2021年4月25日 復活節第4主日礼拝

2021-4-25

聖 書 イザヤ書57章14~21

説 教 回復といやし

 

歴史の支配者、統治者としての神

『天地創造の神は、歴史を支配し導かれる。人間の創造から現代に至るまで』

先週は、バビロン捕囚とその後の歴史について説教しました。イザヤ書40章以降に表されている内容は、バビロン捕囚後の解放とエルサレム帰還、神殿の再建に関することです。神はペルシア王キュロスを起こして、バビロンを首都とする新バビロニア帝国を滅ぼし、捕囚の民ユダヤを解放、エルサレム神殿の再建を許しました。(44章24節~45章7節)

エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い、ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃虚を 再び興す。深い水の底に向かって、乾け、と言い、お前の大河をわたしは干上がらせる、と言う。キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う。

主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。

 戦争歴史は繰り返しです。新しい武器が開発され、それを使用することにより多くの敵の軍隊を殲滅します。殺戮、破壊、占領、そして捕囚です。そこには弱肉強食の世界があります。軍事力に長けた国、民族が歴史の担い手となるのです。征服による力の平和がもたらされる歴史です。ローマ帝国がその例ですね。「パックス・ロマーナ」といい、覇権による世界帝国は平和をもたらしました。ソ連、アメリカ。原爆、水爆の開発。いまは、人口衛星による攻撃。科学の発達と共にとめどなく殺人兵器が開発されていきます。

 しかし、神のご計画は、このちからによる歴史ではなく、愛とめぐみによる平和の歴史の創造にあります。

「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカリヤ書4章6節)。ゼカリヤは、捕囚後の預言者です。

 

 2.神の方法がある

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55章8,9節)

天地創造の神は、人間の思いや能力をはるかに超えておられます。歴史の創造においても、わたしたち人間の進む道も神のご計画にあるのです。

 神の方法は「贖い」です。贖いには犠牲(いけにえ)が伴うのです。

 

  3.贖い

 バビロニア軍の破壊は悲惨を極めます。何よりもエルサレム神殿の崩壊は、ユダヤ民族の信仰と誇りをずたずたにしました。国家と民族としての拠り所である神殿が消滅したのです。立ち上がれないほどの絶望と苦難の日々が70年に亘って続きました。

荒廃し、焼け野原状態となったエルサレムの街は、現代では、中東の内戦により破壊されたシリア、東日本大震災の大地震、大津波によって破壊アされた街を見るような状態でしょう。

 この間の事情は、哀歌、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、12小預言書の後半の預言書に記されています。

 ユダヤの民のこころと精神は徹底的に砕かれました。貧しく、顧みられない。ほかの民族からは軽んじられ、嘲られてきたのです。

 ユダヤ民族は、この捕囚の出来事を神の怒りと裁きによる鉄槌がくだったのだと理解しました。自分たちの罪と不信仰による神の裁きだと。

 しかし、ずたずたに心を裂かれたユダヤの民を神は憐れまれるのです。まさに憐れまれたのです。憐れみとは、腸(はらわた、内臓)をいためるような感情を言います。徹底的に打ち砕かれて震えおののく民に神は憐れまれたのです。そして、民を慰め、赦し、和解の御手を伸ばされるのです。

ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが

深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す

              (54章 7節)

 神の憐れみからくる神の慰め。イザヤ書40章以降には、「慰め」の言葉が溢れます。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(40章1節)

「主はご自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」(49章13節)

「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51章3節)

「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」(66章13節)

 神は慰めに満ちた神となられたのです。それは同時に、神の赦しでもあります。

裁きと赦し、神の聖なる御名において、神が選び、導かれたアブラハム、イサク、ヤコブの子孫に対し、彼らに約束された神の言葉を果たされるのです。「あなたを祝福する」という創世記から続く神の約束です。

 それは選びの回復ですね。神はもう一度、イスラエルを祝福されるのです。

 

 4 贖い主

 神はご自身を贖い主をとして啓示されます。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は

イスラエルよ、あなたを造られた主は

今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(43章1節)

「わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる神」(47章4節)

「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」(54章 8節)

