2021年7月25日 聖霊降臨節第十一主日礼拝
『困窮する者を熱愛する神』
聖書:民数記12章3節、マタイによる福音書5章5節
潮先生からは、最初に自己紹介を自分のルーツも含めてするよう仰せつかっていますが、私は実は自分のルーツについてはあまりよく知りません。時間も限られていることですし、間違ったことを言ってもいけませんので、ごく簡単に触れさせていただくだけにいたします。むしろ後でどなたかご存じの方に何か教えて頂けるのではないかと、今日は密かに期待して参りました。実は私は、仙台青葉荘教会の流れに案外いろいろなご縁があります。
まず、私は釜石の生まれですが、私の父方の祖母は山形の山辺の出身です。あるいは、これだけでピンとくる方もいらっしゃるかもしれません。祖父と祖母はホーリネスの神学校の同級生だそうですが、その足跡についてはあまりよく知りません。ただ、私が子供の頃、父は機嫌のいい時に自分の幼少期の体験を語ることがよくありまして、そのいくつかは大変印象に残っています。例えば、これは祖父が既にホーリネスを離れた後のことらしいですが、釜石の目抜き通りで路傍伝道をする様子や、長屋の集会の様子、「イエス様はおめさんのために死んで下さったのでがすぞ」と祖父が言うと信徒の方が涙を流して畳を叩きながら「んでがす、んでがす」と応じるやり取りなど、その光景が目に浮かぶようで、大変面白かったことを覚えています。
もう一つのご縁は、私の師匠の木田献一です。私は元々アカデミズムに強い反感を持っていて、若い頃は山谷で活動をしたりしていましたが、ある時木田献一の「選びの信仰の起源」という論文を読んで、こんな聖書学なら自分にも受け入れられると感じて弟子入りしました。この論文は、学問的な手順を踏んではいますが、出エジプトの意義を国家社会に対する下層民による価値の逆転という角度から論じています。おそらくご存じのことと思いますが、木田先生の祖父は、1942年(昭和17年)6月26日のホーリネス一斉弾圧の際に逮捕投獄された木田文治です。その時孫の献一は中学生だったようですが、その日を境に世間の目ががらっと変わってしまい、教会員さえも手のひら返しを始めたそうです。そのこともあって木田先生は長い間、国家が絡んでくる事柄に対しては非常に慎重で、実は40歳を過ぎてから覚悟を決めて書いた「選びの信仰の起源」が新たな第一歩だったそうです。そしてこの論文をたまたま読んだ私も、それによって聖書研究者としての第一歩を踏む出すことになった訳ですが、木田先生は研究室で私と二人だけになると、このようなご自分の身の上をいろいろ語ってくれました。
ついでにもう一つ、私は川端純四郎先生の遺稿集『教会と戦争』(新教)の編集をお手伝いしましたが、この本の中の「合同のとらえなおしと日本基督教団の歩み」と題する講演記録のホーリネス教会の一斉弾圧に触れた部分に、「仙台でも、今は青葉荘教会という教団の教会ですが、そこの中島先生という方が逮捕されました」という一文があります(116頁)。ご存知の方も多いでしょうが、純四郎先生のお父様の川端忠次郎先生は、当時教団の東北教区で責任ある立場でしたから、純四郎先生はその事件を身近で見ていて、この本の中で当時の教団や教区の対応を批判的に論じています。
路傍伝道や開拓伝道にせよ、神ならぬものを神とすることへの断固たる拒絶にせよ、世間の視線や政府国家の介入に屈せず信仰を貫き通す姿勢に、私は人間として生きていく上でとても大切なものを感じます。それは単に教義や教理への誠実さと言うよりは、ある種の熱のようなもの、神に従うことへの情熱なのだろうと思います。信仰にとって、そして教会にとっては、理性的なものだけにとどまらず、それを超えて絶えず新たに湧き上がるこの熱こそ大切なものではないでしょうか。もっとも、これまでの教会の歴史を振り返ってみると、対立や分裂もまたこの熱の働きが関わってきたような気が致します。これはとても悩ましい問題ですが、私達に与えられた課題として受け止める必要があります。そこで今日は、この問題についても少し考えてみたいと思います。
出エジプト記20章5節、ここは所謂十戒の中ですが、神は「わたしは熱情の神である」と自己紹介をしています。ここで「熱情」と訳されているヘブライ語は、昔の聖書では「妬み」と訳されていて、しばしば説明が難しいとされてきた語ですが、20世紀の偉大なユダヤ人思想家であるマルティン・ブーバーはこの語を非常に重要視し、その理解は関根正雄や木田献一を通して私にも強い影響を与えております。私の理解では、「熱情」とは啓示の源泉であり、神の人間への熱愛、人間には到底測り知ることのできないその深みだろうと思います。ところが私達人間は、この啓示の深みを求める代わりに、しばしば人間的な感情に神を利用してしまいます。民数記25章には、ピネハスという男がミディアン人の女を連れているイスラエル人を見かけて追い回し、遂に女もろとも串刺しにしてしまった、という物凄い記事があります。これなどは、自分の嫉妬の感情に駆られた行動を神の熱情という概念によって正当化しようとした、典型的な例だろうと思います。私達は常に自己の心を見つめつつ、神の啓示の深み、熱愛の深みを求めていくべきなのです。それは必ずしも難しいことではありません。なぜなら、この神の熱愛は、端的にイエス・キリストの十字架に至る愛の道筋に示されているからです。
