使徒言行録16章16節~40節
「キリスト者の自由」
牧師 野々川 康弘
今日の16節~18節を見ますと、占いの霊に取りつかれた奴隷女性が、主人に多くの利益を得させるた
めに、占っていたことが記されています。彼女がパウロたちについてきて、「この人たちは、いと高き神の
僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」そういったことをいつも言って、パウロたちの宣教を
邪魔していたのです。だから18節に記されている通り、パウロは占いの霊にむかって、「イエス・キリストの
名によって命ずる。この女性から出て行け!」そう言って、占いの霊を追い出したのです。
「イエス・キリストの名によって命ずる。この女性から出て行け!」この言い方は、悪霊に取りつかれてい
る人を癒す言い方と、同じ言い方です。つまり、占いの霊は、悪霊の一種なのです。
占いに共通しているのは、苦しみや悲しみの原因を、家の方角や、星座や、先祖にすることです。つま
り、占いは、苦しみや悲しみの原因を、私たちの外側に置くのです。
実は、悪霊の働きに共通していることがあります。それは、私たちの苦しみや悲しみの原因を、私たち
の内側に置かないということです。
ロジャーズ派の心理カウンセラーで有名な、日本トランスパーソナル学会の会長でもある諸富祥彦(も
ろとみよしひこ)先生は、産業カウンセラーの講座の中で、「心理カウンセリングの敵は占いです。自分と
向き合うよりも手軽でとっつきやすいからです。」そういったことを言われました。これはとても的確だと思
います。
そうなのです。占いは心理カウンセリングとは違っていて、自分の内面と向き合う必要がないのです。
だから、とっつきやすいのです。ちょっと乱暴な言い方ではありますが、占いは、「あなたが苦しみや、悲
しみを抱えている原因は、方位や、星座や、先祖のせいだ。」そういう言い方をするのです。
罪人である私たちは、自分の外側に、自分を苦しめたり、悲しめたりする原因があるとするのです。罪
人である私たちは、いつも自分が主人で、自分が支配者なのです。自分に罪があるなんてことは、考え
たくないのです。また、自分が主人で、自分が支配者であろうとする私たち罪人は、神をも自分に仕える
者、自分の願いや、自分の思いを叶える道具とするのです。
占いの霊に取りつかれていた女性が奴隷だったのは、そのことを象徴しています。占いの霊に取りつ
かれていた女性奴隷は、主人たちの金儲けのために仕えていました。それと同じように、悪霊は、人間に
利益を齎す人間の奴隷となって、人間に仕えるのです。そして自分に依存させて、人間を神から離れる
ように導くのです。悪霊の目的はそこにあるのです。
それがよく現れているのが19節です。そこを見ますとこう記されています。「この女の主人たちは、金儲
けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立
てて行った。」
自分が主人で、自分が支配者になっている人は、自分に利益を齎すことを妨害する人を、邪魔者扱い
するのです。自分が生きやすいようにしてくれない人を、自分の人生から排除するのです。
キリスト教は、自分によい利益を齎す宗教ではありません。自分が主人になる利益、自分が支配者に
なる利益、それをキリスト教は与えないのです。むしろ、そうなることが削られていくために、キリスト教は
存在しています。
キリスト教は、自分ではなくて、神を主人にすることなのです。神を支配者にすることなのです。そのこ
とを教えているのがキリスト教です。キリスト教は、自分の思いではなくて、神の御思いを、自分の思いに
する宗教です。
だから教会には高い敷居があるのです。高い敷居を無くしてはならないのです。米子にいた時、私は、
人からこういったことを言われました。「先生、教会で、神を無視する罪が、人間にあることを言わないで
下さい。人を教会に誘いにくくなります。それだけではありません。礼拝で元気が無くなります。私は普段
疲れているから、教会で慰めを得たいのです。」その時、私は、こういうふうに言いました。「教会にきに
くくなる敷居があってこそ教会なのです。神は、人が生きやすくなるための道具ではありません。キリスト
