2024年4月28日

「聖霊が与えられる意味」

2024.0428.Syuuhou

使徒言行録1章11節―26節

今日は、使徒言行録1章12節-26節までを、皆さんと共に学んでいきたいと思っています。

ルカが、12節―14節で書き記していることは、主イエスが昇天された後、聖霊が降るのを待っていた弟子たちのことです。

弟子たちはどのように、聖霊が降るのを待っていたのでしょうか。実はそのことが、13節―14節に書き記されています。そこを見ますと、「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」そう記されています。

弟子たちは、自分たちが泊まっていた家の二階に上がったのです。その二階は、ルカによる福音書22章7節-13節が述べている通り、最後の晩餐がなされた「二階の広間」だったのです。ということは、そこは、みんなが集まれる程の広い部屋だったということです。 

そこに、主イエスの昇天を目撃した弟子たちが集まって、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。

祈るということ。それが、聖霊が降るのを待っていた弟子たちがしていたことです。

使徒言行録1章4節を見て見ますと、復活した主イエスが、弟子たちに、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」そう言われていたのが分かります。 

此処で言っている「父の約束されたもの」とは、聖霊のことです。聖霊が降るのを待つために、弟子たちは、エルサレムに留まっていなければならなかったのです。

聖霊が降るのを待つということは、神が力を発揮して下さるのを待つということです。また、待つということは、自分たちで動き回るのを止めること。自分たちの力で、何かを成し遂げていこうとするのを止めることです。更に言いえば、心を空にし、神に思いを向けて、神の言葉を傾聴しようとすること。それが待つということです。

以前にも申し上げました通り、傾聴に必要なことは、神の御旨がこもった言葉。それを正確に聴き取ること。神が沈黙しておられる間を大切にすることです。

私たちのこの世の生活は、朝起きてから眠りに着くまで、何かしらの活動の連続です。何かを考えたり、決断したり、実行したりして、時を過ごしているのです。

私たちは、意識的にも無意識的にも、いつも生産性を重視して歩んでいます。だから、どのような出来事によって、どのような結果を招いたのか。そういった分析が得意な人は結構いるのです。でも、起こった出来事によって、どのような気持ちが自分の内に生じたのか、どのような気持ちが相手の内に生じたのか。そのことにはとても鈍感なのです。

ためしに、家に帰った時に、3分間の中で形容詞で、つまり「い」で終わる感情用語を、いくつ書けるかやってみて下さい。16個書くことが出来たら、感情表現が豊かな人だと思います。大抵の人は6個―7個だと思います。沢山書けても10個ぐらいではないかと思います。

因みに、傾聴講座の中では、「心理カウンセラーなら、最低16個は書けるようになって下さい。」そう言われました。

因みに、形容詞ではありませんが、「イライラする」「ストレスを感じる」という言葉。これは感情を表している言葉ではないのです。心理カウンセリングでは、「イライラする」「ストレスを感じる」という言葉は、感情を表す言葉としては認めていないのです。「イライラする」、「ストレスを感じる」という言葉は、ある出来事に対して感じていることではなくて、思っていることなのです。ある出来事に対して、「イライラする」「ストレスを感じる」そう思ってしまう背後に潜んでいる気持ち。それを言い表す言葉。それが、本当の感情を表す言葉なのです。

神のみ旨、神の御心、それを受け取り応答していく祈りは、私たちの通常の活動、つまり、生産性を重視した歩みとは、対局にある歩みです。

とはいっても、先へ先へ急いで進んで行こうとする私たちの生活を止めるなんてことは、なかなか難しい。とても大きなエネルギーがいるのです。だから、祈祷院という所が存在しているのです。

自分の願い事ばかりしていくような祈りではなくて、神の御心を汲み取る対話的な祈り。それが神に捧げられてこそ、神の力に押し出されて、歩んでいくことが出来るようになるのです。

実は祈りにつて、更に注目すべきことがあるのです。それは弟子たちが、みんなそれぞれ自分一人で祈っていたのではないということです。皆が一つの部屋に集まって、心を合わせて、熱心に祈っていたのです。つまり、共同でなされる対話的祈りが、聖霊が降る準備、聖霊の力を受ける準備になったのです。

