2021年7月18日 聖霊降臨節第9主日礼拝
聖 書 出エジプト記2章1~10節
説 教 モーセの誕生
歴史に名を残した人物には、一般人にはない、誕生にまつわるエピソードがあります。仏教の開祖と言われる釈迦、釈尊ですね。本名はゴータマ・シッダールタですが。国王の妻であった母がお産のため、実家に里帰りする途中に産気づき、ルンビニー園というところで誕生しました。伝承では母の右脇から産まれたとされています。産まれるとすぐに立ち上がり、7歩進み、右手で天、左手で地を指して宣言しました。その言葉は、「天上天下唯我独尊」(世界にこの命は一つだけ、だからこそ全ての生命に価値があり尊い)でした。仏教では4月8日に釈迦誕生を祝い、「花祭り」という儀式を行っています。
福音書に記されていますイエス様、われらの救い主ですが、聖霊によって身ごもられ処女マリアからお生まれになりました。受胎告知があり、生まれた時には、東方からの学者たちが拝みに来ました。黄金乳香没薬が捧げられたのです。天使たちの賛美の声。羊飼いたちが拝みに来ました。クリスマスの物語ですね。12月25日とされています。
1.モーセの誕生
そして、モーセです。モーセは旧約聖書中の最大の人物です。伝統的に創世記から出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5書はモーセ五書と呼ばれていて、モーセが記した書であると言われます。創世記を除くあとの4書はモーセが主人公です。神によって十戒・律法を授かりました。旧約聖書の中心人物であります。
イエス様とモーセの誕生に際して共通するものがあります。それは死ということです。しかも、同じ幼児たちの死ですね。ヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とあります。(マタイによる福音書2章16~18節)
エジプト王ファラオは、助産婦に命じます。「男の子なら生まれたらすぐに殺すように」
それでも効果がないため、次の命令を布告します。「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」(出エジプト記1章22節)。
ナイル川にほうり込めというのは、溺死させよということですね。どれだけのユダヤの民がその命令に従ったか、聖書には記録はありません。エジプトの兵士たちが一軒一軒廻って、妊娠している女性を調べあげ、生まれる予定になると、その家に来て赤子を殺戮する。そのようにしたのでしょうか。
このようにモーセの誕生に際しても、聖書はくすしくも死のイメージがつきまといます。しかし、その死に対して、神の守りとご計画がある。むしろ、死という人間がいかんともしようがないところで、人間の力を超えた神様のちからがあることを示しているのです。死に打ち勝たれる神のちからとご計画を現しているのです。それは神の救い、神の救いの力です。神の計画とはそのことを指すのです。それはまさにいのちです。
モーセの両親は、ファラオの命令を知っていました。また、監視されていることも知っていたことでしょう。それでも、モーセがあまりにもかわいいので、隠していたのです。3か月後、隠しきれなくなったとあります。赤子の泣き声もあるでしょう。近所の人たちは生まれたことを分かっていても、温かく見守り、互いにかくまっていたことでしょう。
モーセにはアロンという兄もいました。三つ違いの兄です(出エジプト記6章6節)。その時も、アロンは守られていたのでしょうね。ファラオの命令の時には、すでに成長していたと考えられます。
2.ブーメランの法則
ブーメランのいう飛び道具は皆さんご存じでしょう。遊戯の道具でもあり狩猟でも使われました。こういう形をしていますね(画像あり)。手で投げると円を描いて、投げた本人に戻ってくるのです。そのことから、最近は政府の発言において、マスメディアなどに使われるようになりました。
自分が発言した言葉が自分に帰ってくる、そのような意味です。とくに、相手への批判の発言が自分に返ってくるのですね。
ここでは、エジプト王ファラオは、イスラエルの赤子をナイル川にほうり込み、殺すように命じるのですが、まわりまわって、この命令がエジプト王本人に戻ってきて、自分の身と国家さえも危機に陥れ、ついに破滅にいたらせることになるのです。
これが出エジプト記であり、神がモーセを通してイスラエルを救い、解放する偉大なる出来事なのです。
その第一は、ナイル川です。ナイル川にほうり込めと命令はファラオが出したものです。仕方なく、モーセの両親は3か月だけ手元に置きましたが、ついに隠し切れなくなって、ナイル河畔の葦の茂みの間に置かれました。
そこに王の娘つまり王女が水浴びをしようと川に下りてきてパピルスの籠に入れられた赤子のモーセを発見したのです。そこで、モーセの姉が機敏に入れ知恵し、王女は何の疑いもなく、聞き入れ、実の親の乳(母乳)で育っていくのです。ヨセフのように、とんとん拍子ですべてうまくいく、収まる、益となる。そのように導かれるのですね。4節以下です。
