2022年8月21日 聖霊降臨節第12主日礼拝

2022.0821.Syuhou

聖 書  出エジプト記7章1~13節

説 教  命の川、死の川

 甲子園での高校野球が連日賑わっていますね。本日は、はじめにラグビーの話しをいたします。お聴きください。説教の導入です。

 ラグビーは日本ではマイナースポーツでしたが、しばらく前には4年に一度のワールドカップが日本で開催され、注目されるようになりました。15人でプレーするゲームです。そのラグビーゲームで、国と国の試合のことをテストマッチと言うそうです。国家を代表する実力のある選手が選ばれるのです。選手はその名誉に相応しく、力を出し切って戦うのです。 

ラグビー発祥の国であるイングランド、有名なのはニュージーランドです。国を代表するチーム名はオールブラックスといいます。真っ黒なユニフォーム。そのユニフォームを着てプレーする。誇りと名誉があるのですね。その試合の前に、ある儀式を行うのです。戦いの前の儀式ですね。それは、ウォー・クライといい、国によって名称があります。ニュージーランドでは「ハカ」と呼ばれ、オーストラリア、フィジー諸島では、先住民のウォー・クライがあるのです。それは、戦意高揚、相手を怯えさせる、パフォーマンスです。(※ 映像1,2)

 

 本題に入ります。これからいよいよモーセは神様の支持を受けて、イスラエルを解放するするためにファラオのもとに行きます。いざ、ファラオとの対決です。戦闘モードに入ったのです。戦いには、準備が必要です。何も持たず、戦いの備えもせずに、行き当たりばったりでは戦いにはなりません。交渉でもそうですね。「誰と駈け引きするのか」(2022年6月19日の礼拝説教 出エジプト記5章1~6章1節から)

 準備万端、戦いの備えは整ったのです。相応しい戦力、武器、何よりの大切なのは、戦意です。戦いの気力。相手は、あの超大国エジプトです。戦力から言えば、赤児の首をひねるに等しい。イスラエルはそのくらいの力しかありません。ラグビーの話しではありませんが、スコットランドと日本のテストマッチ。98対0で敗北しました。相撲でいうと、横綱と小学生が取り組みをした。勝つみこみはありません。エジプトは馬に曳かれた戦車が数千台、訓練された幾万の兵士、兵士は、槍、剣、弓矢の武器を持っています。

 片や、モーセは、手に杖のみ。アロンの弁舌。徒手空拳。イスラエルは武器を持たず、戦う訓練も受けていないのです。勝利の確立はあるのか。無謀ではないのか。しかし、何よりも全能の神がバックにおられる。これがモーセの信仰です。その信仰によって、イスラエルは出エジプトが可能となったのです。ダビデとゴリアテの戦いみたいですね。

 本日の箇所、ファラオとの対決です。モーセとアロン 対 ファラオ、同時に、それは、神「わたしはあるという者 ヤハウェ神」 対 エジプトでもあるのです。

杖が蛇に変わる奇跡と10の災いのうち第一番目が記されます。そのことを見ていきましょう。

1.杖が蛇に

 アロンの杖と魔術師たちの杖の戦いです。何か劇画調ですね。映画「十戒」が60年前に上映されましたが、その中でも杖が蛇に変身し、互いに戦う映像がありました。

 7章で神はモーセに言われます。9節ですね。お読みします。

「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は 蛇になる。」

モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。

 杖が蛇に変わる。聖書は、神ご自身が奇跡とされています。そのように、アロンの杖は蛇になったのです。しかし、エジプト側も負けてはいません。ファラオは賢者と魔術師を召しだしたのです。

 11節を読みます。

 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。

 アロンが持っていた杖が蛇になり、エジプトの賢者や呪術師たちが持っていた杖が秘術を用いて蛇になったのです。複数です。こうして、蛇同士が戦います。ついにアロンの杖が魔術師たちの杖をのみ込んだのです。ここで注意して読みますと、「アロンの蛇が魔術師の蛇をのみ込んだ」とは書いていないのです。

12節

アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。

これは、蛇と蛇の戦いではなく「杖と杖」の対決です。杖とは何でしょうか。エジプトの賢者や呪術師が秘術を用いて蛇にした杖。奇術と言いますか、手品を見ているようですね。そこには全能の神様、「わたしはある」とモーセに啓示された神ご自身の御手が杖にあったのです。そこには、「わたしはある」と啓示された神とエジプトの現人神であるファラオの代理戦争でもあります。それゆえに、ファラオは敗北を喫したのです。

