2021年7月11日 聖霊降臨節第8主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙4章1~12節
説 教 信仰の模範
1.信仰の父アブラハム
幼稚園や小学校の低学年でよく行う体操があります。皆さん、ご存知でしょうか? 「アブラハム体操」というのがあるのです。アブラムシ体操ではありません。
<♪ アブラハムには七人の子、一人はノッポで、あとはチビ、
みんな仲良く暮らしてた。さあ、踊りましょう。右手・・・右手>
このフレーズを繰り返しながら、左手、両手、右足、左足、くび、と身体を動かしていく体操です。大変面白くて、初めてこの体操を知った時は、ゲラゲラ笑いながら、踊った経験があります。
この体操の歌詞は、「アブラハムには七人の子」とありますが、本当は八人が正解なのです。イシマエル、イサクと続きますが、イサクが生まれた時は、アブラハムは100歳でありました。妻サラは90歳でした。サラは127歳で亡くなります。その後、100歳を超えていたアブラハムは、再婚して6人の子を産むのです。アブラハムは175歳まで長生きします。
さて、アブラハムは信仰の父と言われます。アブラハムは、謹厳実直な信仰者だったでしょう。聖書の中では、神は秘密の事項をアブラハムに隠すことなく打ち明けられます。ソドムとゴモラの滅びに際しての言葉ですね。まさに特別に選ばれた信仰者だったのです。神はアブラハムを友とされていたのです。創世記18章17~19節
ヤコブの手紙2章 23節
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
アブラハムが信仰の父とされたのは、神の特別の選びとその神への応答としての信仰でした。とくに、創世記15章では、子がないアブラハムに神は子どもが生まれることを約束されます。3節からですね。
アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
このアブラハムを義と認められた出来事から約2千年後、新約聖書、ローマの信徒への手紙4章で、パウロがアブラハムを評価します。それは、行いによる義ではなく、信仰によって義とされるのだという例証のためです。4章3節
「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」
そして5節ですね。次のように、パウロは記します。
「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」
ここで「働きがなくても」と言われているのが、行いによって義とされるということです。前回3章27節から「信仰の法則」と題して、説教しました。信仰の法則と「行いの法則」の二つがある。今一度、この4章で「行いの法則」とは、律法を守ることであると強調するのですね。律法を守るとは、ここでは割礼をさします。
9節以下では、割礼と言う言葉が、何度も出てきます。これは律法を守ると言うことですね。律法を守る象徴が割礼ということです。このことをパウロは行いの信仰と定義するのです。それだと信仰の模範とならない。キリスト教は、割礼を受けなくても、すなわち律法を守らなくても信仰によって義とされる。なぜなら、アブラハムがそうだったではないかと言うわけです。
アブラハムの時には、律法はありませんでした。次週は、出エジプト記からの説教です。予定は「モーセの誕生」です。神は、この出エジプト記において、モーセを通して律法をイスラエル民族に与えられました。アブラハムは、モーセよりも500年以上も昔の先祖です。
彼こそが、信仰者の模範となったのであります。
4章12節
更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
2.信仰の模範
今日は、「信仰の模範」と題しました。聖書は、アブラハムが信仰の模範となったと言うのです。信仰の父と呼ばれる所以です。
さて、模範とは「見習うべき手本」であります。その手本を模倣する。まねをする。
わたしたちは、信仰において、またわたしたちの人生において、見習うべき手本があろうかと思います。いかがでしょうか? 皆さんにとって信仰の模範はありますか?