さて、今日お読み頂いた民数記12章3節には、「モーセという人はこの地上の誰にもまさって謙遜であった」と書かれています。ここは、モーセがクシュ(つまりエチオピア)の女を妻としていることで顰蹙を買い、苦境に立たされるが、神によって肯定される、という場面です。何か、先ほどのピネハスの串刺し記事を連想してしまいます。しかも出エジプト記2章21節によれば、モーセは元々ミディアンの祭司の娘ツィポラと結婚していました。
ところでここで「謙遜」と訳されているヘブライ語アーナーウの意味についてですが、これは根本的にはよく曲がるという意味です。そこから転じて腰が低い、物腰が柔らかい、あるいは無理に曲げられるという意味でいじめられたり抑圧を受けている、貧困の中で困窮しているなど、文脈によって様々な意味が派生し、訳し方もいろいろです。ただ、よく撓む枝は折れないと言われる通り、貶められながらもしたたかに振る舞うというニュアンスも響いてきます。更に、先ほど紹介しましたマルティン・ブーバーなどは、『神の王国』の第8章「神政政治について」の冒頭で、これの名詞形アナワーは「倫理的概念ではなく宗教的概念である」として、導き手である神への絶対的服従、そしてそこから真の王である神以外の何者をも主人と認めず服従もしないという一種逆説的な不屈性へと向かわせる概念であるとしています。そうすると、ここでの「謙遜」という訳語は、誤訳とは言わないまでも、誤解を招き易い訳語ということにはなるでしょう。なぜなら日本では、人の上に立つ者は常に人の模範となるように振る舞わなければならないという考え方があるからです。先日白鵬が優勝した後いろいろ言われましたが、相撲の世界で横綱に期待される風格や品格というのも、これと一脈通ずるものがあるのではないでしょうか。おそらく先程の民数記12章では、問題とされているのがモーセの指導者としての資質なので、「謙遜」という訳語になったのだろうと思いますが、ブーバーのこの説明によるとかなり違ったモーセ像になってしまいます。「不屈」とでも訳しましょうか、元来の意味とは真逆ですが。もっとも、私はこの個所には以上述べた様々な意味が響き合っているように感じられるので、一旦別の文脈でのこの語の使われ方を見てみましょう。
詩編37編11節は「貧しい人は地を継ぎ」と述べていますが、ここで「貧しい人」と訳されている語は先程から問題にしているのと同じ語です。この詩編は、迫害や抑圧の中で作られた「ハスィディーム詩編」と呼ばれる詩編の一つですが、ハスィディームとはこの詩編の28節に言及されている「主の慈しみ(つまりヘセド)に生きる人々」、主に頼る以外に生きるすべのない人達のことです。ここでは、そのような苦しみのどん底で弱り切っている人達こそ地を継ぐ、つまり主に肯定され嗣業の地を与えられる、と言うのです。
先ほどお読み頂きましたマタイによる福音書5章5節「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」は、まさにこの詩編の引用です。ここで主イエスが説いているのは、貶められ苦しめられている人々に対する神の肯定、そして迫害や抑圧に対して怒って正面からやり返すのではなく、したたかにやり過ごしながら神の慈しみを信じてひたすら時を待つ、待望の生き方です。とすれば、前に戻って民数記12章3節のモーセを表わすアーナーウにも、このような響きがあるのではないでしょうか。つまり、苦境に立たされ、人々の非難を浴びながらも、耐え忍び、粘り強く説得しながら神に委ね、神に信頼して時を待つという生き方です。
聖書の示すところによれば、神は決して公平な方ではないようです。神は苦しみの中にある者を熱愛し、弱り果てご自分の慈しみにすがるしかない者と共にある。神は困窮する者の傍らに立っておられる。今、私達は新型コロナの蔓延という未曽有の困難の中にあります。それによって、今まで経験したことのない新しい生活様式に直面して、当惑し、またそれに合わせられずに困り果てておられる方も多くおられます。その一方で、一部の政治家の言動や政府の最近の動向に、何か戦前の気配のようなものを感じることもあります。私達は、油断なく時代のしるしを注視し、この苦境に賢く対処し、次々に降りかかる問題をしたたかにやり過ごしながら、苦難を耐え忍び、神の御計らいに望みを託して歩み続けたいと思います。
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