この奇跡を見ても「ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである」とある通りです。

アロンの杖と魔術師たちの杖の今日的解釈をいたします。

 魔術師の杖とは、偶像、まやかしの宗教のことです。元首相の安倍晋三氏は、旧統一協会

というにせ宗教を選挙のために利用し、また旧統一協会から利用されたのです。霊感商法

という多くの反社会的な活動が時の権力者によって認知されたのです。多くの被害者が生

じました。それは政治の責任にもかかわらず選挙、イデオロギーのために利用したのです。

ここでは偶像宗教もちからを持つことがあると言えるでしょう。しかし、それは一時的で

あります。

 まやかしの宗教、まやかしの教え。おのが腹を神とする、欲望の神。これが魔術師の杖で

もあります。アロンの杖は、魔術師の杖に勝利したのです。偶像の本質―それは死です。ま

ことの神はいのちの神、人を生かし、すべてを活かすのです。

2.ナイル川の水

次にナイル川の水が血に変わる奇跡を行われます。災いの第一番目です。災いは、エジプトにとっては、文字通りの災いですが、イスラエルにとっては、神が行われる奇跡、しるしです。10の災いは10の奇跡であり、しるしでもあります。

14節から19節まで、神様がモーセに命じられる言葉が記されます。モーセとアロンは神様のお言葉に従います。20節です。

モーセとアロンは、主の命じられたとおりにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。

ここで不思議なことが起こります。22節ですね。お読みします。

ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。

魔術師が杖を蛇に変えた奇跡を行ったように、ここでも秘術を用いて同じことを行ったのです。どういうことでしょうか。魔術師たちも奇跡を行えたということでしょうか。他の聖書では「魔法」と訳しています。幻惑ですね。妖術とか幻術という言葉があります。見る人の目を騙して奇術を行うことです。次の8章では、蛙の災いが生じます。血の災いの後、一週間後に、蛙の災いが生じるのですが、ここでも魔術師たちは秘術を用いて同じことをしたのです。

ここで客観的に見て考えることがあります。アロンの杖による川の水が血に変わった。魔術師たちも同じことをしたのです。しかし、大事なことが見失われています。それは、魔術師たちは、血に変わったナイル川の水を真水にはできなかったのです。蛙を這い上がらないようにすることができなかったのです。つまり、魔法であって、奇跡ではないということです。

さて、本日の説教題は「命の川、死の川」としました。

ナイル川はエジプトの母なる川です。ナイル川の豊饒な水によってエジプトは多くの作物を産みだし、あのエジプト文明を築いたのです。いわば命の川と言えるでしょう。その川が死んでしまう。飲むこともできない。川の魚は死に、悪臭を放ちます。まさに、21節にあるように、エジプトの国中が血に浸ったのです。どうしたのでしょう。どこで飲み水を獲得したのでしょう。24節

エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。

これは地下水ですね。神様の憐れみです。神は地下水までも血に汚染されなかったのです。エジプト人を死に至らしめるのではなく、神の主権を認めさせ、イスラエルを去らせることが目的だからです。ファラオは、それさえも理解できなかったのです。それゆえに、残り9つの災いがもたらされるのです。

(疑問が残ります。川は海に流れます。川が血に変わったということは、時間がたつと海が血に汚染されるということでもあります。フクシマ原発で処理水の海洋放出とう問題。

処理水とは、2011年の炉心溶融(メルトダウン)事故で溶け落ちて固まった核燃料を冷却した後の汚染水のこと。ここでも自然破壊がある)

命の川、死の川ということで、最近の天候不順について考えさせられました。

線状降水帯による大雨による被害のニュースについては皆さんご存じでしょう。7月そして8月、九州、福井、富山、宮城、青森、秋田と各地で大雨による河川の増水により堤防決壊、氾濫、土砂崩れにより大きな被害が発生しました。床下浸水、田畑が水びたしになり作物が実らなくなりました。青森ではリンゴの被害がありました。異常気象、気候変動、温暖化の問題です。

 のどかな、自然のいやしを感じさせる川が増水、氾濫して人のいのちを奪うのです。命の川が死の川となる。豊穣を約束する川が大雨で水びたしとなる。

 川を命の川、死の川とするのは、神のみわざです。ある面、死の川は神の裁きの結果と言ってもよいでしょう。しかし、神は赦しの神でもあります。審きにあっても、悔い改めれば、赦し、回復と復活へと導いてくださる。それは真実です。

 

 聖書には川について書かれて言葉があります。そのなかで2つを紹介します。

ヨハネによる福音書7章28節

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」

エゼキエル書47章8~9節

「これらの水は汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れ る所では、すべてのものが生き返る」

本日のナイル川でのモーセの奇跡は、この生ける水を与えられる主なる神の主権をあらわしているのです。

神の主権とは、神が全地を統治者、神の支配の御手にあること。そこに武力や恐怖によってではなく、キリストの十字架によって流された贖いの血のゆえに、赦しと愛による統治であることを知ることなのです。

 祈ります。

(参照 エゼキエル書29章3節の預言)




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