このことは、昔も今も変わりません。主イエスの救いを信じるキリスト者たちが共に集い、心を合わせて神と対話的祈りをすること。それが、聖霊の力を受けるための大切な備えになるのです。

そういう意味で、水曜日の祈祷会に、さらに多くの人たちが参加して下さるようになることを、心から願っています。

聖書に話を戻します。今日の15節―22節には、弟子たちみんなで神と対話的祈りをしていた時に、ペトロが立って、言ったことが記されています。

その中の18節を見てみますと、ペトロはこう言っています。「ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。」

でも、マタイによる福音書27章では、違った形で、ユダの最後のことが記されています。

マタイによる福音書では、主イエスを裏切ったユダは、裏切って得たお金を神殿に投げ込み、自分で首をくくって死んだことになっています。でも、今日の箇所では、裏切って得たお金で、買った土地に、まっさかさまに落ちて死んだことになっています。

まあ、どちらであろうとも、ユダは悲惨な最期を遂げています。ペトロはその悲惨な最期を、弟子たちに報告したのです。でも、一体どういう思いでそういう報告をしたのでしょうか。

「主イエスを裏切る罪人の末路はこうだ。」そういう思いで、報告をしたのでしょうか。そうではありません。その理由は、ペトロも含めて弟子たちは皆、主イエスが捕えられた時、主イエスを一人残して逃げ出したのです。更に言うと、主イエスが裁きを受けた総督官邸(そうとくかんてい)の庭で、三度ペトロは主イエスのことを「知らない。」そう言ったのです。「知らない。」そう言ったということは、「主イエスは、自分とは無関係」そう言ったということです。ペトロは三度、つまり完全に、主イエスと自分の関係を否定したのです。これは立派な裏切りです。ユダとの違いは積極的な裏切りか、消極的な裏切りかというだけのことです。そんなペトロが、ユダの最期を報告したのです。ということは、「主イエスを裏切る罪人の末路はこの通りだ。」そういう思いで報告したとは考えられないのです。ユダとペトロには何の違いも無い。そうであるにも関わらず、ユダが悲惨な最期を遂げた一方で、ペトロは聖霊が降り、使徒として遣わされるのを待っているのです。どうして、そのような違いが生まれたのでしょうか。 

それは、復活した主イエスとの出会いが、与えられたかどうかの違いなのです。ペトロを代表とする他の11人は、復活した主イエスとの出会いが与えられて、主イエスによってもう一度弟子として、主イエスを信じる者として立てられたのです。主イエスの十字架による罪の赦しと、復活した主イエスの罪の赦しの中に置かれたのです。それが、ユダと彼らとの唯一の違いです。

ルカが今日の箇所で、ペトロの報告を通して見つめているのは、ペトロを含む11弟子も、復活の主イエスとの出会いが無かったならば、ユダと同じように、滅び去るしかなかったということです。

ユダはまぎれもなく、11弟子の仲間の一人だったのです。その証拠に、ユダも11弟子と同じ任務を割り当てられていたのです。そのことは、17節のペトロの言葉から分かります。そこにちゃんと、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」そう記されています。

ユダもペトロも、同じ仲間で同じ任務が与えられていたのです。つまり、ユダと11弟子の間に、違いはなにもなかったのです。更に言うと、任務のみならず、主イエスに対して犯した罪も、ユダと11弟子の間に、全く違いはなかったのです。でも、12人全てが使徒として、最後まで立てられなかったのです。

主イエスの救いを信じ、キリスト者となり、使徒として選ばれても、復活した主イエスとの出会いが与えられなければ、復活した、主イエスからの罪の赦しを再び体験していなかったとすれば、残りの11弟子も、使徒として再び立てられなかった。

そう考えるならば、罪の赦しである十字架を信じるのみならず、復活の主イエスとの出会うこと、復活の主イエスと出会い続けること。それがとても、大事なことになるのです。

つまり、救いに与るということは、主イエスの十字架を信じるだけでは終わらないということです。救いに与るということは、主イエスの十字架と復活が、必ずワンセットで与えられるということです。主イエスの十字架と復活は、切り離せないのです。そして、復活の主イエスと出会うためには、主イエスの昇天も切り離せないのです。それは、主イエスの昇天によって聖霊時代が、つまりは、教会時代が誕生したからです。教会時代に生きている私たちは、聖霊を通してでなければ、復活の主イエスとの出会いは与えられないのです。

