2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日礼拝

2021.1010.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙6111節

説 教  キリストにある新しい命

 新型コロナウイルス感染により、わが日本国および全世界において2年間にわたって大きな感染症の被害を受けてきました。

教会も感染対策のために礼拝を休止するという決断をしました。しかし、ただ礼拝を休むと言うことではなく、文明の利器を通して、インターネットによる礼拝動画の配信を通して、教会に来れなくても、礼拝に参加することができるという恩恵にあずかることができたのです。そのことで、教会の宣教と牧会の恵みを受けることができたのです。

 もちろん、ネット環境がない兄弟姉妹、あっても操作が難しく思うように視聴できない。そういう不具合もあり、すべての兄弟姉妹が恩恵にあずかったわけではありません。それは、これからの課題でもあります。

 さて、教会の目的は、神を信じ、救いに与ったクリスチャンがその信仰を養い、神の愛と恵みを人々に宣べ伝えることです。教会は、主イエス様の十字架と復活、聖霊降臨によって教会が誕生して以来、この2000年間、主イエス様の十字架の贖いと救いという福音を宣べ伝えてきました。それが教会の使命でもあり、存在意味でもあります。

 では、クリスチャンとは何か? どういう人を言うのか? これが本日の聖書の主なテーマであります。それは次のような質問、問いかけから始まりました。ローマの信徒への手紙5章後半、とくに20節の言葉です。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」という言葉からです。

この言葉から、6章1節にあるように、

「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という問いかけになるのです。

この問いかけから、6章の2節から14節にいたるまでに、二つのテーマが語られています。一つは、罪に死にキリストに生きるということです。二つめは、罪に死にキリストに生きることは、洗礼によって支えられているということです。「洗礼論」と申しますか。洗礼とは何か。そのことが語られています。

本日は、最初のテーマ、罪に死にキリストに生きること。次週の礼拝では、洗礼について説教することにいたします。洗礼は、聖餐と同じく、プロテスタント教会の聖礼典とされている聖なる礼典、儀式です。洗礼を受けることによって、キリスト者となるのです。その意味をともに考え、受けとめましょう。

そこで、本日のところ、罪に死に、キリストに生きるとはどういうことか。

1.洗礼(バプテスマ)

洗礼についての詳しい意味は次週礼拝で行うと申しましたが、本日はこれだけは申しあげることがあります。それなしには、罪に死に、キリストに生きることがぼやけています。それは、洗礼は、死を意味するということです。もちろん、本当に死ぬのではありません。象徴です。3節、4節ですね。お読みします。

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたよ うに、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ここにありますように、死にあずかるために洗礼を受けたとあります。洗礼は、死を意味しますが、本当に死ぬわけではありません。イエス様が十字架上で死なれましたが、三日目に甦られたように、死んで甦る。これが洗礼なのだということです。

大切なことは、キリストに結ばれるための洗礼であるということです。結ばれるとは一つとされることです。キリストがわたしのうちにおられる。その信仰をもって、洗礼を受けるのです。形式的なものではありません。

4節後半

キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

新しい命に生きる。これが洗礼の意味なのです。新しい命に生きることは、古い命が死ぬことでもあります。

エフェソ4章22~23節

だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

2.罪に死ぬ

 洗礼は死であるとありますが、それは罪に死ぬということですね。

 6節

 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 罪に支配された体が死ぬということです。生きている間、罪に支配された罪の奴隷でありました。しかし、死んでしまったら、もはや罪から解放されるのです。罪の奴隷ではなくなるのです。そして、キリストとともに甦る。復活にあずかるのです。新しいキリストにある命をいただくのですね。

3.キリストに生きる

8節

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 バプテスマを受けたわたしたちは、罪に死んだものであり、キリストと共に甦ったものであるのです。それはキリストと共に生きるものとされたからです。

そのことを聖書は、11節でこう結論付けています。

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 4節に「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」とあります。いままた11節でも、「キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きている」というのです。結ばれるとは、キリストにつながっているということです。一つにされているとうことですね。

ヨハネ15章5節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」

 このつながっている状態をローマ書では、キリストに結ばれるといっています。

 つながっているとは、キリストと一つということです。わたしの中にキリストがおられ、キリストの中にわたしもいる。そういうつながりです。幹も枝も同じ木です。

 教会につながっているわたしたちも同じです。キリストという一つの木、幹につながっている枝々が、わたしたちクリスチャンであるのです。

 そうです。クリスチャンとは罪に死んだものであるのです。ですから、もはや罪の中に生きることはできないということです。罪に死んで、キリストに生きる。

 深谷牧師のこと。東京聖書学校教授会でいつもお会いしています。画家志望で芸大受験。4年浪人。浪人中に悔い改めて、イエス様の十字架の死によって贖われたことを信じた。喜びに満たされた。画家よりも伝道者になることに導かれ、神学校に入学された。

 教会に行くようなり、洗礼を受けられた。受洗の前夜、祈られた。

「お前は、明日死ぬのだ。覚悟はできているか」

 そして受洗、まっしぐら。伝道者の道を歩き続けられた。

わたしたちも洗礼を受けた時は、キリストにある新しい命を受けたことを感謝し、本当に生まれ変わったような経験をしたのではないでしょうか。信仰の喜び、感謝、嬉しさでいっぱいという時期があったと思います。それでも月日がたってくると、その感激もうすらいでくる。信仰について疑うようになることもあります。

罪を悔い改めで、罪を赦されても、やはり罪を犯すことがあるのです。人間は完全ではないからです。そこで聖書は、キリスト者の罪という問題へと展開します。このキリスト者の罪という問題は、7章で取り上げられます。そこでわたしたちも、キリスト者の罪について考えましょう。




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