2021年5月16日 復活節第7主日礼拝

2021-0516-Shyuuhou

説 教  神の真実

聖 書  ローマの信徒への手紙3章1~8節

 1.対面での礼拝再開の感謝

 週報にも記していますように、2021年3月21日から宮城・仙台において新型コロナウイルス感染緊急事態宣言が発令されました。まん延防止等重点措置も講じられて、礼拝の再開を延期していました。まん延防止等重点措置が解除されてようやく礼拝再開することができ、本当に感謝です。休会中はネット配信をしていましたが、ネット環境のない兄弟姉妹もいらっしゃり、ご不便だったと思います。3密を避けて分散礼拝ですが、こうした礼拝をなお継続していくことになろうかと思います。分散もなく、コロナ禍の前のように、皆さんで一同に会しての礼拝ができるように、コロナが収束することを願ってやみません。

 さて、2月21日からレント、受難節に入り、ヨハネによる福音書18章から21章までを説教してまいりました。主イエス・キリストのご受難、十字架と復活の聖書の箇所でした。

本日より、レントの前までに、連続講解説教してきましたローマの信徒への手紙に戻ります。

2.再びユダヤ人と律法

本日の聖書は、ユダヤ人と律法の問題がテーマであります。2章の後半ですが、ユダヤ人のユダヤ人たる律法の問題です。基本的にユダヤ人の特長は何かと申しますと、それは律法が神から与えられたことであります。律法とは、規則ですが、もっと本質的には、神の言葉である聖書なのであります。

1節にある通りですね。お読みします。

では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。

神の言葉とは、聖書そのものです。このローマの信徒への手紙が書かれた時代は、聖書とは旧約聖書を意味します。まだ新約聖書はありませんでした。旧約聖書ですね。その中心は十戒であり律法です。その律法の中心は何でしょうか。

神の愛であります。昨年度の仙台青葉荘教会の標語聖句に掲げられました。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい。

また、隣人を自分のように愛しなさい。(マルコ12章29節以下)

神の愛によって生かされている。これが聖書のエッセンセスです。本質であり真髄、中心なのです。

しかし、ユダヤ人はその本質を棚上げにして、形式的なこと、形だけのことを本質と取り違えたのです。重箱の隅をつつくとは言いませんが、神の愛をなおざりにして、人間を攻撃する手段として律法を持ち出してくるのです。そして、自分を誇りとする。律法を守っているという自惚れ、高慢、高ぶりがファリサイ派の人たちです。守れない人たちは罪びととして攻撃し、見下すのです。

そのひとつが割礼であり、安息日ですね。安息日については、イエス様はファリサイ派の人たちに攻撃されました。安息日に人をいやしと安息日を守っていない。神を冒瀆していると攻撃されるのです。いま、ここでは、割礼の問題が提起されているのです。

2章28節以下で

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく““霊””によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

と記します。これは、ガラテヤ6章15節で結論として断言しているのです。すなわち、

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

 あなたは神にあって生きているかが問われているのです。つまり、あなたは聖霊によって生まれ変わっているか? 新しく創造された者として生きているか? 聖霊に満たされているか? 

律法を守ること、割礼を受けることは信仰的には本質的なことではないと聖書は言うのです。しかし、3章に来て、パウロは改めて、律法とユダヤ人の問題を取り上げてくるのです。

先ほどお読みしました。1節、2節です。もう一度お読みします。

では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。

3.ユダヤ人の選び-ゆだねられたことの恵み

この「ゆだねられた」ということが、ユダヤ人の特性、特別な恵みなのですね。

わたしたちは聖書を読みます。旧約聖書と新約聖書があります。新約聖書はイエス様に関する記事です。わたしたちの救い主、十字架にかかられ、その死によって、わたしたちにいのちと救いが与えられる。その教えの書であります。

旧約聖書は、ユダヤ人の歴史がおもな書物です。律法の授与はユダヤ人の救いのしるしなのです。なぜ、それを日本人であるわたしたちが読み、学ぶのか? ユダヤ人が神に救いのしるしである律法をゆだねられた民であるからです。選ばれた民です。そのユダヤ人から肉によれば、イエス様もお生まれになったのです。

この「ゆだねられた」という言葉は、信任された、信頼されたという意味があります。信託と訳すこともできます。わたしたち現代人が持っているクレジットカードですね。このクレジットという言葉でもあります。クレジット決済ができるほどカード会社はあなたを信用していますよという意味です。現金の代わりにクレジットカードで商品を買うことができるのです。

