使徒言行録15章1節~21節
「神の恵みを受けよう」
牧師 野々川 康弘
今日からいよいよ15章に入ります。実は、15章を最後に、初代教会の中心的人物だったペトロのことが、語られなくなります。16章からは、パウロの宣教のこと。それが主に語られています。
そして、いよいよパウロの宣教のことが主に語り始められる前の、15章の冒頭に、エルサレム会議のことが書かれているのです。
紀元48年頃に行われたエルサレム会議が、キリスト教会のその後の歴史に、決定的な影響を与えたのです。
エルサレム会議が行われることになった経緯が、1節~2節に記されています。そこを見ますと、「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」そう記されています。
割礼のことで、激しい論争が起こった所。それはアンティオキア教会です。アンティオキア教会がどのように生まれたのか。そのことが11章19節~21節に記されています。そこを見て分かることは、ステファノの殉教を機に、外国生まれのユダヤ人キリスト者たちに迫害が起こって、彼らの中で、シリア州の州都、アンティオキアで宣教した人たちがいたことです。彼らが宣教した結果、アンティオキア教会が生まれたのです。
アンティオキアは、ローマ帝国の中で、ローマ、アレクサンドリアに次いで、三番目に大きな都市です。そこには、色々な国の人たちが住んでいました。アンティオキアは、国際都市として発展していたのです。そんなこともあって、アンティオキア教会は、異邦人たちが中心となっていました。そんな教会に、エルサレム教会から派遣された人が、バルナバだったのです。そして、バルナバが選んで連れて来た人。それがが、パウロでした。
バルナバとパウロが、アンティオキア教会の中心的指導者となったのです。そして、その教会が、彼らを、第一回目の宣教旅行に派遣したのです。
そんなアンティオキア教会に、エルサレム教会から来た人たちが、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」そう言ったのです。
割礼は、ユダヤ人男子の場合、生まれて八日目に必ず受けるものです。割礼を受けている神の民であること。それが、ユダヤ人の印です。ということは、割礼を受けていないユダヤ人は、ユダヤ人の血を受け継いでいたとしても、ユダヤ人とは認められなかったのです。言葉を換えていえば、イスラエルの民がユダヤ人で、イスラエルの民でない人は、たとえユダヤ人の血を受け継いでいたとしても、ユダヤ人とは認められていなかったのです。更にいえば、異邦人がユダヤ教に改宗する場合、割礼を受けて、初めてユダヤ人の仲間に加えられるのです。ユダヤ教では、異邦人が救われるには、割礼を受けて、ユダヤ教に改宗しなければならなかったのです。
エルサレム教会から、アンティオキア教会に来た人たちは、その割礼を受けなければ救われない。つまり、ユダヤ人の仲間にならなければ、救われない。そんなふうに、アンティオキア教会の人たちに言ったのです。何故なら、ユダヤ人たちにとっては、異邦人が救われるには、ユダヤ人の仲間になることが常識だったからです。
キリスト者が、皆ユダヤ人だった時は、何の問題も無かったのです。でも、異邦人たちが中心になっていたアンティオキア教会では、それが大きな問題だったのです。
アンティオキア教会のみならず、パウロたちの宣教によって出来た教会も、割礼を受けていません。ユダヤ人の仲間にならないまま、主イエスの十字架を信じて、洗礼を受けて、神の救いに与って歩んでいたのです。
そんな人たちに、「あなたがたはそのままでは救われない、割礼を受けてユダヤ人にならなければならない」そういったのです。つまり、割礼を受けていない人たちの救いを否定したのです。でも異邦人キリスト者たちは、神を無視する罪の赦しである主イエスの十字架、自己中心の罪の赦しである主イエスの十字架、それを信じて、洗礼を受けるだけで救われる。そう教えられていたのです。そしてそのことを心から信じていたのです。それが否定されたのです。だから、アンティオキア教会の人たちは、動揺したのです。当然、かつてアンティオキア教会で、「神を無視する罪の赦しである主イエスの十字架、自己中心の罪の赦しである主イエスの十字架、それを信じて、洗礼を受けるだけで救われる。」そう教えていたバルナバやパウロは、エルサレム教会から来た彼らに、反論しました。彼らは、「救いは、主イエスの十字架を信じることで与えられるのであって、割礼を受けてユダヤ人の仲間にならなければ救われないなんてことはない。異邦人は異邦人のままで、主イエスの救いにあずかることができる。」そう主張したのです。そのため、エルサレム教会からアンティオキア教会に来た人たちと、論争になったのです。その論争を収めるために、エルサレム会議を開いたのです。
主イエスの十字架を信じる信仰と、旧約のイスラエルの民の信仰との関係。それが、初代教会が直面した、最大の問題だったのです。
エルサレム会議で、その問題の答が出たことで、その後のキリスト教会の救いの考え方。それが決定したのです。そういう意味で、エルサレム会議の決定が、教会のその後の歴史に、大きな影響を与えたのです。
そこで、私たちが考えなければならないことがあるのです。教会は、時に激しい論争が起こるのです。
何が正しい信仰なのか、そのことについて、激しくぶつかることがあるのです。