だからこそ、私たちが大切にすべきことは、広い意味での救いなのです。広い意味の救いとは、新生、聖化、神癒、再臨です。そしてそれは、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業に与ることを意味しています。

主イエスの十字架だけが、大切なのではないのです。十字架と同じように、復活も、昇天も、とても大切なのです。

その証拠に、ユダは主イエスを裏切った罪故に、使徒から外れてしまったのではないのです。ユダは、復活した主イエスの罪の赦しが与えられるのを待てなかったが故に、使徒から外れてしまったのです。厳しい言葉でいえば、復活の主イエスに出会うことを自ら放棄したが故に、使徒から外れてしまったのです。

そのため、主イエスが使徒として任命した、十二人の内の一人が欠けてしまったのです。だから、それを補充しなければならなくなったのです。そのことを、今日の箇所は述べているのです。

そこで疑問になることがあるのです。それは、何で使徒の数は、11人では駄目だったのかということです。

その理由は、旧約時代に、神の民であるイスラエルが十二部族から成っていたことと関係しています。

使徒言行録1章6節に、弟子たちが復活した主イエスに、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」そう尋ねたことが記されていました。 

実は救い主が、イスラエルを建て直して、再興して下さるという約束が、旧約聖書に記されていたのです。だから使徒たちは、イスラエル王国の再興を期待していたのです。

主イエスは、確かにその約束を実現しました。但し、前回も申し上げました通り、主イエスが成し遂げられた再興は、弟子たちが思い描いていたこととは違っていたのです。

再興するという旧約聖書の約束は、12弟子を聖霊によって遣わし、主イエスの救いの証人の群れである教会。それを造り上げることだったのです。

教会こそ主イエスが建て直す、新しいイスラエルだったのです。そのことを明確にするために、旧約聖書の12部族にちなんで、12使徒じゃないといけなかったのです。

更に言えば、15節に、「120人ほどの人々が一つになっていた。」そう記されています。このことも、12使徒であったことと関係しています。

何あともあれ、ユダヤ人たちが思い描いていた再興ではなくて、神が思い描いていた再興。それがなされていくことが、12という使徒の数が表しているのです。

だからどうしても、使徒の欠員が満たされなければならなかったのです。でも、誰でもよかったわけではありません。使徒として立てられるためには、厳しい条件があったのです。それが、21節―22節に記されている、ことなのです。そこを見ますと、「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そう記されています。

つまり、主イエスが洗礼を受けた時から、昇天した時までのことを、実際に見た人。別の言葉で言うと、主イエスの地上での生涯を全て見た人のみが、使徒になる条件を満たすことが出来たのです。

何故でしょうか。そのことを知る鍵が、22節の、「主の復活の証人」という言葉なのです。これがとても大事なのです。何故なら、使徒の務めは、主イエスの復活の証人になることだからです。

復活の証人は、主イエスの復活の真実性。それを証言する人です。つまり、復活という事実以上に、復活が持っている意味を証言すること。それが復活の証人、使徒の務めなのです。つまり、「いつも神を裏切って、滅びるしかない自分たちが、復活の主イエスと出会って、主イエスの救いに与っているという確証が与えられた。そんな自分たちを中心として、新しいイスラエルなる教会を、主イエスの昇天の御業を通して与えられた聖霊の働きによって、築いていって下さる。」

そういうことを証言することが、使徒の務めなのです。

残念ながらユダは、復活の主イエスと出会うことが出来ず、その務めから脱落してしまいました。だから、ユダに代わる人を、選出することになったのです。その候補に挙げられた人が、二人だったのです。つまり、使徒の条件に合う人が、「ヨセフとマティア」だけだったのです。

二人のどちらが12人目の使徒となるべきか。それを決めるために、24節に記されている通り、「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。」そう彼らは祈ったのです。そしてくじを引いたのです。

聖書では、くじを引くことが、神のみ心を求める一つの方法として使われています。

サムエル記上10章でも、神がイスラエルの最初の王として、誰を選んでおられるのかを知るために、部族ごとにくじを引いたのです。そして、当たった部族の中で、氏族ごとにくじを引き、最終的にサウルが選び出されたのです。

