2026年4月5日 仙台青葉荘教会礼拝

ルカによる福音書24章28節~43節

「復活を知る歩み」

 牧師 野々川 康弘

28節~29節を見ますと「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」そう記されています。

 此処で言う村とはエマオのことです。29節に「そろそろ夕方になりますし」そう記されているということは、復活した主イエスは、夕方にエマオに到着したことになります。

 今日の箇所には記されていませんが、復活した主イエスは、エルサレムからエマオに向かっていた2人の弟子に出会って、エマオまで一緒に旅をしてきたのです。その二人の弟子と、一緒に夕食の席に着いた時に、主イエスがパンを取って、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになったのです。その時に、二人の弟子の目が開けて、死から復活した主イエスであったことが分かったのです。

このことは私たちに、主イエスの復活を信じるということが、一体どのようにして起るのか。そのことを教えています。二人の弟子は、旅の道中で、復活の主イエスが現れて、共に歩いて、聖書の話を聴いていたのです。でも、二人の目は開かなかったのです。ところが、主イエスがパンを取って、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになった時に、二人の弟子の目が開いて、復活の主イエスであることが分かったのです。

このことが指し示していることは、どれだけで聖書のお話を聴いたとしても、復活の主イエスを知ることは難しいということです。聖書のお話を聴くだけでは、復活の主イエスになかなか目が開かないのです。でも、私たちが礼拝に出席して、聖餐のパンと杯にあずかるようになるならば、目が開けて、復活して今も生きておられる主イエスを知ることが出来るようになっていくのです。

私たちの教会では、確かに、食することの出来る聖餐は、毎週行っていません。月に一度しか、聖餐をしていない現実があります。そして、未信者の方は聖餐を食することは出来ません。でも、聴くことの出来る聖餐である説教は、未信者の方も、キリスト者の方も毎週聴くことが出来ています。

礼拝説教は、ただ聖書のお話をするのではありません。礼拝説教は、日々、私たちが神に背を向けている罪を指し示します。でもそれだけではありません。礼拝説教は、その罪の赦しである十字架が語られるのです。礼拝説教の本質は、神が礼拝に集う人たちに、死と復活を与えることです。人が神を無視している罪、自己中心に生きている罪、それがあるということを告げ知らせて、その上で、主イエスの十字架の罪の赦しを宣言するのです。その十字架の罪の赦しを指し示すものが、主イエスの裂かれた肉を指し示すパンであり、主イエスが十字架で流された血を指し示す葡萄液なのです。十字架の罪の赦しの宣言である礼拝説教は、いつも聖餐を指し示すのです。だから説教は、聴くことの出来る聖餐。そう言われているのです。

話を聖書に戻します。パンを裂いておられる主イエスを見て、主イエスが復活したことを信じた二人の弟子は、すぐにエルサレムへ戻っていったのです。すぐに戻っていったということは、夕方にエマオに着いて、夕食を食べていたことを考えるならば、夜に、エマオからエルサレムまで向かっていったことになります。彼らがエルサレムに戻ると、十一人の弟子と、その仲間たちが集まっていたのです。そこで彼らが聴いたこと。それが34節のことだったのです。34節には、「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」そう記されています。此処でいうシモンは、ペトロのことです。

そこに集まっていた弟子たちは、主イエスが復活したことをペトロから聴いて、それについて話していたのです。だから、エマオから戻った二人の弟子も、エルサレムから、エマオに向かう旅の中で起ったこと。つまり、復活した主イエスが来られて、聖書の話をされたにも拘わらず、復活した主イエスだと気付かなかったことを話したのです。更には、復活した主イエスが、エマオでパンを裂かれた時に、はじめて復活した主イエスだと分かったこと。そのことを皆に話したのです。

そうしましたら、そういったことを話していた彼らの輪の真ん中に、復活した主イエスが立たれたのです。そして、36節に記されている通り、「あなたがたに平和があるように」そう言われたのです。その時、弟子たちは、37節に記されている通り、恐れおののいて、「亡霊を見ている。。。」そう思ったのです。つい先程、復活した主イエスがペトロに現れたこと。二人の弟子に、主イエスが現れたこと。その証を聴いたばかりなのにです。

その場には、ペトロも、二人の弟子もいたのです。復活した主イエスを、自分の目で見た人が、三人もそこにいたのです。そうであるにも関わらず恐れおののいて、「亡霊を見ている。。。」そう思ったのです。

ということは、つい今、話をしていた復活のことも、復活した主イエスとの出会が与えられたという3人の弟子の証を聴いたことも、全く意味をなしていなかったのです。二人の弟子の目が開かれたことも、一時のことで全く意味をなさなかったのです。それが意味しているのは、何回か礼拝出席をすれば良いというのではなくて、礼拝出席をいつもすることが、とても大切であるということです。ちょと話が逸れましたが、主イエスの復活を見ても、復活のお話をしていても、復活の証を聴いても、「亡霊を見ている。。。」そのように弟子たちが思ったということは、主イエスの復活を信じることが、どれだけ困難なことなのかを物語っています。

