2026年6月21日仙台青葉荘教会弾圧記念礼拝

聖 化

  Ⅰペトロ1章14節~15節                  

牧師 野々川 康弘 

今日は、ホーリネス弾圧が起こったことを思い起こす礼拝です。聖化を学ぶ前に、少しホーリネス弾圧のことに触れたいと思います

仙台青葉荘教会が属しているホーリネスの群は、かつては、日本ホーリネス教会でした。日本ホーリネス教会は、1933年に、中田重治の再臨信仰から離れて、日本聖教会として、淀橋教会を本部にして、200ほどの教会がありました。1941年に、戦時中の国の統制によって、教会が合同することになって、日本基督教団が生まれました。

当時、日本聖教会は、七大教派の一つでした。日本聖教会は、どんな理由であろうとも、日本基督教団の成立と加入を、神の御心と受け止めて、日本基督教団に加入することを良しとしたのです。

当時の日本基督教団は、教派ごとに、部制が設けられていました。日本聖教会は、日本基督教団の第6部でした。

 さて、本題のホーリネス弾圧についてです。国から弾圧を受けた理由は、治安維持法違反です。1925年に定められた治安維持法は、共産主義を取り締まる法律でした。でも、共産主義の検挙が終わりますと、国は宗教に目を向けるようになったのです。1941年に治安維持法を改正して、宗教への適用を合法化したのです。ホーリネス弾圧は、治安維持法第7条によるもので、「国体を否定する団体」として、ホーリネス系の教会を弾圧したのです。 

因みに、国体を否定するという意味は、天皇を中心とする、日本国家の体制を否定するということです。たとえ政府に反対運動を起こさなかったとしても、思想や、信仰が、天皇を中心とする、日本国家の体制を否定するものであったなら、それが国に対する犯罪行為と見做されたのです。

ホーリネス系の教会全体で139名が検挙されて、実刑判決を受けて、刑務所に入った人たちや、執行猶予判決を受けて、実刑を免れた人たちもいました。実刑判決を受けた人たちの中の4名は、獄中で天に召されました。

日本基督教団は、日本政府がホーリネス系の教会に、解散命令を下した時に、日本基督教団の教師(牧師や伝道師)の退任を勧告(実質的には命令)しました。

弾圧を受けて、解散させられたにも関わらず、見事に今も、仙台青葉荘教会を存続させて下さっている神に、感謝しかありません。

 ホーリネス系の教会が、最初に弾圧を受けたのは、1942626日です。だからホーリネスの群は、6月を4重の福音強調月間としているのです。

なので今日は、4重の福音の聖化を、皆さんと共に学びたいと思います。

4重の福音の聖化を学ぶ前に、一言お祈りしたいと思います。

 前回、私は、「私たちが神を無視する罪のために、主イエスが十字架にお架かりになられて死んだことを信じて、洗礼を受けたなら、神との交わりに生きるようになる。神との関わりに生き始めたその時点から、神との交わりの中で変革していくようになる。」そう申し上げました。

前回、申し上げました通り、4重の福音は、私たちの変革を説明しているものです。

新生は、「新しく化ける」という意味で新化、聖化はそのまま聖化、神癒は「霊的にも、生活的にも、肉体的にも健康な人に化ける」という意味で健化、再臨は「栄光の体に化ける」という意味で栄化です。

 つまり4重の福音は、広い意味の「救い」であり、「人間側の変化」です。

 私たちは、自分の原罪の身代わりとして、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けたならば、主イエスが、父なる神に忠実だった義を譲渡されます。その結果、父なる神に忠実であると認められるようになって、聖霊が私たちの内に内住して、神の子として歩みだすようになるのです。以前は神を無視して歩んでいた人が、神の子として歩みだす。そういう関係の変化が、「新生」です。

