2021年10月31日 聖霊降臨節第24主日礼拝

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聖 書  出エジプト記3章7~12

説 教  モーセの召命

 先週の礼拝では、神が顕現され(ご自身を顕され)、燃える柴の炎の中からモーセに声を発せられたことを説教しました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」 5節ですね。そう言われました。

 神はまた、6節に続いて言われます。

神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

 本日は、この6節から12節までを三つのポイントで説教します。

1.神の自己啓示

 今、お読みしました6節ですね。前の段落では、神の顕現ですが、この6節から、顕現された神がご自身のことを開示されるのです。このことを「啓示」と申します。

啓示とは、Aποκάλυψις(アポカルュプシス)、英語はrevelation ですね。ヨハネの黙示録もAποκάλυψις(アポカリュプシス)です。人間の力では知ることのできない宗教的真理を、神が神自身または天使など超自然的存在を介して人間へ伝達すること。天啓。そのように辞書は記しています。

ヨハネの黙示録1章1節 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。

 この黙示ですね。黙示とは、蔽いをとる、隠されていたものが明らかになる。そういう意味です。代々に亘って隠されていたもの。その蔽いを取り去り、明らかになるのです。何が? 真理です。神の真理、真実、創造の秘密。救いの真理。そう言ってもよいでしょう。

 この啓示は段階的なもの。時代を経て、少しずつ啓示される。そうでないと、理解できない。旧約と新約があるように、神様の啓示も時代を経て、よりはっきりと鮮明にご自身を啓示されるのです。奥義とも言います。最終的には、神の子イエス・キリストという形で、キリストの十字架と復活、再臨でもって、神の啓示は完結するのです。それは救済史ともかかわっています。

 ちょっと、難しくなってきました。

 ところで、何を啓示されたのか? 今日のところは、神の自己紹介です。初対面の人同士なら、まずお互いに自己紹介します。名刺があれば、名刺の交換をします。相手を知ろうと努力します。温かさ、熱意をもって。自分は、どういう人間なのか。

神は紳士的なお方ですから、いきなり用件をもって始められません。相手のことを気にしておられる。そこからはじめられる。それは、神のお名前です。

3章6節

①「あなたの父の神」として啓示されます。モーセの父ですね。次に

②アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

 ヤコブがエジプトに移り住んでから400年たっています。しかし、神はアブラハム、イサク、ヤコブの神として、これら族長であり、モーセの先祖の神としてご自身を顕されるのです。

③それは同時にモーセの神でもあるのです。

 つながっている。連続しているのです。

2.神とモーセの対話

 神の自己啓示をもって、モーセをエジプトに遣わすと言われました。7節から9節では、神がイスラエルの人々に対する愛情の深さが強調されています。

エジプトにいるわたしの民の苦しみ、叫ぶ彼らの叫び声を聞き、痛みを知った。

9節

 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。

 これらは、2章23節からの言葉の繰り返しです。イスラエルの人々の痛み苦しみが神様の憐れみを増し加えているようです。神ご自身が「今や、猶予ならぬ、早く救わねば」という焦りのようなお気持ちでおられることを窺われるのです。

 そのために、神はモーセを選び、召命感を与え、派遣されるのです。

10節

「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」

 神の選びと召命は、それを受けた人にとって重荷となります。目の前に神様がおられる。その神が直々に語りかけ、神の代理人として働くように命じられるのです。そこに人は、たじろぐのです。モーセですね。目の前の壁が高く、進むのにひるみ、おじけづくのです。気おくれして尻込みするのです。それは、自分の人間的な能力のなさ、弱さを知っているからです。モーセは、エジプトで同胞を虐待しているエジプト人を正義感でもって打ち殺しました。しかし、ファラオが知ることになり、逃亡するのです。イスラエルの人々からも支持されることなく、むしろ受け入れられなかったのです。

 ミディアンに逃れ、40年の間、雇人として羊を飼っていました。そのモーセに神はご自身を顕されたのです。神の選びと召命です。モーセはしり込みしつつ、神に応答します。

 11節「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と神に質問するのです。

 旧約聖書及び新約聖書を通して、神の召命に関する記事が多数あります。モーセ、ヨシュア、士師記ではギデオン、サムエル、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、アモス、ヨナ、新約聖書においてもペトロ、ヨハネ、パウロなど枚挙に暇ありません。アブラハム、イサク、ヤコブもそうです。

