使徒言行録15章22節~35節
「キリスト教の核心」
牧師 野々川 康弘
前回、私たちは、エルサレム会議が開かれた理由と、そこで何が語られて、何が決定されたのか。そのことを、皆さんと共に学びました。
今日は、エルサレム会議で決定したこと。そのことを、書面を持たせた使者を通して、アンティオキア教会に伝えられたところから始まっています。伝えられたエルサレム会議の決定は、28節~29節に記されています。そこを見ますとこう記されています。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」
此処を見ますと、異邦人キリスト者たちは、割礼を受ける必要はないことが記されています。でも、そのこととは別のことも記されています。それは、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。」といった一文です。偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。その4つのことも、エルサレム会議の決定だったのです。
でも4つのことは、聖書学者たちの間で色々な議論があります。それは、パウロが書いた手紙の中の、エルサレム会議について語っていることと、食い違いがあるからです。パウロが別の箇所で、エルサレム会議のことを語っているのは、ガラテヤの信徒への手紙2章1節~10節です。そこを見ますとこう記されています。「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。―この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。―実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。」
この箇所を通してパウロは、「エルサレム会議で、「異邦人がキリスト者になる際に、割礼を受ける必要はない。」その私の主張が認められた。彼らは異邦人キリスト者たちに、何も強制しなかったし、どのような義務も負わせなかった。」そう主張しています。ガラテヤの信徒への手紙2章には、偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。その4つのことが記されていないのです。それが、使徒言行録15章が言っていることと、ガラテヤ書2章1節~10節が言っていることの違いです。この違いを、どのくらい重要なこととするのか。そのことで、聖書学者たちの意見は分かれています。違っていることを、大した問題にしていない聖書学者たちは、「使徒言行録15章で、偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。その4つのことを、アンティオキア教会に通達したのは、エルサレム教会を指導していた使徒たち側が、異邦人キリスト者たちに対して、ユダヤ人キリスト者たちの習慣を尊重させるためだった。でも、パウロはアンティオキア教会を指導していた側だったので、ガラテヤ書2章で、そういった蛇足的なことには触れなかった。」そう主張しています。
でも、偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。その4つのことを、本当にたいした問題にしなくて良いのでしょうか。
実は、偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。この4つのことは、当時、ユダヤ人と一緒に食事をするための条件だったのです。
「偶像に献げられたものを避けること。」これは、20節の「偶像に供えて汚れた肉」のことです。
ギリシャ、ローマの世界では、町の中に色々な神々の神殿や祭壇がありました。そこに一旦捧げられた動物の肉が、市場で食用に売られていたのです。でもその肉は、ユダヤ人たちにとっては汚れた肉で、それを食べると自分も汚れるものだったのです。だからユダヤ人たちは、肉が偶像の神々に献げられたものでないことを確認して、肉を食べていたのです。
異邦人と食事をする時に、偶像に捧げられていた肉を出されたなら、一緒に食事をすることは出来なかったのです。異邦人がユダヤ人との関係に生きるには、偶像に捧げられた肉を避けること。それが求められていたのです。
また、ユダヤ人たちが、血を避けていたのは、絞め殺した動物の肉を避けていた理由と同じです。彼らは「血には命が宿っている。」そう考えていたのです。だからこそ、レビ記17章10節~16節を守っていたのです。そこには、血を飲んではならないことが記されています。だからこそユダヤ人たちは、動物の肉を食べる時も、絞め殺した動物の肉を避けて、動物の太い血管を切って、血を注ぎ出す方法で屠殺したものを食べていたのです。