教は、自分が主人になっている罪。自分が支配者になっている罪。それを認めて、神を自分の人生の主
人にする宗教です。キリスト教は、神を自分の支配者にすることを教えている宗教なのです。それを教え
ることが出来るのは、教会だけです。教会は、自分が主人になっている罪、自分が支配者になっている罪
。それを認めて、神を自分の主人とする決意をした人、神を自分の支配者とすることを決意した人に、天
の門を開くことの出来る鍵を、与える権限が神から与えられているところです。神を自分の主人とする決
意が出来ていない人、神を自分の支配者とすることを決意した人に、神から任されている鍵を与えること
は、神のことを思わず、人のことを思っている教会の罪です。」
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教会というところは、多くの人が集まるようになれば良いということではありません。多くの人が集まる
ようになること以上に、多くの人が教会に繋がるために、一体どうすれば良いのか。そのことを考えなけ
ればならないのです。
パウロは、リディアの家を拠点として宣教している中で、占いの霊に取りつかれた女性奴隷と出会いま
した。彼女は、パウロたちにつきまとって、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ
伝えているのです」そう叫んでいたのです。そんなことが何日も続いたのです。だからパウロは、彼女か
ら悪霊を追い出したのです。でも、彼女が叫んでいたことは正しいことなのです。テレビや新聞がなかった
この時代、彼女の叫びは、とても宣伝効果抜群だったのです。彼女の叫びのおかげで、多くの人たちが
、パウロたちの周りに集まってきていたのです。そうであるならば、感謝こそすれ、迷惑に思う必要は無
かったはずです。
でも、パウロにとっては迷惑だったのです。パウロは、「沢山の人が集まってくれれば良い。」そうは思
っていなかったのです。「沢山の人が集まれば、それが絶好の宣教の機会になる。」そうは考えていな
かったのです。パウロ的には、占い師の言葉で教会に人が集まってくるのは、たとえ占い師の言葉が正し
くても、自分を主人としている人の言葉なのです。彼女がしていることは、「神を自分の人生に、利用し
なさい。」そのようにアピールしている言葉でしかないのです。自分が変えられるのでなくて、「御利益を
得よう!」そう思っている人たちを勧誘する言葉でしかないのです。教会は、そういう考えの人と同一視さ
れると困るのです。占いの霊に取りつかれた女性奴隷が、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに
救いの道を宣べ伝えているのです」そう叫んだのは、悪霊が、彼女の在り方と教会を、同一なものである
。そういうふうに、フィリピの町の皆に思わせる巧妙な罠なのです。フィリピの町の人たちに、「パウロが宣
教する神は、占いと同じように、自分に利益を齎す救いを与える神なである。」そう印象づける罠だったの
です。
パウロは、そのことをはっきり意識していたからこそ、女性奴隷についていた悪霊を追い出したのです
。
現代の教会は、悪霊の罠にはまっている教会が多いと思います。現代の教会は、人を集めるために、
私たちの生活の利益になる何かしらの講演会を企画します。でもそれは、「教会は、私たちの生活の利
益になることを、語るところである。」そういったことを印象づけるのです。でもそれは、教会が発信する
べきメッセージとは真逆です。教会は、自分ではなくて、神を自分の主人にすること。神が自分の支配者
であること。そのことをメッセージとして発信している宗教です。だから厳しい教会は、人の生活に役立つ
ような講演会は会堂の中ではしないのです。会堂では礼拝や賛美をするだけで、人の生活に役立つよう
な講演会は、みんなが普段食事をする場所で行うのです。
でも、「教会が発信するべきメッセージは、神・罪・救いである。人の生活に役立つような講演会は会堂
の中ではするべきではない。」そういったメッセージを発信すれば、自分が主人となりたい人たちや、自分