贖いとは・・・

 もともとの意味は、人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すことです。ルツ記

また、身代金を払って奴隷を自由にすることを言います。

神とイスラエルの民はアブラハム、イサク、ヤコブの神としてご自身を啓示されて以来、愛と信頼によって結ばれた深い関係でした。神はイスラエルを特別な選ばれた民として祝福をされていたのです。しかし、偶像礼拝や正義、公正からイスラエルの民は、罪を犯し、神から離れたのです。その罪の裁きがバビロン捕囚でした。

余りの厳しい懲戒のゆえに、神はイスラエルを憐れみ、慰めをもって回復へと導かれたのです。

 イスラエルの民はバビロンで捕囚となっていました。奴隷状態から解放し、自由にされたのです。そのことを贖いと聖書は言います。バビロンの奴隷から買い戻されたのですね。また、罪の奴隷であり、サタンの所有物となってしまったイスラエルを神は買い戻し、神のものとされたのです。全能の神、万軍の主、聖なる神、創造主じきじきに働かれた。

神のもの。神のしもべ 永遠のいのち 神の恵みと祝福に入れられる。

 贖われたイスラエルは、神のものとされたのです。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

買い取られ、贖われたのです。その現実、結果は、回復といやしです。

 ユダヤの民は、まさしく15節にある通りでした。

打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。

 まさに、打ち砕かれ、へりくだったのです。捕囚によって、神の怒りの鉄槌によって、裁きによって打ち震えて、ずたずたになっているのです。

 皆さん、親の叱責に泣きじゃくる幼児を、見たことがおありでしょう。あるいは、幼児の時にその経験があったのではないかと思います。

また、自分の子でも近所の子でも、仲のよい親子がある時、子が過ちを犯した。

親の言うことに従わなかった。激しい怒りを表して叱りつける。言葉で、あるいは、お尻を叩くとか、昔ならほっぺたを叩くこともありましたね。折檻です。

子は、思い切り泣きます。この世も終わりかと思うほど、引きつるほどにひくひくしながら、涙を流し、泣きわめく。そういう経験です。

 イスラエル、神からそのような、それ以上の厳しい折檻、懲罰を受けたのです。

世の終わりのような身もだえする苦しみ、痛みを表しました。ずたずたに引き裂かれているのです。砕かれるとは、高ぶりの反対です。

高ぶりとは、自分でできる自己完結です、神の助けは必要なし、自分の能力、知力ですべてを解決するという自信。

一方では、自分では何もできない。神がいてくださらなければ生きていけない。

立ち直れない、苦しい、痛み、起き上がれない、無力、むなしい。まさにズタズタになっている状態です。自分のちからではどうしようもない。神様の助けと支えが必要だと助けを求めるのです。

 神は助けと支えを用意されている。それが信仰、信頼、従順へ神は憐れまれる。神の聖なる名のゆえに。神が贖われたゆえに。

  無から有へ 献身へと導かれる。神の栄光を現すために。

神はその姿を見て、赦したのです。憐れみを持たれ、贖われたのです。

 傷ついた魂にとって、一番の慰めは何でしょうか。「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」という言葉です。赦し、和解のことばです。神じきじきの償いがある。

 

5.回復といやし

 傷ついた民のいやしとイスラエルの回復は、同時に現代のわたしたちに通じることです。

コロナ禍で傷つき、さまよい、どうしたらよいか右往左往する世界の中で、神は解決を示される。回復へと導かれる。傷ついた人をいやし、慰められる。

 その信仰です。神は贖い主として、世を救われる。わたしたちは、キリストに贖われた者です。キリストのものです。神は最善を与えてくださるのです。

贖いの究極の姿 いけにえ

 聖書において現わされた贖いの歴史

 ①創世記22章12節 イサク奉献 「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。

 ②イザヤ53章 主のしもべ

③キリストの十字架

神が人となられた。しかも、貧しい者、無力な方として、来られた。そして、十字架につけられた。侮辱され、殴打され、鞭うたれ、嘲笑され、見るも無残なあり方です。神の子が非道な仕打ちをされた。それをイエス様は甘んじて受けられたのです。それは、父なる神に対する従順さです。弱さを身にまとわれたこと。謙虚さの窮み。見るべき面影がなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。打ち砕かれ、懲らしめられた人の姿。まさに、イザヤ53章の世界です。

 わたしは神のものとされた。

 キリストの十字架の死において、贖われ、永遠のいのちを与えられている。

 回復といやし、平和を与えられている。先取りの信仰です。




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