2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝
聖 書 ルカによる福音書20章20~26節
説 教 教会と国家
クリスチャンは二つの国を持っています。二重国籍ですね、
ひとつは現実の国家です。わたしたちは日本で生まれた日本国民です。日本人であります。
同時に、わたしたちは神を信じている者として、神の国にも属しています。キリスト者です。神の国は、愛なる神の祝福と永遠のいのち、救いに満ちた喜びの国であります。
聖書は、「わたしたちの国籍は天にある」と記しています。(フィリピ3:20)
教会は、神の国のひながたと言われています。教会という現実の信仰生活から神の国へ通じるいのちへと移されるのです。キリスト者として天にある都、帰るべき都としてわたしたちが目指す終着点であります。ヘブライ人への手紙11章13、16節では、「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であること」「天の故郷を熱望していた」とあります。
地上の国と天の国。
どちらがよいか。二つは、矛盾するものではありません。対立するものでもありません。一方を憎み、一方を愛するものでもありません。
また、それぞれにおいて、恩恵と責任を負っています。義務ですね。
国は法律で国民を守ります。財産といのちです。基本的人権を保障します。教育、医療、老後の保障などです。それに対して、わたしたちは労働すること、税金を払うことを通して国家建設の一員として励むのです。
神の国は、神は永遠のいのちを与え、救いと祝福を約束されます。教会は神の国のひながたとして、キリスト者は神の国のための奉仕、献金、献身、伝道をするのです。
しかし、教会と国家はいつもよい関係を持っていたというわけではありません。時に対立し、敵対関係を持っていたこともあったのです。
国家は自分の利益のために国民を支配し、圧政を敷くこともあります。この場合は、国家というよりも支配者、統治者と言った方がよいでしょう。国民全体の福祉のためではなく、一部の支配者、権力を持つ者が自分とその親族の利益、安定、権力維持のために国民を犠牲にする国家です。
自分たちの安寧を破る者、反抗し、批判する者に対して容赦ない攻撃を加え、弾圧や迫害、粛清を行います。専制主義、プロレタリア独裁、軍事独裁など歴史的に現れています。北朝鮮や中国と香港の問題、イラン、一部のアフリカ、東南アジア諸国では今もこうした独裁軍事政権が国民を支配し、圧迫しています。
イエス様の時代、聖書の書かれた時代はどうだったでしょうか? 本日の聖書です。
20章20節以下を読みましょう。
そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
ここでは、二つの問題があります。
1.罪人は群れる
20節「言葉じりをとらえて、総督の支配と権力にイエスを引き渡そうとした」とあります。<機会をねらっていた彼ら>とは、19節の律法学者たち、祭司長たちです。宗教指導者であり、教育者です。人々に尊敬され、権威を持っていました。マタイの福音書22章では、ファリサイ派とヘロデ派の人々がイエス様を罠にかけようと話しかけるのです。ヘロデ派とは、愛国主義の一種で、反ローマを掲げていました。ユダヤの独立を志向する一派です。ファリサイ派とヘロデ派は互いに対立していたのですが、イエス様を敵とする点において一致したのです。「敵の敵は味方」と見做します。政争です。悪は悪のために、悪と手を結ぶのです。それは、罪も同じです。罪は、一度罪に陥ると、みさかい無しに落っこちます。ついに正義や光を憎むようになります。
イエス様の裁判の時にも、似たようなことが起こります。ルカ23章12節
「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」
2.皇帝のものは皇帝に
どちらも、イエス様が邪魔であり、自分たちを危うくする存在でした。律法学者と祭司長たち、ファリサイ派とヘロデ派がイエス様の足を引っ張り、罠にかけようとしたのは、税金のことでした。これが二つ目です。
当時、イスラエルはローマ帝国によって支配されていました。ローマの権力の意向に逆らわない限り、平和はありました。その第一は税金を納めることです。
税金はいつの時代、どこの国においても国家建設のための必要事項です。当時、ローマが征服した国に課した税金は三つあると言われます。第一は、地税でこれは穀物や農産物の税です。日本でも租・庸・調の三つがありました。二つ目が所得税です。収入の1パーセントでありました。三つ目が人頭税で、14歳から65歳までの男子と、12歳から65歳までの女子が納めるもので、その額は一デナリです。一デナリは当時の労働者の一日の賃金に等しいと言われます。
今の日本の税制はどうでしょうか? 所得税、県民税・市民税、介護保険料という税金、消費税、そして間接税ですね。ガソリンやたばこ、酒、米などに税金が課せられています。