先程、私は、「ユダヤ人たちは、「血には命が宿っている。」そう考えていた。」そのように申し上げました。聖書の神を信じる信仰で大事なことは、人の命は神が与え、神が取り去られるということです。人の命は神のものです。だから、レビ記17章10節~16節は、血を飲むことを戒めているのです。人の命は神が与え、神が取り去られるものだからこそ、ユダヤ人たちは、血や、絞め殺した動物の肉を避けていたのです。ということは、異邦人と食事をする時に、血や、絞め殺した動物の肉を出されたなら、一緒に食事をすることは出来ないのです。異邦人がユダヤ人との関係に生きるためには、血や、絞め殺した動物の肉を避けること。それが求められていたのです。
また、ユダヤ人たちは、みだらな行いを避けていました。みだらな行いとは性行為のことです。これもレビ記18章で戒められています。レビ記18章は、神の民に、彼らが出てきたエジプトや、これから入ってくであろうカナンでなされているみだらな行いを、避けることを命じています。
「みだらな行い」があるかないか。それが、神の民と、異教の民を区別する、一つの印だったのです。近親相姦、不倫、同性愛、獣姦は、自分の欲望を満たすための行為でしかありません。豊かな関係を、女性と男性が育む行為では無いのです。
旧約時代も、新約時代も、聖書の神を、神としていない人たちは、近親相姦、不倫、同性愛、獣姦を、あまり問題にしていないのです。新約聖書時代のギリシャ、ローマ社会でも、「みだらな行い」に対しては、寛容だったのです。
そうだからこそ、異邦人たちが、ユダヤ人たちとの豊かな関係に生きるためには、みだらな行いを避けることが必要だったのです。
偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。これらの四つことは、異邦人が、ユダヤ人との関りに生きるために、とても大切なことだったのです。だから、割礼を受けず、キリスト者になった、アンティオキア教会の人たちに、その4つのことを通達したのです。
でもそのことが通達された後、アンティオキア教会で、ある問題が起こったのです。その問題が記されているのが、ガラテヤの信徒への手紙2章11節~14節です。
実は、ガラテヤの信徒への手紙2章11節~14節の解釈は、2つあるのです。その解釈によって、今日の20節の捉え方が変わってきます。今日は時間が無いので、1つの解釈しか触れません。
とにかく、偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。そのことが通達された後に、アンティオキア教会で、ガラテヤの信徒への手紙2章11節~14節に記されている問題が起こったのです。
そこを見ますと、エルサレム会議の後、ペトロが、アンティオキア教会に来た時に起った事件が記されています。アンティオキア教会では、エルサレム会議の決定に基づいて、異邦人キリスト者たちと、ユダヤ人キリスト者たちが、一緒に食事をしていました。当然、ペトロもその食事に加わっていました。でも、エルサレムから、割礼派のヤコブの仲間たちが来た時に、彼らを恐れて、異邦人たちと一緒に食事をするところから、ためらいながらも身を引いてしまったのです。その結果、他のユダヤ人も、あのバルナバさえも、ためらいながらも身をひいてしまったのです。
だからパウロは、ペトロを厳しく批判したのです。その理由は、教会の決定よりも人を恐れたからです。それが意味しているのは、神の救いにあずかっていながらも、神との関係に生きていないということです。ペトロは異邦人でも、外国生まれのユダヤ人でもありません。彼は生粋のユダヤ人なのです。だから尚更、パウロはペトロを厳しく批判したのです。ヘブル語で、神を知ることを「ヤーダー」と言います。「ヤーダー」という意味は、頭で知っているだけではなくて、心も、行動も伴う意味で「知る」ということです。
東京聖書学校で、ヘブル語を教えておられた安田眞(やすだまこと)先生は、10年以上、イスラエルに住んでおられました。先生は、Jバイブルの監修にも関わっておられます。そんな先生が、ある授業の中で面白いことを言っておられました。先生は、「ユダヤ人同士で商談を行う場合、彼らは契約書を書きません。それは、口で約束したことが、神の前での契約の成立になるからです。」そう言われたのです。これは、西洋の文化では馴染みがありません。西洋の文化では、口約束は信じられないのです。
神がいつも共におられる。そういう感覚が、西洋文化の影響を受けて育っている私たちと、そうではないユダヤ人とでは、全然違うのです。
アンティオキア教会側の指導者だったパウロにとって、主イエスの救いを知ったユダヤ人キリスト者は、人を恐れるよりも、教会会議の決定にしっかり従って、割礼派のキリスト者たちを、教会会議の決定に従わせることが筋だったのです。