私たちは新生したその時点から、私たちの内に内住している聖霊が、私たちが原罪から分離していくように働き出すのです。

聖霊は、直接、私たちに働きかけることも勿論あります。でも、それ以上に、聖書を私たちに説き明かすことが聖霊の働きです。

聖霊の働きとは、私たちが神を無視している罪を、直接、私たちに指摘したり、聖書を通して、私たちが神を無視していることを告げ知らせたりして、父なる神の下に帰って、神の御旨を生きるように、私たちに訴えることです。

私たちは、簡単に神を無視する罪人です。でも神は、そうではありません。神は、一度、和解が成立したならば、決して私たちを手放すことはありません。私たちの内に内住している聖霊が働いて、あの手この手で、私たちが神を無視している原罪を指摘して、神の下に立ち返るように導いて下さるのです。

はっきり言います。神を無視してしまう罪深い私たちが、神の下に立ち返ることが出来るようになるために、神は聖霊を与えて、聖霊を私たちの内に内住させて下さったのです。

もし私たちが、神を無視する歩みをしなくなれば、聖書に違反する道徳罪は消えるのです。神を無視しない歩みは、神の御言葉を傾聴して、神の御旨を歩む歩みになるのです。

私たちが、神を無視しなくなって、神の言葉である聖書を傾聴する人になれば、必ず自分に起こってくる変化があります。その変化は、私たちが救われた時点から、栄光のからだを与えられるその時まで続くのです。

ということは、私たちの変化の結実で、神との和解に与かって、救われている人であるかどうか。そのことが、おのずと明らかになる側面もあるのです。そのことはマタイ718節~20節の御言葉が、明らかにしています。そこを見ますと、「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」そう記されています。また、その御言葉に続く、マタイ7章21節には、こう記されています。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

 前置きが長くなりました。今日の聖書箇所であるペテロの手紙一の114節~15節を見ますと「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」そう記されています。14節の「無知であった頃の欲望」とは、神を無視して歩んでいた時に、自分が生きやすくなるためであれば、どんな手段を用いることもいとわない欲望のことです。でも、主イエスの十字架によって、原罪が許されて、神と和解したキリスト者は、自分の内に内住している聖霊の働き故に、自分が楽になって楽しむことが出来れば、それで良いという世の風潮に調子を合わせることは出来なくなります。

実は14節の「引きずられる」という言葉は、ローマの信徒への手紙122節で語られている「この世に倣ってはなりません」という言葉の中の「倣ってはなりません」という言葉と、同じ言葉が使われています。

つまり、「無知であったころの欲望に引きずられることなく」という言葉は、「神を無視して歩んでいたあのころの欲望に倣うことなく」そう訳すことが可能なのです。ということは、14節が言っていることを意訳しますと、「神を無視して歩んでいたあのころの欲望に倣うことなく、あなたを原罪から分離するために、独り子である主イエスを十字架に架けて下さった父なる神に倣いなさい。あなたがたは、生活のすべての面で神との交わりに生きて、神の御言葉を傾聴して、父なる神の御旨を生きていく人になりなさい。神の御子主イエスのように、父なる神の言葉に、従順に生きる神の子になりなさい。」そういう意味になります。

でも何で、ペトロは14節で、「聖なる者となりなさい。」意訳すれば、「神との交わりに生きて、神の言葉を傾聴して、道徳罪を犯さない人になりなさい」そう勧めているのでしょうか。そう勧めている理由を知るためには、16節を知る必要があります。16節を見ますと、「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」そう記されています。

つまり16節は、「神は汚れからほど遠い聖なるお方だから、聖霊の働きによって原罪か分離されて、神の言葉を傾聴して、神の御旨通り、聖書に違反する道徳罪を犯さない人になりなさい。」そう言っているのです。

実は旧約聖書にも、16節と同じようなことが記されています。レビ記192節を見るならば「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」そう記されています。此処では、「イスラエルの人々の共同体全体に」そう言っています。つまり、レビ記19章2節は、信仰共同体にむけて、「神との交わりに生きている者として、神の言葉を傾聴して、神の御旨通り、聖書に違反する道徳罪を犯さない人になりなさい」そう言っているのです。