主イエスの復活は、復活した主イエスと出会った人ですら、本当に信じて、その喜びに生きることがなかなか出来ないのです。そうであるならば、主イエスが復活したことを、聴いただけの人は尚更、主イエスの復活を信じて、その喜びに生きることは難しいのではないでしょうか。

でも、復活の主イエスと出会った人たちの立場に立って考えるならば、目の前にいる人が、復活した主イエスだと分かったとたんに、31節に記されている通り、主イエスのお姿が見えなくなってしまうのです。だから、本当に復活したのかどうか分からなくなるのです。だから、主イエスが、復活したことに疑問を持ってしまって、つい恐れおののいてしまうのです。そして、「亡霊を見ているのではないか。。。」そう思ってしまうのです。

復活した主イエスとの出会いは一瞬のことなのです。それが、十字架で主イエスが死なれる前と、死なれた後で、大きく違っているのです。

主イエスが十字架で死なれる前は、弟子たちは、いつも主イエスと一緒に行動をして、寝食を共にしていたのです。でも、復活後の主イエスは、そこまで長い時間、弟子たちと行動を共にしていないのです。復活後の主イエスと、弟子たちの関わりは、今の私たちの、主イエスとの関わりに似ています。

私たちは、復活した主イエスが天に昇られて、父なる神の右の坐に着かれた、その後(のち)の時代を生きています。主イエスは、天に昇られたが故に、私たちは、主イエスを目で見ることは出来ません。

今日の箇所は、主イエスの昇天の前の話です。なので、目に見える形で、主イエスとの出会いがまだこの時は与えられていたのです。そうであっても、それは一瞬で、復活した主イエスを見て、恐れおののいて、「亡霊を見ている。。。」そう思ってしまったのです。そうであるならば、今の時代は尚更、主イエスの復活を、信じることは難しいのではないでしょうか。

主イエスの復活のことを語り合っている弟子たちの輪の真ん中に、目に見える復活した主イエス御自身が立たれたにも拘わらず、そこで恐れおののいて、「亡霊を見ている。。。」そう思ってしまった弟子たちの姿は、真(まさ)に現代の教会が、復活した主イエスのことを語っているにも拘わらず、復活した主イエスの現実感が無い、私たちの姿を物語っています。教会で主イエスの復活の話をしている牧師も、牧師の聖書の解き明かしを聴いている人たちも現実感が無いのです。復活の話の真ん中に主イエスが不在なのです。

天国は本当にあるのか。そういう映画がありますが、一度見て頂きたいと思います。その映画の中の牧師が、とても赤裸々な告白をしています。それは、自分の息子が臨死体験を通して、主イエスを見たことを聴いて思い知らされたことは、主イエスの復活を教会で語りながらも、復活する信仰が無かったという告白です。

話が逸れました。聖書に話を戻します。

弟子たちが、「復活した主イエスを見た。」そういう話をしている時に、突然、復活した主イエスが、彼らの輪の真ん中に現れたのです。その時に、「亡霊を見ている。。。」そう彼らは思ってしまったのです。でも、復活した主イエスは、肉体を持たない霊だけの存在ではないのです。

38節~39節の主イエスの言葉は、主イエスが亡霊でないこと、霊だけの存在ではないことを証明しています。そこを見ますと、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」そう記されています。

つまり、復活した主イエスは、「私は肉体をもって復活した。幽霊ではない」そう言っておられるのです。そのことを彼らにはっきりと分からせるために、復活した主イエスは、手と足を弟子たちにお見せになったのです。それが40節に記されていることです。

それでも弟子たちは、信じることが出来なかったのです。不思議がっていたのです。だから主イエスは、焼き魚を一切れ食べて見せたのです。そのことが41~42節に書き記されていることです。

ルカによる福音書の著者ルカが、38節~42節を通して言いたいのは、主イエスの復活は、霊と肉体の復活であるということです。

でもそれが、日本人である私たちには、とても信じがたいことなのです。もし、主イエスの復活が、霊だけのことであれば、とても信じやすいのです。その理由は、霊の復活だけならば、色々な形で理解することが可能になるからです。例えば、主イエスの弟子たちが、主イエスとの思い出がとても大切だったから、そういう幻覚を見たのだろう。主イエスと出会えて良かったね!そのように、霊的な復活だけであれば、自分の理性で納得出来るように考えることが可能になるのです。そうであれば、人々に大きなつまずきを与えることはありません。

でも、今日の箇所は、主イエスが体を持って復活して、弟子たちの前に現れたことを書き記しています。そして、おそれおののいて、「亡霊だ。。。」そう思ってしまった弟子たちの真ん中に立って「あなたたちに平和があるように。」そう言われたことが記されているのです。

このことが指し示していることは、「自分たちの思いや感覚で考える復活ではなくて、神の子・主イエスは、父なる神によって復活したという現実、それを教会の中心に据えなさい。そうなってこそ、教会に平和が宿るようになる。」そういうことです。

此処でいう平和は、神の救い。そう言い換えても良いと思います。聖書のいう平和とは、神と私たちの壊れた関係が回復して、その結果、私たちと隣人との関係も、回復していくようになることです。