が支配者になりたい人たちから、迫害を受けるのです。別の言葉でいえば、悪霊の罠にはまっている人た
ちから迫害を受けるのです。
その事実として、パウロが奴隷女性から、悪霊を追い出したが故に、占いでの金儲けの道が閉ざされ
た彼女の主人たちは怒って、パウロたちを役人に引き渡しました。
おそらく奴隷女性の主人たちは、町の有力者だったと思われます。何故なら町の高官たちは、ろくに調
もせず、部下に何度も鞭を打たせて、パウロたちを牢獄に閉じ込めたからです。パウロたちは、牢獄の一
番奥で、木の足枷をはめられて投獄されました。
でも良く考えてみて欲しいのです。パウロは37節に記されている通り、ローマ帝国の市民権を持ってい
た人です。当時、ローマ帝国の市民権は、誰もが持つことは出来なかったのです。当時の法に照らせば
、ローマ帝国の市民権を持っている人は、ローマの本国でしか裁いてはいけなかったのです。でもフィリピ
の町でパウロは裁かれたのです。パウロが受けた仕打ちは、ローマ市民に対する重大な侵害で、責任
者は厳しく処罰されることだったのです。
悪霊を追い出したパウロは、悪霊に依存していた人たちによって、不当な苦しみを受けたのです。その
ことが指し示していることは、もし、キリスト者が、「神を自分の主人として歩みなさい。神を自分の支配者
として歩みなさい。」そう言ったとすれば、悪霊に依存して、悪霊に洗脳されて、自分が主人として歩んで
いる人、自分が支配者として歩んでいる人は、キリスト者に対して怒って、嫌なことをするということです
。それ程この世の中は、悪霊の思惑通り、神から疎遠になって生きているのです。
投獄という苦しみにあったパウロたち様子が25節に記されています。そこを見ますとこう記されています
。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入
っていた。」
鞭で打たれた傷が痛んで、足枷をはめられている暗い牢獄の中で、パウロたちは神を賛美していたの
です。賛美は祈りなのです。ということは、パウロたちは、神に祈っていたのです。でも、彼らがしていた祈
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りは、賛美という祈りでした。神に感謝する祈り、神を敬う祈り、神を褒めたたえる祈り、そういう祈りをし
ていたのです。
私たちは、苦しみにあったり、不当な扱いを受けたりすれば、「神よ、この苦しみから救い出して下さい
。」そういった祈りを、必死にするのではないでしょうか。その祈りが悪いわけではありません。でも、神
と共に歩むことを喜びとしている人は、神のために苦しみを受けた時、神のために不当な扱いを受けた
時、主イエスが、自分が神を無視する罪のために、不当な扱いを受けて、苦しみを受けて死なれたことを
思い出して、神の子、主イエスと同じ痛みを負っていること、神の子として歩めていること、そのことを喜ん
で、神への感謝の祈り、神を敬う祈り、神を褒めたたえる祈りが出て来るのです。
良く考えてみて欲しいのです。牢獄に閉じ込められている人たちは、誰もが「この苦しみから救い出して
下さい。」そう思っていたはずです。自分が悪いことをして閉じ込められていながらも、尚も、自分のこと
ばかり考えていたはずです。そんな中、神への感謝の祈り、神を敬う祈り、神を褒めたたえる祈り、それが
聴こえてくるのです。だからびっくりして皆、聴き入ってしまったのです。「この人たちは一体何者なのだろ
うか。。。何でこんな祈りが出来るのだろうか。。。」そう思ったのです。
パウロたちの祈りは、自分が罪を犯して、捕らわれているにも関わらず、捕らわれている苦しみから解
放されることしか願っていなかった囚人たちの心を、捕らえたのです。
そんな中で、突然、大地震が起こったのです。その結果、牢の土台が揺れ動いて、戸はみな開いて、
囚人たちを繋いでいた鎖も全部外れて、全ての囚人が、逃げ出せるようになったのです。でも、囚人た
ちは誰一人、そこを動こうとしなかったのです。パウロたちの賛美の祈りは、他の囚人たちの心を、それ
ほど深く捕えて、彼らに光を齎していたのです。
神が共にいる人、つまり、聖霊と共に歩んでいる人は、神と共に歩めていることを喜ぶのです。でも悪