つまり、個人的にも、教会にも、「神との交わりに生きている人として、神の言葉を傾聴して、神の御旨通り、聖書に違反する道徳罪を犯さない人になること。」それが聖化です。

聖化には、消極的側面と積極的側面があります。

 まず初めに消極的側面の聖化を説明します。消極的側面の聖化とは、古い自分が、主イエスと共に、十字架につけられたことを知らされることです。 

聖書の中には、2種類の罪が出てきます。一つは複数形で書かれている「罪」です。この「罪」は人の行いの罪、聖書に違反する道徳罪を言い表しています。そして、もう一つは単数形で書かれている「罪」です。単数形の「罪」は、神を無視する原罪を言い表しています。つまり、私たちの内に、原罪という太い木の幹があって、そこから聖書に違反する道徳罪という枝葉が出ているのです。

木の枝葉部分の道徳罪は、神を無視する原罪が減少していけば、自然に消滅するのです。原罪からの解放される秘訣は、ローマの信徒への手紙66節に記されています。そこを見ますと、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」そう記されています。

ローマの信徒への手紙66節が言っている、「古い自分がキリストと共につけられた十字架」こそが、原罪からの解放です。主イエスが十字架に架けられて死んだ時に、原罪に支配されていた私たちは、主イエスと共に、十字架に架かって死んだのです。ローマ書66節が言っている「古い自分」とは、「原罪があった自分」のことです。その自分が、キリストと共に十字架に架かって死んだのです。「キリストと共に」とは、主イエスが十字架にお架かりになられて以来ということです。つまり、私たちが新生したその時点から、主イエスが再臨なさるその時まで、原罪を持っている自分が死んでいくということです。

つまり、聖化は、新生したその時点から、再臨の時まで、ずっと原罪が死んでいくことなのです。別の言葉でいえば、新生したその時点から、再臨の時まで、ずっと原罪が減少していくことが聖化です。

そういう聖化は、聖霊が与えられて、聖霊が内住しているキリスト者であるならば、誰でも与えられています。私たちの内に、内住している聖霊の働きによって、原罪が減少していくのと共に、聖書に違反する道徳罪も減少していくのです。だからこそ、主イエスが、私たちの原罪の身代わりとして、十字架にお架かりになったことを信じたその時点で、過去から未来までの道徳罪が赦されているのです。

そういう意味で、新生することが、過去から未来までの聖書に違反する道徳罪の赦しなのです。そして、新生したその時点から、再臨に至るまで、原罪が減少していくことが、聖化なのです。

その証拠に、小林和夫先生は「信仰の源流を尋ねて」という本の122ページ~123ページの中で、このように説明しています。「罪は二重性をもって聖書に出てきます。一つは複数形で表されている『罪』という言葉です。これは『罪の行為』を表わします。しかし、その罪の行為の赦しは、身代わりとしてのイエス・キリストの十字架です。もう一つ、罪の性質は、単数形で表現される『罪の原理』です。この罪の深さであるとか、罪の原理からの解放は、実は身代わりの十字架ではなくて、共につけられた十字架です。ローマ66節に、『わたしたちの古き人は、キリストと共に十字架につけられた』と言われています。十字架が二つあるわけではありません。けれども、私たちの罪が二重の性質を持っていますから、その罪の解決として、キリストの十字架は二つの面をもって私たちに向かってまいります。それは私の罪の身代わりとしての十字架、これは犯してきた罪です。ところが罪の原理、原則は赦されるべきものではありません。これは聖められるべきものです。」

このことを、中田重治先生は、分かりやすく説明をするために、たとえを用いて説明しています。それがくもの巣のたとえです。「中田重治全集第一巻」413ページの中で、彼はこう言っています。

