だから、御自分の愛する独り子・主イエスを、十字架に架けて、神を無視して歩む人間の罪の代価を支払わせたのです。そして、そのことを信じた人間を、壊して捨てるのではなくて、神との関係に生きて、隣人との関係に生きるようになるように、御自分が導いていくことを決められたのです。それが神の愛です。

つまり、神の愛は、御自分が一番大切にしている独り子・主イエスを捨ててでも、御自分との関係を断絶した人間と和解して、御自分との関係に生きるように導くこと、神との関係に生きようとすることなのです。

そういう神の愛が示されているのが22節です。そこを見ますと、「しかし今や、神は御子の肉のからだにおいて、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」そう記されています。

22節を口語訳聖書で見ますと、「しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。」そう記されています。

実は、口語訳聖書の方が原文に近い訳し方をしています。22節の「和解」という言葉、これはギリシャ語で「アポカタラスソー」という言葉が使われています。「アポカタラスソー」とは、かつては親しかったけれど、今は不和になっていて、敵対してしまっている人が、もう一度、和解して、関係が回復していることを意味しています。しかも、「アポカタラスソー」という言葉は、何回も和平交渉がなされて、段階を経て、ようやく平和条約の締結がなされたということではなくて、瞬時に完全な和解をしたことを意味しています。

 父なる神が、愛する独り子・主イエスの十字架の死を通して、そんな「アポカタラスソー」を齎した目的は、口語訳聖書の22節後半に記されている通り、私たちが、聖なる、傷のない、責められるところがない者として、父なる神の御前に立てるようになるためです。

 新共同訳聖書の22節には記されていませんが、口語訳聖書では22節に「立たせて下さった」という言葉。その言葉が記されています。口語訳聖書に出てくる「立たせて下さった」という言葉。これはギリシャ語で、「パラステーサイ」と言います。「パラステーサイ」という言葉は、コリントの信徒への手紙2の11章2節後半にも出てきます。そこを見ますと「わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」そう記されています。

コリントの信徒への手紙2の11章2節後半に出てくる「献げる」という言葉。それが、「パラステーサイ」という言葉です。

つまり、コリントの信徒への手紙2の11章2節後半がいっていることは、「パウロがコリント教会を、純潔な処女として、主イエスと婚約させた。つまり、キリストに立たせた。」そういうことです。

実は、エルサレム教会には、コリント教会の教師になるように自己推薦して、自分の勢力を拡大することを目論んで、コリント教会に来ようとしていた人たちがいました。そういう人たちと、パウロは張り合ったのです。そんなパウロの行いは、ある人たちからは、自分の勢力を拡大しようとしているように見えていたのです。でもパウロが張り合った理由は、コリント教会を、純潔な嫁として、主イエスと婚約させるためだったのです。つまり、コリント教会を、純潔を守っている者として、キリストに立たせるためだったのです。

よく、キリスト者は、婚前交渉は駄目だと言います。その理由は、神の前に誓約しない限り、三位一体の神、男性、女性の三位一体のコミュニティーの完成とは認められないからです。男性と女性が、恋人関係が成立したと宣言をしても、そこに三位一体の神、男性、女性の三位一体のコミュニティーの誕生が認められないのです。神抜きの恋人関係は、男性と女性が結ばれる強い意志が欠落している関係でしかないのです。つまり、結婚をしていない男女の関係は、神を第一として、結ばれている関係ではなくて、自分たちの心を第一として、結ばれている関係でしかないのです。

余談になりましたが、コリントの信徒への手紙2の11章2節後半で使われている「パラステーサイ」という言葉は、純潔な教会が、主イエスと結ばれると言う意味で使われているのです。

 つまり、神と和解した人、つまり、神と「アポカタラスソー」した人は、聖なる者、傷のない者、責められるところがない者として、父なる神と結ばれるだけではなくて、純潔な神の民として、主イエスと結ばれるようにもなるのです。

 その意味は、神と和解した人、つまり、神と「アポカタラスソー」した人は、その人が聖なる者、傷のない者、責められるところがない者として、父なる神に受け入れられるようになるだけではなくて、純潔な神の民として、主イエスと結ばれて、主イエスに似た者になっていくということです。

 純潔な神の民として、主イエスと結ばれて、主イエスに似た者になっていくという意味は、教会の仲間と共に、神を愛し、敵と思っている隣人をも愛するようになっていく。そういう意味です。