霊は、人間を苦しみや不幸から逃れさせて、神から離れさせて、自分を自分の人生の中心に据えて、歩
ませように仕向けるのです。悪霊は、神でさえも、人間が苦しみや不幸から逃れさせる道具であるかのよ
うに、人間を洗脳するのです。
でも、聖霊が人間に齎す歩みは、それとは真逆です。聖霊は、自分が自分の人生の主人となるように
導くのではなくて、神が自分の人生の主人となるように導かれるのです。聖霊は、自分が支配者になるよ
うに導くのではなくて、神が支配者となるように導かれる御方です。そんな御方の導きがあってこそ、私た
ちは、苦しみや不幸から逃れることを、第一の目的とする生き方から、解放されるようになるのです。聖
霊は私たちを、苦しみや不幸から逃れさせる幸福を与える以上に、神に従って、神に仕える従えること
が出来る喜びを、第一とする歩みを与えて下さるのです。
私たちは、「神に従わせる聖霊に、従って歩むなんてことは、自分の幸せを放棄しなければならない
苦しいことだ!馬鹿げている!」そんなふうに悪霊に洗脳されているのです。
でも、聖霊に従って歩んで、神の御思い通り、神を愛し隣人を愛するようになることが、人間にとって一
番幸せなことなのです。キリスト者であったゲーテは、「自分が愛されることよりも、愛することの方が幸せ
である。」そう言いました。実はそれが、人間が幸福になる秘訣なのです。
考えてみて欲しいのです。「自分を愛してくれ。自分を苦しみから救ってくれ。」そんなふうにみんなが言
っているとすれば、必ず争いが起こって来ます。でも、みんなが「自分が愛されるよりも、愛することを一番
にしよう。自分が不当な扱いを受けたとしても、不当なことをした人を愛そう。自分に苦しみを与えてくる人
であっても、その人を愛そう。」そう思っていたとすれば、そこに争いは起ってきません。みんなが幸福にな
れるのです。
つまり、みんなが神に従って、神を愛し、隣人を愛するようになること。それが、人間が本当の意味で、
幸福になる秘訣なのです。
主イエスの救いを受け入れて、聖霊に導かれている人は、自分の力ではなくて、神の力を受けて、神を
愛し、隣人を愛することが出来るようになるのです。
パウロたちが、鞭を打たれた痛みの中で、足に木の足枷をはめられて、一番奥の暗い牢獄に入れられ
ても、自分たちが受けた苦しみは、主イエスの在り方を追体験することが出来たことであるとして、神に感
謝をして、神を敬う祈り、神を賛美する祈りが出来たことが、その証拠です。これは、パウロたちの力では
なくて、パウロたちと共にいる、聖霊の力です。聖霊は悪霊の洗脳から私たちを解き放って、神の御支配
の下で生きる者に造り変えて下さる御方なのです。つまり聖霊は、悪霊の洗脳から私たちを解放して、神
の御旨であるところの、神を愛し、隣人を愛して生きる者に、私たちを造り変えるのです。
私たちキリスト者の喜びは、主イエスを追体験出来ることなのです。主イエスを追体験するとは、主イエ
スが、私たちが神を無視する罪や、私たちが、自分を中心にする罪の身代わりとなって死なれることを、
御自分の喜びとされたように、私たちも、自分のことしか考えない人たちから不当な扱いを受けること、迫
害を受けることを、主イエスの愛を受けている者として、神の子とされた者として、喜びとするようになるこ
とです。
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聖霊は私たちに、主イエスを追体験する喜びを与えて下さる御方なのです。そんな聖霊に、自分の人
生を委ねて生きているならば、私たちは、苦しみの中にあったとしても、また死に直面していたとしても、
神を褒めたたえる祈り、神を敬う祈り、神に感謝する祈り。それが出来るようになるのです。
そういう祈りが、自分が罪を犯しても尚、自分の苦しみから解放されることしか願っていなかった囚人
たちの心を捕らえたのです。神を神としている人の歩みは、自分の幸福ばかりを願って、神さえも、自分
が幸福になるための道具としてしかみていない人には、とても不思議な魅力を感じるものなのです。そし
て、そういう人たちが、不思議な魅力を感じたことが、神の栄光が現れた証拠です。
