2023年9月3日 聖霊降臨節第十五主日礼拝

2023年9月3日 聖霊降臨節第15主日礼拝

聖 書  ローマの信徒への手紙16章17〜24節

説 教  教会の危機と平和 

 

前回8月13日にローマの信徒への手紙16章1〜16節までを「活ける教会の姿」と題

して説教しました。ローマの教会に送る手紙の最後の16章で、挨拶の言葉でもありました。26名のローマ教会の教会員の名前が記されています。そこには、活ける教会の麗しい姿、主にある交わりの喜びが見られます。おおいに感謝ですね。

 しかし、この17節からは、別の観点で挨拶が続きます。それは警告でもあります。

お読みしましょう。

 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまず

きをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたし

たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉や

へつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。

 教会の姿は、活ける教会の麗しい姿だけではない。やはり、内部で呟き、不平、不満、不

信仰がある。出エジプト記では、モーセを通して神は数々の奇跡を行われ、指導者として

立てられましたが、そのモーセに対して批判し、呟き、攻撃する人たちがいました。

 イエス様もファリサイ派の人たち、律法学者たちから非難され、攻撃を受けました。

 

 今日の説教題「教会の危機と平和」

 教会の危機は、外部から押し寄せる嵐、危機がある。同時に、内部から壊そうとする危機

がある。それは腐敗です。

外部からとは、弾圧、迫害のような危機、攻撃。それには堪えようとふんばります。強く

祈り、しっかりと信仰を守ろうとして強くなる。信仰を堅くするのです。弾圧し、迫害する権力者に対して、神が砦となられ、岩となられ、盾となられて、信仰者たちを守ってくださるのです。こうして、外部からの攻撃があると、教会は結束するようになります。

しかし、内部からの危機、攻撃がある。サタンですね。教会に「不和やつまずきをもたら

す人々」がいることは残念なことです。その人たちは、18節以下の人たちです。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いている」のです。

 この仕えるという言葉は、原語のギリシャ語では「奴隷となる」ということです。しもべですね。神のしもべ、キリストのしもべであるより、腹、欲望の奴隷、罪の奴隷です。

 

 腹に仕えるとは、腹を神としていることです。フィリピ3章19節

彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

教会の平和を脅かし、キリスト者としての徳を貶め、教会の麗しさ、信徒の親しい交わりが乱れてくるのです。教会の危機です。サタン、分裂を起こす人たちです。

 マタイ福音書13章24節では、「毒麦のたとえ」をイエス様は語られます。畑に麦の種

を植えたのにいつのまにか、麦の中に毒麦が混じっている。毒麦を引き抜こうと思いまし

たが、よい麦までも間違えて引き抜くことになるから、収穫の時に別々に分ければいいと

主人は言うのです。なぜ、良い種を蒔いたのに、毒麦が生えてくるのか。悪があるのか。悪

がはびこるようになるのか。

 サタン、神に敵対する勢力が良い麦の種がまかれた畑に毒麦の種を植えたのです。途中

まで良い麦か毒麦か見分けがつかないのです。普段、従順を装っているが、陰口をたたき、

仲間内で反抗している。

 教会は内部から破綻するようになります。ほころび、崩れるのです。裏切り者によって、

破壊される。

 

 独麦のたとえの延長から言えば、イエス様が選ばれた弟子たち 12名です。イエス様

を裏切ったユダはその弟子のひとりです。

人間のこころ、その奥底にあるもの、罪の性質は、破綻するのです。

20節

平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。

わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 最後は、神の勝利です。イエス様がファリサイ派、律法学者の攻撃によって捕縛され、

裁判にかけられました。十字架の死を迎え、墓に葬られました。ファリサイ派、律法学者は

じめユダヤ人たちは拍手喝采でしたでしょう。しかし、三日目に復活されたのです。

 死に打ち勝たれたのです。サタンと死に打ち勝たれたのです。これが、神が最終的な勝

利です。

 謙遜、忍耐、祈り、信仰が必要です。主ご自身が介入される。直接、御手をもって解決

してくださるのです。人間の手が入ると、一緒にダメになる。その人間自身がどういう人

なのか。盲人が盲人の道案内をしているのと同じです。罪びとが同じ罪びとを裁いている

のです。「そこういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に

仕えている」のです。

 

 平和の神がわたしたちの信仰生涯において、また教会に、まことの平和と祝福を与えて

くださいます。わたしたちは神に仕え、キリストのしもべとして世に仕えてまいりま

しょう。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も

滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節。

 キリストに仕えるとは、この福音を宣べ伝えることにあります。教会の使命です。

祈ります。




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