こうして王女は結果的には父王の命令に背き、ユダヤ人の男の子を助け、育て、ついに自分の子としたのです。8~10節。最後は、王女はイスラエルの人々とともにエジプト脱出の道を行くのです。
ここに神の計画があります。
ところでファラオの王女ですが、気まぐれか、人間的な資質が優れているのか、父の命令を知っていて、人権上許せないと思っていたのか。ユダヤ人の赤子であることを分かっていて助けたのですね。そこには、王女の侍女たち、側近たちの理解が必要です。成長するまで秘密は保たれたのですね。
エジプト王の娘という特権階級の王女が奴隷としているユダヤ人の子を助け、自分の子とする。普通ならありえないことです。差別も偏見もない。愛にあふれた女性です。父王が知れば、怒るでしょう。これこそが神の計画です。
3.ことば
最後に、3節の言葉を取り上げ、考察いたしましょう。
それは、「パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みに置いた」と言う言葉です。
じつは、ヘブライ語の言語で籠ということばですね。テヴァーです。この言葉は、創世記6章14節にある言葉と同じなのです。お読みします。
「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい」
ノアの箱舟、籠 同じ言葉テヴァーです。
出エジプト記の著者は、創世記6章にあるノアを意識しているようです。神の守り、支えがあるのです。
そこには、宇宙論的な神の救いの計画が示されています。今も各地で洪水が起こっています。地球温暖化による環境の大変化です。創世記では、神は人間はじめすべての被造物を滅ぼそうと決意されました。しかし、ノアとその家族だけはその正しい生き方のゆえに、生きながらえるように導かれたのです。地球そのものが崩壊していこうとする中で、神はノアに箱舟を造るように命じられました。人類を破滅から逃れる救いの舟です。40日40夜、雨が降り続け、地球全体が水で蔽われ、地上の生き物はすべて死に絶えたのです。しかし、ノアとその家族、あらゆる種類の番の動物たちだけが生き残った。地上を蔽った水の上を一艘の舟が漂うのです。それは、ひとつの宇宙船が無限にひろがる真っ暗闇の宇宙を漂うような寂寞感があります。そこには、孤独、寂寥感、寂寞の様です。しかし、神が宇宙の中心におられ、ノアたちの箱舟を守られておられるのです。
モーセ、生まれて3か月の赤子です。水が入って来ないようにアスファルトで塗られた籠に入れられたモーセは、あのノアの箱舟だと聖書は記すのです。生まれて3か月の赤子、この赤子にとってナイル川は宇宙です。どこに流されるか分かりません。どこへ行こうとするのか、水が入って来ないか。泣いてもすぐに駆け付け、抱き上げてくれる親はおりません。だれが赤子を守り支えてくれるのか。
そこには神の御手があるのです。神の眼差しがある。パピルスの籠は、神によって支えられた籠であるのです。あのノアの箱舟なのです。宇宙大の空間で箱舟を守られておられる。
そこにあるのは、いのち。
赤子のイエス様は、「馬小屋の飼い葉桶の中に寝ていた」とあります。
このパピルスの籠でふたつのことを想い起こしました。
ひとつは熊本の慈恵病院の院長が行った「赤ちゃんポスト」です。「こうのとりのゆりかご」と病院側は呼んでいます。望まない妊娠や生活困窮などに悩む女性らの受け皿となっており、預けられた赤ちゃんは養父母の家庭や児童養護施設などで育てられてきた。いのちを守る。
第二は、わたしの聖書学校の神学生時代のことです。日曜日の教会派遣先で求道中の青年がいました。彼は赤子の時に、池に捨てられていたのです。まさに赤子のモーセのように、ほうり込まれていたのです。池の中で泣き声がするのを通りすがりの人が聞き、そこで籠に入れられた赤子を発見したのです。
いろいろありましたが、かれは孤児院に入れられ、そこで育ちました。ほんとうにいろいろあったことでしょう。孤児院で成長し、中学を卒業して就職したのですね。孤児院の後援会の会長をしている人が会社を経営していて、そこに就職したのですね。クリスチャンでした。教会に一緒に来るようになりました。
わたしは神学生でしたが、求道者会をして彼の担当となり、いろいろ聖書の話をしました。そこで、このモーセですね。神は、あなたに大きなことを期待されておられると思いますよ。そのように言ったことがありました。喜んでいました。
神の守りと支えがある。これはすべての人に言えることです。こんな境遇なのに・・・?
こんな不幸に生まれたのに、どんな未来が、将来があるのですか? そのように悲観的に思っても、神はあなたを守り、導き、ご計画を持っておられる。そのように言うことができるのです。わたしたち、今の時代もなお、赤子のモーセはおり、パピルスの籠に入れられた赤子はいます。信じていきましょう。
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