パウロたちが投獄されたことで、神の栄光が現れて、自分の救出を願う祈りを核とする教会ではなくて
、神を賛美する祈りを核とする教会が、フィリピの獄中に生まれたのです。
そのことによって、一人の看守と、その家族全員が、救いにあずかることが出来たのです。看守は大
地震で、牢獄の戸が、みな開いてしまったのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思って、自殺しようとし
ました。
当時、囚人が逃げたなら、看守が責任を問われて、罰を受けることが定められていたのです。囚人全
員が逃げ出したとしたら、彼の人生は終わりです。だから彼は自分の人生に絶望して、自殺しようとした
のです。そんな彼に、パウロは、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」そう言ったのです。そ
のことが記されているのが、28節です。
パウロたちの神への感謝の祈り、神を敬う祈り、神を賛美する祈りに聴き入っていた囚人たちは、一人
も逃げ出すことなく、そこに留まっていたのです。パウロの「自害してはいけない。わたしたちは皆ここに
いる」という言葉は、看守にとって、奇跡的な救いの宣言でした。でも彼は、その奇跡的な救いを、体験し
ただけではなかったのです。彼は、暗い牢獄の奥で、足枷をはめられて投獄されていたパウロたちこそ、
本当に自由な者であることを思い知らされたのです。逆に、牢で番をしているはずの自分が、実は自分
が救われることばかりを考えている、不自由な、捕われ人であることを思い知らされたのです。
パウロたちは、捕えられて、鞭打たれて、投獄されている苦しみの中で、神への感謝の祈り、神を敬う
祈り、神を賛美する祈りが出来ていたのです。そこには、主イエスを追体験している喜びがあったのです。
彼らには、主イエスと共に歩んでいる喜びがあったのです。
彼らの姿には、「これから先、もっと苦しめられるかもしれない。。。此処で死んで終わりになるかも
しれない。。。」そういった精神的な死の恐怖とか、肉体の死に対する恐怖が、全く無かったのです。
パウロたちは、死に対する恐怖からの自由を得ていたのです。その死に対する恐怖からの自由によって
、彼らは、地震によって、牢獄の戸が全て開いても、そこに留まっていたのです。
看守は今まで、「自分は囚人ではない、自分は自由人だ。」そう思っていたのです。看守は、「自分は、
自分の人生の主人として歩んでいる自由人だ。」そう思っていたのです。でもそんな自分が、パウロの神
への感謝の祈り、神を敬う祈り、神を賛美する祈りを聴く中で、また、牢獄の戸が開かれているはずなの
に、逃げ出していないことを見る中で、自分の幸福の追求という縄に、がんじがらめに縛られている囚人
であることを思い知らされたのです。
この世での自分の幸福の追求が、自分の人生を謳歌する秘訣だと思っていた看守は、地震によって脆
くもそれが崩れ去ったのです。だから、「もう生きることができない。自殺するしかない。」そう思ってしま
ったのです。でも彼は、パウロたちが神への感謝の祈り、神を敬う祈り、神を賛美する祈りを聴く中で、ま
た、彼らが地震によって、牢獄の戸が開いていても、看守のことを思って、逃げ出していなかったことを見
た中で、自分は少しも自由ではないことを思い知らされたのです。
この夜、フィリピの牢獄で起ったことは、本当の自由とは何か。本当に自由を得ている人はどういう人で
あるのか。そのことを私たちに教えています。
パウロたちは、自由がないようでいて自由で、看守は、自由なようでいて、自分が捕らわれ人であること
に愕然としたのです。だから彼は30節で、パウロたちの前にひれ伏して、「先生方、救われるためにはどう
すべきでしょうか」そう尋ねたのです。そうしたところ、31節に記されている通り、パウロたちは、「主イエス
を信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」そう言ったのです。
私たちが捕らわれているところから救われるために必要なことは、主イエスの十字架・復活・昇天の救
いの御業を信じることです。私たちが、自分を主人として、自分の幸福の獲得ばかりを求めて生きている