因みに、くじに当たったから、サウルが王になったのではないのです。彼はそれより前に、神の命令によって、サムエルから王として油を注がれていたのです。サウルを王とすることを、神は既に決定されていたのです。

その神の御心を、人々に明らかにして、確認されるためにくじが引かれたのです。

今日の使徒を選出するくじも、それと、全く同じなのです。既に定められている神の御心を知るために、くじが引かれたわけです。

そのくじによってマティアが選出されたのです。でもこれは、大勢の人たちが予想していたことと、全く真逆の結果だったのです。何故そう言えるのでしょうか。

それは、もう一人のヨセフの方が、先に名前が挙がっているからです。聖書は基本的に、重要人物が先に名前が挙がっています。更に言えば、23節を見るならば、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」そう記されています。ヨセフがみんなから、いくつもの名前で呼ばれていたのです。それが意味しているのは、それだけみんなから愛されて、慕われていたということです。

でも神のみ心は、そういった人間の思いとは違うのです。主イエスの復活の証人となる使徒は、人間の価値基準や、人間の評価とは違った仕方で、神によって立てられたのです。

神はくじを通して、十二使徒を再び揃えたのです。それが意味していることは、聖霊が降り、福音が宣べ伝えられていく準備が整ったということです。 

福音を宣べ伝えて行く準備として、弟子たちがしていたことは、対話的祈りをすることと、くじを引いて神の御心を確認することだけだったのです。

しかし、この2つのことに集中することこそ、とても大事なのです。現代の教会でも、それがとても大事なのです。

でも、それ以外のことを、ついしたくなってしまうのです。自分の手で、自分の工夫で、自分の力で、いろいろなことをしたくなってしまう。でもそれがかえって、聖霊の働きを、つまり、神の御心の実現を、妨げるのです。

私たちは、対話的祈りに没頭する静けさ、御心を確認するための静けさ、それを、大事にしなければならない。そう思うのです。

常に動いていってしまうことを中断して、静な中に自分の身をおいた時に、聖霊が降って、聖霊から力を得るのです。そうなって始めて、主イエスのみ旨に叶う形で、福音を宣べ伝えていくことが出来るようになるのです。

この後、使徒たちはまさに力強く、大胆に、福音を宣べ伝えていきます。それを支えたのは、静けさの中で繰り出された神との対話的祈りです。

最後に付け足しとして大事なことをお分ちします。

教会は、主イエスの復活の証人である使徒たちに、聖霊が降って力を与えたことで誕生しました。

主イエスの復活の証人である使徒たちは、主イエスが洗礼を受けた時から復活した時までのことを、見て知っている人たちです。ということは、使徒たちが天に召された後は、もう使徒と呼ばれる人たちはいないのです。ただ一人、例外な人がいます。それがパウロです。

パウロは、復活の主イエスとの出会いを特別な形で与えられ、特別枠の使徒となりました。でもそれ以後は、使徒はいないのです。教会の牧師は使徒ではありません。

牧師も、信徒も、使徒たちの証言を受けて、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じている人たちなのです。

つまり、使徒たちの信仰を受け継いでいるのが、現代の教会であり、現代のキリスト者たちです。

実は、仙台青葉荘教会が、礼拝の中で告白している使徒信条と同じ基本信条の一つ、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」は、教会のことを、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」そのように告白しています。それらの告白は、みんな大切です。でもその中でも、「使徒的教会」という告白は、注目に値する、とても大切な告白です。

使徒的教会とは、使徒たちの主イエスの復活の証言。それを大切に受け継ぎ、彼らが教えた主イエスの福音にしっかり立っている教会のことです。

実は、使徒たちの信仰が記されているのが聖書なのです。ということは、聖書によく聴き、聖書の教えを受け継いでいる教会。そういう教会が使徒的教会なのです。

この仙台青葉荘教会が、使徒的教会になればなるほど、使徒言行録に記されている生き生きとした教会の歩みに益々なっていくのです。

この仙台青葉荘教会が、益々そのような教会になっていくために、私たちみんなに、聖霊が与えられていることを心に刻み込んで、今週一週間、皆さんと共に、豊かに歩んでいければと、心から願っています。

 最後に一言お祈りさせて頂きます。




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