人が、神との豊かな関係に生きて、隣人との豊かな関係に生きるようになる世界。それが神の王国です。その王国は、自分の思いや感覚から離れて、主イエスが、私たちが神を無視する罪や、自分を中心にして歩んでしまう罪の身代わりとして、十字架に架かって死なれた現実。神が、父・子・聖霊の三位一体の愛の関係の中に私たちを浸して下さって、聖霊を与えて下さった現実。それを受け入れる中で、造り上げられていくのです。

因みに、父・子・聖霊の三位一体の愛の関係の中に、私たちを浸して下さったというのは、洗礼のことです。

父・子・聖霊の御名によって洗礼を授けるという文言の中の「御名によって」という言葉は、ギリシャ語で「エイス」と言います。「エイス」という意味は「中に」という意味です。つまり、父・子・聖霊の愛の交わりの中に浸すこと。それが洗礼です。洗礼は、父・子・聖霊の愛の交わりに、どっぷり浸かるようになりなさい。そういう三位一体の神からの招待です。私たちに聖霊が与えられているのは、父・子・聖霊の愛の交わりに、どっぷり浸かって生きることが出来るようになるためなのです。

ある神学者は言っています。「人間が自然体な人になるためには、自然体な人と長く一緒に時間を過ごすことである。」本当にそうだと思います。人間が「~でさえも愛する」そういう無条件の愛を、自分の身に纏うためには、たとえ自分につばをかけてくる人であっても、自分に殺意を向けてくる人であっても、御自分との交わりに生きるように招待する、父・子・聖霊の無条件の愛の交わりに、どっぷり浸って生きるようになることなのです。

私たちが自分の感覚から離れて、条件つきで愛することしか出来ない罪深い私たちが、無条件で、神や人を愛する神の王国の住人として生きる人に復活すること。それが、神が私たちに願っておられることなのです。

私たちが罪人から神の民に復活するために、今日の箇所に記されていることが起こった当時も、現代に生きる私たちも、主イエスが十字架で、私たちが自分の思いや感覚で、神はこういう御方である。そのように、勝手に神のことを決めつけてしまう罪の身代わりとなって死なれたのです。そしてそのことを信じて受け入れる人には、神の子・主イエスが、父なる神によって、霊肉共に死から復活したように、神の子となった私たちも、父なる神によって、霊肉共に復活することが出来るようになる約束をして下さったのです。

そのことを、自分の思いや感覚で信じるのではなくて、事実として受け入れて、聖霊が与えられて、神と共に歩んで、神の子らしく日々変えられていくことを、神は私たちに願っておられるのです。

目で見て信じることは、自分の思いや感覚に頼って歩むということです。だから、父なる神によって復活した主イエスは、弟子たちの輪の真ん中に、つまり、弟子たちの交わりの真ん中に立って、「父なる神によって、神の子として復活している自分の現実を、そのまま受け入れて歩みなさい。」そう言われるのです。そして、その現実を受け入れて歩んでいくであろう弟子たちに、「あなたがたに平和があるように。」つまり、「神の国に国籍がある者らしく、みんなが自己中心に生きている罪深いこの世で、神の王国をちゃんと建て上げて生きていきなさい」そう言われているのです。

聖霊を通して、いつも共にいて下さる主イエスは、単なる霊としてではなくて、復活した体をもって共にいて下さっています。主イエスは聖霊の働きによって、体をもった復活した御方として、この世を生きている私たちに、具体的に働きかけて、私たちがこの世で、壊れている神の王国を、具体的に建て上げていけるようにして下さっているのです。

今日の箇所を見ますと、復活した主イエスが食事をなさったことが記されています。主イエスが体をもって復活したこと。そのことを、なかなか信じることが出来ない弟子たちのために、主イエスは焼き魚を食べて見せています。このことは、食事という肉体的な営みがなされているこの世の生活の場に、主イエスが共にいて下さることを指し示しています。

私たちが日常生活の中で、聖霊の働きによって、父なる神によって、復活した主イエスと共に歩む体験を通して、そして、毎週の教会の礼拝を通して、父なる神によって、主イエスが復活したことを、日々確信して歩んでいけるようになるのです。

私たちの信仰生活は、食事のような具体的な毎日のこの世の生活の中で営まれています。その日常生活の真ん中に、父なる神によって、復活した主イエスは立っておられて、「あなたがたに平和があるように」つまり、「私がそうしたように、みんなが自己中心に生きる罪深いこの世で、神の王国を建て上げていきなさい」そのように私たちに語りかけておられるのです。

私たちは日々の生活の中で、その主イエスの語りかけをちゃんと傾聴して、主イエスの十字架の死と復活と、昇天によって聖霊が与えられている現実を、ちゃんと見つめながら、既に実現している神の王国である教会を、やがて完全な神の王国が到来することに希望を持ちながら、父なる神に導かれつつ、皆さんと共に豊かに建て上げて歩んでいければと願っています。

 最後に一言お祈りさせて頂きます。