 でもそれは、人間の力では出来ません。神を愛し、敵と思っている隣人をも愛するようになれるのは、主イエスの十字架の御業を信じた時に、私たちに与えられる聖霊の御業によるのです。聖霊が私たちを、神を愛し、敵と思っている隣人をも愛することが出来るようにして下さるのです。

 つまり、罪の二重性を知らされて、二重性の罪があるにも関わらず愛されていることを頑張って信じて歩んでいる中で、信仰確信が与えられて、信仰確証が持てるようになるのではないのです。

そうではなくて、罪の二重性を知らされて、二重性の罪があるにも関わらず愛されている信仰確証が与えられて、そこから信仰確信が持てるようになって、信じて歩んでいけるようになるのです。

もし人間が自分の力で頑張って、神を愛し、敵と思っている隣人をも愛することが出来るなら、人間の力で、神の子になることが出来ます。もしそうであれば、主イエスが、天から地上に降りてきて、人間となって、十字架に架かって死なれる必要は全く無かったのです。でも、人間が自分の力で頑張って、神を愛し、敵と思えるような隣人をも愛することが、不可能だからこそ、父なる神は、御自分の愛する独り子・主イエスを十字架に架けて殺さざるを得なかったのです。

父なる神は、人間の力で頑張って、神を愛し、敵と思える隣人でさえも愛することが出来ないことを知っておられたからこそ、主イエスの十字架の御業を信じた人に、聖霊を内住させて、聖霊の働きによって、聖書を理解し、神を愛し、敵と思える隣人をも愛する力を与えて下さるようにして下さったのです。

ということは、私たちが主イエスの十字架の御業を確証して、神と和解してこそ、神を愛し、敵と思える隣人でさえも愛することが出来るようになるのです。だから23節は、「揺るぐことなく信仰確証に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」そう言っているのです。

「福音」とは、最初に申し上げました通り、「良き知らせ」そういう意味です。そして良き知らせとは、信仰確証が与えられて、神と和解すること、神との平和があることです。そうなってこそ、聖霊に助けられて、神を愛し、隣人を愛することが出来るようになるのです。

ギリシャ語で平和のことを「エイレーネー」と言います。「エイレーネー」という言葉には、「調和」そういう意味があります。新約聖書が語っている「エイレーネー」という意味は、主に「調和」であることを覚えて頂きたいと思います。また、ヘブル語で平和のことを「シャローム」と言います。シャロームは、旧約聖書の中で、237回使われています。「シャローム」という言葉には、健康、長寿、争いのない状態、本来あるべき好ましい状態、調和、繁栄、正義の実現そういう意味があります。そして、それらの意味を含む挨拶、さようならという意味もあります。そんな「シャローム」は、表面上、争いが無いことを「シャローム」とは言いません。

分かりやすくいえば、実際には殺し合いや、関係の断絶が無かったとしても、いつもでも殺し合いや、関係の断絶が起こりうる緊張状態が自分の内にあれば、「シャローム」は破られているのです。つまり、自分を抑圧することで、「シャローム」という「平和」を保とうとしているのであれば、それは「シャローム」という「平和」ではないのです。

多くの聖書学者は、「『シャローム』という『平和』は、『調和」、あるいは、『本来あるべき姿に戻ること』そう定義づけることが出来る。」そう言っています。私もそうだと思います。そんな「シャローム」という「平和」は、自己中心な人間が持つことは出来ません。そんな「シャローム」という「平和」は、神の主導権によって齎されるのです。神が主イエスの十字架の救いという確証を私たちに与えるのと共に、聖霊を与えて、聖霊が私たちに働きかけることで、私たちに「シャローム」という「平和」が齎されるのです。

聖霊に「シャローム」という「平和」を齎された時に、私たちは神と調和することが出来て、敵と思えるような隣人と「本来あるべき姿」に戻って、隣人と「調和」して歩んでいくことが出来るようになるのです。

既に神と和解していて、聖霊が与えられている私たちキリスト者には、聖霊の働きによって、敵と思える隣人との「シャローム」が与えられますように。

まだ、神と和解していない人たちは、神との和解が与えられて、神との「シャローム」があたえられて、聖霊が与えられて、敵と思える隣人との「シャローム」も与えられますように。

最後に一言お祈りさせて頂きます。