罪の身代わりとなって、主イエスは十字架に架かって死んで下さったのです。そんな主イエスは、父なる
神の手によって、復活して、天に昇られて、聖霊を私たちに与えて下さったのです。御子主イエスが、父な
る神の手によって復活したのは、私たちが主イエスの十字架を信じて、神の子になったとしたら、主イエ
スと同じように、神を愛して、隣人を愛する神の子として、今も、死んだ後も、生きることが出来るように、
父なる神がして下さる約束です。そして、主イエスが天に昇られた昇天の御業は、聖霊を神の子になった
私たち一人一人に与えて、聖霊の力によって、私たちをこの世の生活の中で、御子・主イエスのように、
神を愛し、隣人を愛する人になるように、私たちを導くためです。
神が私たちに与えて下さっている救いは、私たちの苦しみが無くなることや、私たちの命が助かること
が第一義的なことではないのです。
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そうではなくて、主イエスの救いは、自分の人生の主人が与えられることなのです。この方の下でなら、
本当に生き生きと、喜びをもって仕えることが出来る。この御方の下でなら、苦しみの中にあっても、感謝
の祈り、敬う祈り、賛美する祈りが出来る。そういう御方が、自分の人生に与えられる。それが主イエスの
救いなのです。
31節の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます、」という意味は、家
族の中の一人が、主イエスの救いを信じれば、その家族も、自動的に主イエスの救いが、次々に与えら
れていくということではないのです。
そうではなくて、自分にとって一番大切な自分の幸福を求めることを手放して、主イエスという主人に仕
えることを一番とした時に、それを見て感動した家族が、主イエスの救いを受け入れて、主イエスを自分
の主人として歩み出すようになるのです。
看守は、パウロの家族ではありません。でも、パウロたちが、主イエスを追体験しているところを目の
当たりにした時に、看守は、主イエスを自分の人生の主人にしたい。そう思ったのです。だから彼は、主イ
エスの救いを受け入れたのです。
そんな看守は、自分の幸福を第一とするのではなくて、主イエスを追体験する者となって、神にとっての
幸福、自分の最も近い隣人である家族にとっての幸福、それを考えるようになったのです。そんな彼は、
パウロたちを自分の家に招いて、32節に記されている通り、真夜中であったにも関わらず、自分の家族
全部が、パウロたちの語る主イエスの救いを聞く時間をもうけたのです。そう聴きますと、「夜中なのに、そ
れが自分の家族のことを思ってのことなの?」そう思うかもしれません。でもおそらく、この時しか時間が
なかったのでしょう。主イエスの救いを聴くチャンスは、一期一会の出会いによるのです。
夜中に看守の家族が、主イエスの救いをパウロたちから聴いて、看守が、自分が救われた証を家族
にして、家族の人たちが主イエスの救いを信じて、看守と、看守の家族の皆が洗礼を受けて、主イエスの
救いに与って、聖霊が与えられたのです。
今日の結論になりますが、聖霊は神を自分の主人にするようにお働きになるのです。確かに、聖霊が働
いて下さって、病気からの回復とか、癒しが与えられることも勿論あります。でもそれが、聖霊の主な働き
では無いのです。
聖霊の主な働きは、自分が主人となる自由や、自分が幸福を得る自由を放棄させて、神を自分の主人
にする自由、神を愛し、隣人を愛する幸福を得る自由を与えるのです。
そういう自由を与えられて、そういう自由を謳歌しているのがキリスト者です。でも、そういう自由を得る
ことが、自分が縛られるような感覚になってしまうのが私たちです。それ程までに、私たちは悪霊に洗脳さ
れている罪深い存在なのです。だから主イエスが、そんな私たちをそこから救い出して、神が人間を創造
された当初の自由を与えるために、十字架・復活・昇天の御業を成し遂げて下さったのです。
今日私たちは、そのことを皆さんと共に、心に刻み込みたいと思います。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
