2021年6月13日 聖霊降臨節第4主日礼拝

2021-0613-Shyuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙321~26

説 教  神の恵みの決意

1.神の祝福-神と共に生きる幸い

   仙台青葉荘教会は、教派的には「ホーリネス」で流れにあります。そしてホーリネスの信仰の源流はメソジストです。メソジストとは、几帳面とか規則正しいという意味です。メソジストの創設者であるジョン・ウェスレーは、神と共に生きることが一番の祝福であると申しました。神の臨在を求め、神と共に生きる。これこそが、人間としての最大の幸福、祝福であると言うのです。

人生の目的は神を捜し求め、神を見出し、神と共に生きると言っても過言ではないと思います。

わたしはこれを家族の幸せに喩えることができると思うのですね。家族が仲良く暮らし、合い和し、尊敬しあい、助け合い、愛をもって暮らす。そのような家族、家庭環境があると一家の構成員は幸せです。とくに、子どもは夢をもって生き、豊かに成長します。

教会は神の家族と言われます。この世の家族、と申しますか、肉の家族のように家族的である。ある意味では、この世の家族、肉の家族よりももっと家族的である。それが理想であります。なぜなら、信仰によって結ばれ、神が親であり、キリストが長子である神の家族だからです。神が中心であり、愛によって結ばれた家族です。教会はそのような家族でしょうか。

 しかし、この世の家族が分裂し、家庭崩壊に向かっているのは、最近頻繁に起こる事件のニュースで判ります。親殺し、子殺し、夫殺し、妻殺しのニュースが聞かれない日はないというほど、現代は殺伐としています。

また、家庭が崩壊するだけでなく、地球環境自体が崩壊しかかっております。地球温暖化の問題ですね。環境が変わってきているのです。このまま地球の温度が2度上がれば、北極や南極の氷が溶け、海面が上昇していく。日本の国土の多くが水没すると海に悲観的な物言いかもしれませんが、人間の営み自体が壊れかかっているのです。

聖書は、その原因を端的に言い表しています。神との正しい関係が絶たれ、壊れたからであると記します。

3章23節

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」という言葉ですね。

神の栄光を受けられなくなっているとは、どういう意味でしょうか。神のかたちとして創造された人間は、その堕落と罪のゆえに、神の栄光を現すことができなくなった。むしろ、神に造られた栄誉を汚している。ふさわしくない。そのような意味であります。

 2.不安の人生

  それは、エデンの園を追放された人間の不安と絶望から生じたものです。

 創世記のアダムとエバの話しは皆さん、よくご存知のことです。人間を創造された神は、エデンの園に人間を置かれました。創世記2章8節です。

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。

そして、15節

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 しかし、神の禁止事項を破り、人間は木の実を食べてしまうのです。善悪の知識の木とか命の木について、いろいろ注釈がありますが、神が言われたことに従わなかったことが

罪のはじめであります。そして、罪をなすりつけあうのです。

キーワードは、不従順、エゴイズム、そして罪であります。それがわたしたちの社会の現況であります。神との正しい関係を見失った時に、人はめいめいが好き勝手な人生を歩むのです。「バベルの塔」がその例です。目標と生きる目的を失った人間が辿る道は、エゴイズムしかありません。神の栄光ではなく、自分の栄光を求め、欲望を満足させ、達成しようと躍起となるのです。

関係の修復する道はあります。何でしょうか?

謝罪です。「ごめんなさい」と謝ることです。心から謝るのです。それが悔い改めです。心から悔い改め、謝罪すると、「いいよ、仲直りしよう」と相手は言ってくれます。関係が修復されるのです。

神の立ち返ることです。神との交わりの回復です。

しかし、神との関係において、人間のエゴ、自己中心性は、「ごめんなさい」と言うこともできなくなっているのです。むしろ、頑なになって神に対して不従順であり、背き続けているのです。まさしく、壊れかかっているのです。