ここで問題になっているのが、人頭税です。律法学者たちの質問は、イエス様を窮地に追い込むものでした。もしイエス様が税金を納めなくてもよいといえば、ローマに対する反逆として律法学者たちはイエス様を訴える口実となるのです。また、納めることが必要だと言えば、イスラエルの民衆の人気を失うことになります。
どちらにしても、律法学者たちはイエス様を目の上のたんこぶ、自分のたちの平和と秩序を乱すものとして追い落とすのは狙いだったのです。そこでイエス様の言葉。
23節以下
イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
当時の銀貨は、皇帝の肖像が刻まれていました。そして、コインには「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カエサル」と銘記されていました。神なる皇帝と刻まれたコインを使用することさえ、ユダヤ人の多くは屈辱でしたし、神の像を刻んではならないとある十戒の第2戒に違反する罪として、コインに触れることさえも罪としていたのです。
3.神のものは神に
わたしたちは、この世に生きている間は、この世の法則、法律や規定に従わねばなりません。それが「皇帝のものは皇帝に」の精神だと思うのです。しかし、神の国に属する者として「神のものは神に返す」ことが必要なことがあるのです。
それは具体的に何を指しているのでしょうか? イエス様は明確に仰りません。聖書も明記しません。しかし、聖書全体を通して、福音書を通して語られたイエス様の言葉を通して、わたしたちは理解し、推察することが出来ると思います。
いのちは神からいただいたもの、すべては主のものとの告白をしています。それに相応しく行動し、神に答えて行くことができるのであります。
本日は、「教会と国家」と題した説教です。「教会と国家」は緊張した関係であり、同時にキリスト者としても国民としても責任と義務を負う関係でもあります。しかし、本質的にキリスト者は、ある意味では国家を超越した存在でもあると思います。それは、わたしたちの「主」は、キリストにあるからです。キリストの支配にある。これが教会でもあります。
支配と申しましたが、支配とは何か? 国家の支配は、力です。権力ですね。従わないものには、力でかかってきます。しかし、キリストの支配は愛であります。霊的なもの。ですから本当の意味では、支配ではなくて、服従、従順なのです。キリストがそうであられたように、わたしたちも従順なのです。神に従うという信仰です。
しかし、条件があります。キリストへの信仰が脅かされるという時がきたらどうするか、という切羽詰った問題が生じる時があります。
戦争中、キリスト者は踏み絵を踏まされました。宮城遥拝、天皇の写真(ご真影)に対する敬礼、靖国参拝などを強制しました。聖日礼拝の前に、それをしなければ教会として認められなかったのです。権力に対する恐れからです。
日本は韓国・朝鮮や中国、台湾、東南アジア諸国に対しても、この方針を貫いて、占領地に天皇支配を明確にしました。まさしく、皇帝の肖像、銘が印されているコインを強制したのです。
それに抵抗した韓国の教会、中国の教会は徹底的に弾圧、迫害されました。多くの殉教者が出ました。しかし、日本の教会は無力だったのです。それでも、日本の教会でも弾圧された教会がりました。それはホーリネスの教会です。264のホーリネス系教会が解散処分になり、134人の牧師が検挙・逮捕されました。そのうち、7名が死亡したのです。ひどい拷問に遭って亡くなったのです。
戦後、教団の議長になった鈴木正久牧師が「第二次大戦下における日本基督教団の戦争責任告白」を作成しました。1967年のことです。これは大切な告白だと思います。この一部を紹介します。
第二次大戦下における日本基督教団の戦争責任告白
「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うと共に、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、また我が国の同胞に心からのゆるしを請う次第であります。
地の塩、世の光の役割としての教会、それは同時に見張りの役割を持つということです。預言者的な使命です。教会が託されている使命です。これがなくなったら、塩の役目をなくしたものだと主イエス様に叱責されると思います。
見張りの役、預言者の使命とは何でしょうか?
神の言葉の取次ぎです。神の言葉を宣べ伝えることです。基準は聖書です。自分の意見や思想ではない。神の言葉を伝えることが必要です。
教会はそのように立つところに、見張り役、世の光、地の塩の役目が果せるのです。
いつも目を覚まして、キリストの愛の支配と神の国を待ち望む信仰を持ち続けましょう。
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