わたしたちは、模範はとても大事です。お手本とするべき型を自己のうちに作っていく。誰を模範とするかで、自分の進むべき方向を決定するのです。
たとえば、言葉は模倣です。親の言う言葉を真似ることから、わたしたちは言葉を覚え、話すようになります。子は親のことばをまねる。その行動をまねる。模倣することからしか上達しないのです。
技術にしても同じです。何かのわざを覚えるのは、そのわざを持つ人のわざを模倣することから始まるのです。
世の中には、手取り足取りして、教えてくれる人たちもいます。コーチとか指導者といわれる人たちです。体育会系の学生さんはよくご存知でしょう。コーチングという学問もあります。教えることによって才能を引き出し、伸ばす。これもある程度の基礎、基本と申しますか、初級から中級程度の技術や知識をもった人たちを対象にするものです。
人を教えることができる人は、それだけ謙虚に学び、教わったことがある人のことだと思います。同じように、人を訓練できるのは、よく訓練された人であります。
信仰の世界も、模範があるのです。そして、型にはめ込まれるように模倣する。まねることによって、信仰が引き上げられるのです。技術をまねるとは、祈りのことば、態度、信仰生活をまねる、模倣することです。
ピアノを弾く人はよく判っておられると思いますが、弾く曲のグレードがあるのですね。簡単な練習曲からコンサートで引く難易度の高い曲があります。難易度とは、技術の面だけでなく、芸術性が高い曲をいいます。芸術性の高い曲を弾きこなすには、ピアノを弾く人がそれだけ精神性を養い、高くしなければ芸術性を理解できない、すなわち作曲家の指示する楽譜通りの表現ができないのです。
ピアノのことだけでなく、あらゆることにおいて応用がききます。学問もそうです。技術系の仕事もそうです。大工さんとかコンピューターなどですね。お茶や華道の世界もそうでしょう。
こんなことを言うと誤解されるかもしれませんが、信仰の世界もグレードのようなものがあるのではないかと思います。それは単なる技術のことではなく、精神性、それこそ信仰です。あえて言うなら、霊性です。霊性を養うのです。神様のことを理解し、考えるわけですから、霊の世界、入り口の狭いところから、奥の深い、そういう霊の世界があるのです。
成長と成熟ということですね。
その段階、グレードは、初心者から熟達者まであります。ただ、大事なことは、信じれば救われているということです。これは難しいことではない。信仰の世界に入っているのです。神の国の恵みの中に入れられているのです。しかし、そこから誘惑があり、信仰の世界から引きずり出して、もとの世界、信仰に入る前の世界に戻そうという力も働いているのです。その力をサタンと言います。サタンは、初心者も熟達者も同じように働きます。
信仰の世界では、誰を模範とするかがとても大切です。信仰の先輩者、自分を教会に誘った人、役員、長老・執事、牧師などなど。
わたしのことを話しますと、洗礼を受けた当時、教会に一生懸命に祈る人がいました。役員です。一家で礼拝に出席していました。礼拝、祈祷会、夕拝、皆出席なのです。祈りは純粋で単純、幼子のように神に信頼している雰囲気がありました。そして、祈るときは大きな声で祈るのです。声を張り上げるのではなく、率直なということでしょうか。リズムカルに朗々として信仰深いなあと思わせられるのですね。ホーリネス教会の祈りですね。
仙台青葉荘教会においてもそのような祈りをされる方がおられましたね。松本文助兄、齋藤潔兄、内ケ崎環姉など多くの先達がおられた。その祈りによって今の仙台青葉荘教会があると言っても過言ではないでしょう。
その祈りは密室の祈り、朝のデボーションの祈り、祈祷会によって祈りの深さ、高さ、豊かさ、霊的なものが養われるのです。祈りの訓練、鍛錬です。神を前にして祈る。そのこころが表に出てくるのですね。
「僕もこんな祈りがしたいな・・・」 そう思いました。
献金当番のとき、祈りをしたのです。「神様っ」その役員のように、ろうろうと祈ろうと思ったのです。しかし、言葉が出てきませんでした。初心者がいきなり、熟練者のようになれないのですね。祈りも訓練だと思いました。
これも誤解しないでいただきたいのは、祈りは信仰のバロメーターではないということです。わざ、行いではないのです。大切なことは、動機(motivation)の純粋さです。神に向かうこころ、態度です。その純粋さが大切なのです。
これもまた、応用がききます。芸術へのこころ、態度です。中学生、高校生、大学生なら自分が携わっている勉強へのこころです。仕事をしている人は、その従事している仕事へのこころ、態度、情熱です。デボーションとは、献身です。献げることです。そのように、自分の時間とこころ、からだを仕事に捧げているのです。献身しているのです。そこに、神はちからと知恵を与えてくださるのです。
模範とする人がいる。幸いですね。わたしたちは誰を模範としているでしょうか。
最近よく、自分探しという言葉がはやっています。自分という人間はどこから来て、どこへ行こうというのか? 自分とは何か? そして、 人間とは何か? 人生とは? 世界とは? そういう問いをもって生きる。とても大切なことです。その自分探しの旅に出るといいます。
今日、礼拝に来られた若い人たちも、自分探しをされているかと思います。
自分探しは一生の問題だと思います。一生かけて、探し求めるのです。しかし、捜し求める中で、神に出会う。あるいは、神を見出す。そのとき、自分が何者であるのか、どこから生まれ、どこに行こうとするのか。その自己自身を見出し、発見し、自分の本当の姿を理解する。そのために、模範をどこに置くか、誰に学ぶかによって、決定的に違ってくるのです。
そして、わたしたちの結論は、キリストにこそすべての模範と真理があり、キリストにこそ、人生のすべてがあるということです。キリストに習い、キリストを模倣する。それが人生の豊かさとなると信じます。祈ります。
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