そうであるにも関わらず、ペトロは、異邦人キリスト者であるアンティオキア教会の人たちが、自分との食事を大切にしてくれているにも関わらず、自分自身、異邦人と食事の交わりをすることは大切だと知っているにも関わらず、割礼派のヤコブの仲間たちを恐れたのです。パウロからすれば、ペトロの信仰は、頭と心と行動が一体になっていないのです。だからパウロは、ペトロを非難したのです。
でもペトロは、アンティオキア教会を指導していたパウロとは違うのです。エルサレム教会側を指導していた人なのです。だからペトロは、割礼派の人たちに配慮しなければならなかったのです。そうでなければ、エルサレム教会の福音宣教が進まない。そうペトロは思っていたのです。だからこそ、ためらいながらも異邦人との食事の席から離れたのです。
つまり、エルサレム教会側の教会事情と、アンティオキア教会側の教会事情は違うのです。だから、2つの教会が交わった時に、教会に事件が起きたのです。
そういったことを考えるなら、やはり20節に記されている、偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。その4つのことは、たとえアンティオキア教会が、エルサレム教会と共に歩んでいくために、とても大切なことだったとしても、福音の蛇足でしかありません。
使徒たち側が、エルサレム教会とアンティオキア教会と、豊かな関係を築いていくために通達した、偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けることは、結局、エルサレム教会とアンティオキア教会の豊かな関係を築く役割を果たさなかったのです。
やはり教会の一致は、福音の本質である罪の赦しと、復活の命と、聖霊が与えられたことを大切にしていくところにあるのです。教会の一致は、割礼を受けてユダヤ人になることでもなければ、偶像に献げられたものを避けることや、血を避けることや、絞め殺した動物の肉を避けることや、みだらな行いを避けることではありません。
人間はすぐに、何か自分たちに問題が起こった時に、こうしたら良いといったマニュアルを、作成します。
偶像に献げられたものを避けること。血を避けること。絞め殺した動物の肉を避けること。みだらな行いを避けること。その4つのことも、マニュアルです。この4つのことは、エルサレム教会と、アンティオキア教会が、良い関係を築き上げていくためのマニュアルです。
でもそのマニュアルが、アンティオキア教会の指導者パウロと、エルサレム教会の指導者ペトロの対立を生んだのです。
とはいえ、教会会議の中で決定したマニュアルが聖書に書き記されたことは、とても大切なことなのです。何故なら、このことが聖書に記されていなければ、教会同士の豊かな関係を築き上げていくマニュアルが、いかに教会同士の対立を生みだすものになりうるのか。そのことを知ることは出来なかったからです。
そう考えますと、やはり私たちは、私たちの知恵を超えておられる神の知恵に、支えられているのです。
神の知恵とは、万事のことを用いて、私たちが神を愛し、隣人を愛せない罪があることを私たちに告げ知らせて、その罪の身代わりとして、主イエスを十字架に架けて下さったことを信じて、神に頼って、私たちが歩むように導く知恵のことです。
そんな知恵に満ちておられる神に、いつも支えられているからこそ、私たちの信仰は盤石なのです。そして、自分が神の知恵に支えられていることを知るならば、自分以外のキリスト者も、その神の知恵に支えられていて、信仰が盤石であることに気付くことが出来るようになるのです。そうであれば、私たちは暖かい目で、自分以外のキリスト者を見つめることが出来るようになるのです。
つまり、神の知恵にいつも自分が支えられていることを知ることが出来るならば、神や自分や隣人を愛することが出来るようになるのです。
キリスト教の核心は、いつも神の知恵によって、私たちを支えて下さっていることです。そして、神の知恵の核心は、いつも自分の力に頼ろうとする私たちの罪のために、主イエスを十字架に架けて下さったこと。死んだ主イエスを復活させたことを通して、神の力で、私たちが自分の力に頼る古い自分から、神に頼る新しい私たちに変えて下さる約束をして下さったこと。更には、いつも神に頼れない私たちのために、主イエスが天に昇って、聖霊を私たちに内住させて下さったことです。
そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと思っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