神様の信用があるからこそ、神の言葉をゆだねられたということです。神とイスラエル民族との深い信頼関係があるのです。

戻りますが、選ばれたことは名誉なことです。特権とも言ってもよいでしょう。神がいつも共におられて、守り導いてくださっておられる。これが創世記や出エジプト記の記事であります。その中から、律法と十戒が与えられたのです。選びは同時に、それに対する責任もあります。ゆだねられた者の責任があるのです。優越感に浸ることは許されません。ユダヤ人は選びのゆえに尊大になりました。驕り高ぶり、他民族に対して優越感を持ったのです。

ユダヤ人以外を異邦人として差別し、律法なきもの、神の祝福から除外されている者、呪われている者としていました。自分たちの救いだけに自己満足していたのです。

しかも、同じユダヤ人でも先ほど申しましたように、逆差別、身内同士の差別、偏見があるのです。

今の時代、ヘイトクライムという言葉があります。日本では中国人、韓国人など異なる人種に対する憎悪的な差別語。イスラム教、仏教、キリスト教の宗教、性的指向などの偏見、差別個人や集団に対する偏見や憎悪が元で引き起こされる、嫌がらせ、脅迫、暴行等の犯罪行為です。また、ハラスメントという言葉がよくつかわれますね。

ハラスメントの定義

他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること。

パワハラ(パワーハラスメント) 職場内虐待の一つ。職場内の優位性を利用した、主に  

社会的な地位の強い者による、「自らの権力や立場を利用した嫌がらせ」

セクハラ(セクシャルハラスメント)相手が不快に思い、相手が自身の尊厳を傷つけられ 

たと感じるような性的発言・行動。男女間、夫婦間のいやがらせ

アカハラ(アカデミック・ハラスメント)  研究教育の場における権力を利用した嫌が

らせ

 モラハラ(モラル ハラスメント)

 ドクター・ハラスメント、パスターズ・ハラスメント

 ヘイトクライムのこと

  コロナ禍の中で、アメリカ合衆国のニュース

 アジア系の人たちが中国人、日本人、韓国人などアジア系が暴力を受けている動画がニュースとで映し出されました。女性、高齢者のアジア系の人たちが暴力を受けているのです。

日常的に虐待事件が発生しています。ひどいニュースは、3月18日アトランタで韓国人6名が21歳の白人青年に銃撃され犠牲になりました。

 福音書を読みますと、ファリサイ派の人たちは日常的にと申しますか、とくにマタイによる福音書は全体を通してこのハラスメントを行っています。律法に関して、ですね。律法を

破っている。神を冒瀆していると。(ちなみにヨハネによる福音書はファリサイ派の中にも回心者がいることを伝えています。ニコデモ、アリマタヤのヨセフです)

 それは神にとっては不誠実となります。律法を守っていると言いながら、実際は律法の中心である愛とあわれみが欠けているからです。

詩編51編にあるように、18節以下

もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。

 形式的に律法を守ることを戒めておられるのです。自分を義とする内容の伴わない礼拝ではなく、打ち砕かれた霊と祈りの心をもって神を礼拝すること。神が求めておられる礼拝です。そこに「心と尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する」という律法のエッセンスが全うされているのです。

4.神の真実

ユダヤ人は神の恵みを受け、愛されましたが、十分な責任を果たしませんでした。しかし、そのゆえに、神の誠実さ、神の真実が無になったわけではありません。むしろ、ユダヤ人の不信仰であろうと、不誠実であろうと、神の救いの計画は達成されたのです。それが神の真実なのです。すなわち、イエス・キリストを通して、キリストを信じるすべての人に救いと恵みがもたらされたのです。これこそが、神の真実であります。

神の真実があることを信じていく。信頼です。神が御独り子、主イエス・キリストを賜るほどに、わたしたちを憐み、愛してくださった。そのことが神の真実としてわたしたちに約束された恵みなのです。御子イエス・キリストの十字架によって、神の栄光が現され、神の真実が全うされたのです。

その神の真実に、わたしたちは甘えることをしてはならないのですね。罪をより多く赦された人は、より多く愛するとイエス様は言われました。

ルカ7:47節です。

この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

今日、わたしたちは、コロナ禍の中で、主のみ前に来て、新年度初めての礼拝を献げています。 わたしたちの献げる礼拝が、真に神のみ前で霊的であるか。

霊とまことをもって、礼拝しているか。神の御前で打ち砕かれているか。そして、人々の間で、教会の交わりの中で、謙遜でいるか。愛と憐れみをもって、互いに祈りあっているか。

それを問いつつ、神の御前で頭をたれましょう。

祈りと讃美を高らかにしましょう。




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