確かに論争は、福音宣教の妨げになる側面もあります。教会が論争で、険悪な雰囲気になれば、教会に来たくなくなるのです。そういう現実は、確かにあります。でも、論争を通して、正しい信仰とは何か。そのことがはっきりするようになる。そういった側面もあるのです。虫観図でなく、鳥観図で見るならば、教会の成長、宣教の進展に結びつく側面もあるのです。教会の歴史は、論争の繰り返しです。現に、論争が原因で、エルサレム会議を行うことになって、そのエルサレム会議で、後の公同教会の、神の救いの理解が定まったのです。
なので私は、教会での論争を過度に恐れる必要は無いと思っています。ある意味で、論争を恐れるのは、教会を導かれている神を、ちゃんと信頼していない証拠です。教会は、私たちが支えている以上に、神が支えておられるのです。教会は、私たちのものではなくて、神のものです。だから安心して、主張すべきことはちゃんと主張して、論争すれば良いのです。私たちがエルサレム会議から学ぶべきこと。それは、教会の中に論争が起きない方が良いということではなくて、論争がエルサレム会議に繋がって、そのエルサレム会議で、公同教会の神の救いの理解が、一枚岩になったという事実です。
神は、教会の問題解決のために、エルサレム会議を用いられたのです。でもそれは、初代教会の人たちが、民主的に事を進めるためではありません。会議の中で、神御自身が働いて、御自分の結論を伝えるためです。
神が働く会議と、民主的に事を進める会議は、違っています。民主的に事を進める会議では、会議が上手くいくように、水面下で「根回し」をします。その理由は、自己中心な私たちは、会議の中で物事を解決するのが下手だからです。でも、教会会議は、会議の中で働かれる神を信じて、会議の中で物事を決めるのです。
パウロたちは、エルサレム教会の使徒たちや、長老たちとのエルサレム会議に臨むために、アンティオキア教会からエルサレム教会に行きました。その会議で、彼らは4節に記されている通り、「神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した」のです。つまり、異邦人たちが、異邦人のままで、主イエスの十字架を信じて、洗礼を受けて、いろいろな所で、彼らを中心とするキリスト教会が生まれたことを報告したのです。でも、それに対して、ファリサイ派からキリスト者になった人たちが、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきである」そう主張したのです。
つまり、エルサレム会議でも、アンティオキアで起こった論争が起こったのです。そんなエルサレム会議の結論に至るような話をした人。それがペトロとヤコブだったのです。二人は、エルサレム教会側の人たちです。
エルサレム会議でペトロが話したこと。それが7節~11節のことです。そこを見ますと、「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」そう記されています。
これは、10章に記されている、ローマの軍人コルネリウスに対するペトロの宣教のことです。
ペトロが、異邦人であるコルネリウスに御言葉を語っていた時に、御言葉を聴いていた彼に聖霊が降ったのです。これは神が、彼を受け入れられた印だったのです。それを見たからこそ、ペトロは彼に洗礼を授けたのです。彼は異邦人のままで、神の救いに与ったのです。ペトロは、自分が体験したその出来事を、エルサレム会議で証したのです。
でも、そういう証をしたペトロも、異邦人のままで、彼が神の救いに与ることが出来るなんてことを、受け入れるまで時間がかかったのです。でも彼は、ユダヤ人の常識に閉じこもって、神が異邦人ですら、救おうとなさっている事実に、心を閉ざすなんてことはしなかったのです。彼はむしろ、自分の常識を超えている神の働きに驚いたのです。神が全ての人を救おうとなさっている、びっくりする恵みを知らされたのです。それが分かるのが11節の言葉です。そこには、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」そう記されています。「彼ら異邦人も同じことです。」この一言に、神が全ての人を救おうと思われている神のびっくりする恵み。それを知らされたペトロの考えが表れています。
私は以前、「信仰とは、神がなさった救いの御業の事実。それを信じて受け入れることである。」そう申し上げました。
神の救いは、自分に御利益がありそうだから受け入れる。そういう類のものではないのです。そうではなくて、主イエスが、私たちの自己中心の罪のため、神を無視する罪のために、十字架に架かって死んでくださったという事実。それを受け入れること。それが信仰です。信仰は、自分の思いを、ベースにはしていないのです。私たちの思い。それをベースにした信仰は、自分に苦難が押し寄せてきた時に、たちまち崩れ去ります。
ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしはけっしてつまずきません。」、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」そう主イエスに断言していたのです。彼の思いはとてもあつかった。でもペトロは、主イエスが十字架に架かるために捕えられた時に、自分も殺されかねない恐怖から、主イエスのことを3回も、「知らない!」そう言ってしまったのです。聖書では、3という数字は完全数です。つまりペトロは、「自分は主イエスとは完全に関係ない!」そういったのです。そういった後、彼は元の漁師に戻っていました。彼は、信仰から完全にスリップしていたのです。スリップしていたとは、完全に信仰から落ちていたということです。でも、死から復活した主イエスが、彼の前に現れて、主イエスのことを3回も「知らない!」そういってしまった彼の失敗を、「わたしの子羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」そのように3回、声をかけられた事実があったが故に、ペトロは信仰を取り戻すことが出来たのです。つまり、人間が完全に信仰を失っても、その信仰を、神が完全に取り戻してくださる事実があったからこそ、ペトロは信仰生活に戻ることが出来たのです。
人間の思いでは、信仰はたもてないのです。人間の思いをベースにした信仰は、自分に嫌なこと、苦しいことが起こった時に、消え失せるのです。でも、神の救いの事実に心が開かれているとすれば、その信仰は盤石です。それは、自分が自分の信仰を握っているのではなくて、神が自分の信仰を握っておられることを知らされていることになるからです。私たちは不完全です。でも神は完全です。
神の救いに目が開かれるのは、神が私たちを救おうとなさっている事実。それに、心を開いてこそです。
ペトロは、ローマの軍人コルネリウスに、自分が御言葉を語っていた時に、神が彼を救うために、聖霊を降らせた事実。それに心を開いていたのです。たからこそ、神が異邦人のままで、救おうとしておられる事実を知らされることが出来たのです。
だからペトロは、エルサレム会議で、エルサレム教会側の人でありながらも、生粋のユダヤ人でありながらも、ユダヤ人の常識に固執した発言ではなくて、神の新しい御業に心を留めた発言。この会議の決定に繋がる発言。それをすることが出来たのです。
でも、エルサレム会議の決定に繋がった発言は、ペトロの発言だけではありませんでした。ヤコブの発言も、会議の決定に繋がる発言になったのです。
エルサレム会議で発言したヤコブは、主イエスの弟です。彼は、十二弟子の一人ではありません。でも彼は、エルサレム教会の中心人物の一人でした。彼は、旧約聖書の言葉を引用して語りました。彼が語ったのは、70人訳ギリシャ語聖書に書かれている、アモス書9章12節の言葉です。70人訳のアモス書9章12節を直訳しますとこうなります。「それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」
ヤコブはエルサレム会議の中で、「異邦人のままで、神が救われたというペトロの証は、アモス書9章12の御言葉を実現するためだった。」そう語ったのです。
つまりヤコブは、ペトロがした証を、聖書の御言葉によって裏付けることで、異邦人のままでの救いは、確かに神の御業であることを証明したのです。
神が会議の中で御心を示して、結論を出して下さることを信じて歩む際に、とても大切になることを、ヤコブは発言しています。それは、いつも神の御言葉によって確認される必要があるということです。そのことなしに、自分の思いを主張しているならば、単なる人間の思いを、「これが神の新しい御心である」そう勘違いしてしまうことが起こりうるのです。常に御言葉に立ち帰って、常に御言葉に聴きながら、神の新しい御業に従っていく姿勢。それが教会会議には必要なのです。
現代の教会の会議において、私たちの教会でいえば、臨時教会総会や、教会総会において、とても大切なことを、今日の箇所は教えています。それは、自分が、「これこそ神の御業である。」そう思ったことを証して、その証を、聖書の御言葉によって裏付けることです。更に言えば、会議を神が導かれて、神が会議の結論を出すことを信じて、予め根回しをしないことです。
エルサレム会議は、ペトロとヤコブの発言が神に用いられて、正しい結論に至りました。つまり、異邦人がキリスト者となって教会に加えられるには、割礼は必要ないということです。
それが意味しているのは、異邦人がユダヤ人と同じようになる必要はない。そういうことです。教会は、確かに旧約のイスラエルの民の歴史を受け継いでいます。旧約聖書の信仰と新約聖書の信仰は繋がっているのです。
でも、父なる神は、独り子主イエスの救いの御業を通して、旧約の時とは違う新しい救いの恵み。それを実現して下さったのです。ただ、主イエスの救いの恵みによってのみ、救われる神の民を、興して下さったのです。だから私たちは、ユダヤ人と同じことをしなくても良いのです。ユダヤ人と同じことをしなくても、主イエスの十字架を信じる信仰によって、神の民とされて、救いにあずかることができるのです。そのことが、エルサレム会議で決定したのです。
そのことによって、キリスト教は、ユダヤ人のみならず、全ての人たちに開かれていったのです。
何によって救われるのか。そのことをめぐって、教会の中で起った論争は、「神を無視する罪や、自己中心の罪の身代わりとなって、主イエスが十字架にお架かりになって死なれたこと。そのことを信じることで救われる。」そういう真理を、教会がはっきり神に示される、絶好の機会になったのです。
今日、私たちは臨時教会総会を行います。エルサレム会議の今日の話を心に留めて、私たちは臨時総会に臨みたいと思います。そのことによって大きな神の恵みを、臨時教会総会で得たい。そう願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