 神がひとりひとりを選び、御声をかけて、神のみ旨を行うために派遣されるのです。

先週も申しました。

 神の救いの御手は、独特です。そこには神様のご計画があります。み旨ですね。すぐに神の全能の御手をもって、超自然的な神の力によって即座に、イスラエルを救おうとはなさいませんでした。そこに神の計画があるのです。神が顕現される時、新しい歴史が始まるのです。それは人を通して、人間の弱さや無力を通して、神はご自身をあらわされるのです。神は弱い人間とともにおられ、無力な人間とともに救いを行われるのです。

 神は人間の弱さ、無力さをとっくにご存じです。しかし、神はその弱い、無力な人を通して、ご自身の救いを行おうとされるのです。これが不思議です。それは、ただ神の全能さと全知をあらわし、示すためです。

 そこに、神は言われます。12節

「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」

 これは救いの目的と言える内容と真実が言い表わされています。神に仕える。礼拝です。これが、神がイスラエルを救い、解放する目的であります。本来のものを本来のものとし、ただその方のみに仕え、礼拝する。

 人間の弱さ、無力さの中に、神はおられるのです。それは人間が自分を誇ることがないために。自分の才覚やちから、財力、家柄、血筋、すべて人間的な誇りではなく、ただ神にのみより頼むときに、神のちからがそこに現わされるのです。そのしるしが「わたしはあなたと共にいる」ことなのです。主の臨在があること。イムマヌエル、神が共におられるのです。

3.神とわたしたちの関係

 以上、3章6節から12節でモーセの召命に関して、み言葉に聴きました。3番目として、この聖書のみ言葉に対して、では、神とわたしたちの関係はなんだろうか。それについて考えてみたいと思います。

① 6節 わたしはあなたの父の神である。

  教会のみなさん。わたしたちは、日本人です。イスラエル人、ユダヤ人ではありません。しかし、聖書の神が天地万物を創造された方であることを信じています。そして、神の子イエス・キリストがわたしたちのために十字架に架かり、キリストを信じる信仰により、滅びからいのちへと移され、救われたことを信じています。

明治以来、キリスト教が日本に伝わり、福音宣教により、日本人の多くが信仰を持ちました。日本の各地に教会が建てられ、伝道してきました。ここ仙台にもミッションスクールがあり、多くの学生、生徒がキリスト教に触れました。そして、その信仰が仙台青葉荘教会をこんにちまで生かしてきたものであります。

わたしたちの信仰は、この150年前に信仰を持たれた方々の信仰を継承しているのです。仙台青葉荘教会でも、信仰の先輩がおられます。それらの先達は、わたしたちの信仰の父であります。まさに、「わたしはあなたの父の神」と言えるのです。

その信仰によって、わたしたちの神は子どもの神となり、孫の神となるのです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はわたしの神であり、わたしたちの子の神、孫の神となるのです。信仰が継承し、連続していくのです。

②生ける神がいま、あなたと話しかけておられる。

 神はモーセに顕現されました。燃える柴の炎の中から話しかけられました。いま、同じ神様はわたしたちに教会という聖臨在の中から話しかけられるのです。その御声を聴きましょう。3500年前の神とモーセではない。2021年10月30日、今のあなたと神の関係において、神は話しかけ、わたしたちは信仰の霊の眼で神を見奉るのです。

③ 11節 「わたしは何者でしょう」

 モーセは神に応答しました。「わたしは何者でしょう」

 神は無力で弱いわたしたちを選ばれ、遣わそうとされます。どこに? エジプトです。エジプトとは、罪と偶像に満ちた世界です。この世、この世界です。わたしたちはキリストの信仰をもって、この世に派遣され、出て行くのです。伝道ですね。

 そこに神が「わたしは必ずあなたと共にいる」と仰っておられます。神のちから、聖霊のおおきな御力が注がれているのです。

④神はあなたを通してなそうとなされている。

 どんなに無力で、弱くても、神が共におられ、それを成し遂げてくださることを信じましょう。週報の裏面、コラムに「限界集落」について記しました。2030年問題、教会の「限界集落」化があっても、希望を失わずに、信仰に生き、福音宣教に遣わされましょう。そこに神の栄光があらわされるのです。祈りましょう。




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