 そうして、わたしたち人間は、神から離れ、孤独であり、苦しみ、飢え、迷い、疲れ、悲しみ、虚しさ、そういう罪と闇の中にうごめいています。

 そこに待ち受けているのは、神の栄光ではなく、滅びです。

 一体、わたしたちに救いはあるのでしょうか。誰がこの惨めな現況から救い出してくれるでしょうか。

3.義とする神の恵み

 そうです。救い出してくれる方がおられるのです。その方は、イエス・キリストです。 神は愛の神です。人間の滅びを黙って見つめ、「ほら見ろ、言わんこっちゃない。わたしの言葉に背き、わたしに従わなかった罰だ。徹底的に滅ぼしてやる。地獄に葬り去ってやる」と怒りと裁きの気持ちを表して、人間を滅びと死に追いやる神ではありません。人間の悪と罪に報いて、滅ぼすような神ではないのです。

 むしろ、人間を憐れみ、手を差し伸べられて助け、救い出そうとされる。ただ、そのことのみに関心を持っておられる。これがわたしたちの信じる神です。

 そのことを神の義と申します。これは、法廷用語です。裁判用語ですね。義とされる。本来、救われるはずのない者が、神の特別な恵みのうちに無罪とされ、放免される。

 21節から読みましょう。 

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

4.キリストを通して-神の恵みの決意

 人間を創造されたのは、神ご自身です。創造された神の名誉のために、罪を犯した不従順な人間を生かそうとされるのです。

 神は、人間を創造された。人間の放埓、不従順、戦争、憎しみ合いから発する殺戮、環境破壊、温暖化など人間のあらゆる罪の結果として、今まさに人間自体が自滅しようとしています。もはや、人間自身ではいかんともしようがないのです。

 神は任命責任者であり、創造の責任者として、人間と被造物すべてを救う手段を講じられました。

 イエス・キリストです。キリストはいのちの君、生ける水として、わたしたちの魂を新しくされます。甦らせてくださるのです。再創造です。2コリント5章17節

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

キリスト者とは、神の栄光を受けられなくなった人間が、新しく創造された者として、神の栄光を現す者に変えられたことを言うのです。

 18節

これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 わたしたちは、使者として特別の任務を与えられたのです。使者とは全権大使です。キリストの主権である「神の国」の市民として、大使として、世に遣わされる。これがクリスチャンです。日々の生活が見られているのです。

 栃木県の教会にいた時のことを思い出しました。つまりこういうことです。もう15年ほど昔のことになります。そのとき、犬を飼っていたのです。島先生も犬を飼っておられましたが・・

 毎朝5時前に起きて、会堂で聖書を読み、祈っています。神学校に入学して、この習慣は続いています。40年です。勤行ですね。寺のお坊さんがお経を読む。牧師は聖書を読み、祈ります。その後、犬の散歩に行きます。決まった時間なので、よく散歩する人たちに出会います。ほとんどが犬の散歩です。挨拶します。犬と飼い主、よく似ているなあと思います。

 あるとき、農家の方と挨拶しました。その方も犬の散歩です。田んぼのそばの大きな家から出てきます。

「牧師さんだね?」と訊かれました。

「そうです」と答えます。

「うちの孫が幼稚園にお世話になっていたんだ」

それから、幼稚園や教会のことを話しました。遠くから見ているけど、無関心ではないのですね。見られているのだと思いました。

犬のことで、話が進みます。教会の犬として、子どもたち、教会の前を通る小学生、幼稚園生が犬のことを知っているのです。教会の犬として、証をしている。そう思いました。

わたしたちも、見られているなあと改めて思いました。

「牧師さんだね?」

そのように、見られているのだと自覚しました。

今、仙台青葉荘教会は立派な会堂が建ち、通りを歩く人は教会を見ています。大きなもみの木。時に流れるパイプオルガンの音。バラの花。ときに、写真を撮るかたもおられます。

 わたしたちは、近所の人たちにあの人は、日曜日に教会に行っている。クリスチャンだと見られています。恐れおののきつつ、神の栄光を現すように努めていきましょう。




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