「ある家で客を招くとする。その家は古い家で、あちこちくもが巣を張っている。無精(ぶしょう)とおもわれてはいけないと思って、ほうきですっかり払っておくが、翌日になってみると、また別のところに巣が張られている。毎日払うけれども、また別のところに巣ができる。こんなことをくり返していた日には、いつになっても客を招くことは出来ない。どうしたらよいか。くもを殺したらよいのだ。巣は取っても、巣の製造者が鎮座ましますようでは何もならない。生まれ変わった人もそうだ。古き人という大きいくもが腹の中にいると思えばよい。これが出てきては、きたない巣を張るのだ。これはと思って、払いのけても、その古き人を殺さねばだめである。聖潔(きよめ)とは心中のくもを殺すことだ。これは消極的聖化である。」

中田重治先生は、くもと、くもの巣のたとえを使っています。くもの巣とは。「聖書に違反する道徳罪」のことです。その罪は、そのつど払いのければ、一時的にはきれいになります。でも、くもの巣の原因であるくもがいる限り、すぐに巣が出来てしまう。くもの巣がなくなるためには、くもが殺される必要があります。そのくもが、古き人、つまり原罪に生きている自分です。その自分が新生したその時から、主イエスの十字架と共に架けられ続けていくこと。それが聖化であり、聖化の消極的側面です。

新生した時点から、再臨の時まで、原罪が減少していくこと。それが消極的聖化です。

でも、聖化の説明はそれだけでは終わりません。聖化には積極的側面もあるのです。それは、聖霊の直接的な働きを通して、また、聖霊が聖書の真理を私たちに説き明かして下さることを通して、主イエスの十字架の愛が、私たちの内に充満することです。

主イエスの十字架の愛が、私たちの内に充満すれば、私たちの生き方に変化が生じてくるようになるのです。中田重治先生は、「中田重治全集第一巻」416ページ~417ページでこう言っています。

「きよめられると力づけられ、心を尽くして、神と人を愛するようになる。聖潔(きよめ)とは、独り子を賜うほどの、神の愛に満たされることである。」

主イエスを無視する歩みから離れて、神との交わりに生きるようになれば、神の言葉を傾聴して、神の思いを知ることになって、主イエスの十字架の愛が私たちの内に充満するようになるのです。これは、ジョン・ウエスレーと重なります。

ジョン・ウエスレーの「キリスト者の完全」には、消極的な側面と、積極的な側面があります。消極的側面は、原罪や道徳罪から離れていくようになることです。そして、積極的側面は、神と人を、主イエスの十字架のような愛で、愛するようになることです。

かつて、天に召された横山義孝先生が言われていたことを思い出します。先生は、「関東のバックストン聖会では、よく消極的側面の聖化が語られているが、関西のバックストン聖会では、積極的側面の聖化がよく語られている。」そう言っておられました。

普段、皆さんは、消極的側面の聖化を覚えた、生活をされているでしょうか?それとも、積極的側面の聖化を覚えた、生活をされているでしょうか?おそらく自分にあった聖化を、大切にして、歩んでおられると思います。 でも、聖化には消極面と積極面の両方があることを、覚えて欲しいのです。

私たちは、神を無視する古き自分と共に、十字架に架かって下さった主イエスを思い出させる聖霊の働きによって、原罪と、聖書に違反する道徳罪が減少していきます。また聖霊の働きによって、主イエスの十字架の愛が、私たちの内に充満することで、栄光の体を与えられるその時まで、日々三位一体の神に似た者へ、つまり、三位一体の神と、自分と隣人の三位一体の愛の交わり共同体を形成していく者へ、別の言葉でいえば、神の御国を日々形成していく者へ変えられていくのです。

でもそれは、自分の力では出来ません。それが出来るようになるのは、私たちの内に内住しておられる聖霊の働きによるのです。だからこそ私たちは、日々、聖霊に自分を明け渡して、歩んでいくことが大切なのです。

でも、聖霊に自分を明け渡したくないことが多々あるのです。神を無視したくなる罪深い私たちがいるのです。自分の心の王座に、神を迎えたくない罪。それが、神を無視してあゆむ私たちの原罪です。その罪のために、主イエスは、十字架にお架かりになられて、聖霊を私たちの内に内住させて、原罪の聖化の恵を、私たちに与えて下さったのです。

そのことに、深く感謝したいと思います。

最後に一言お祈り致します。