2021年4月4日 復活節第一主日礼拝 イースター

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聖 書  ヨハネによる福音書20118

説 教  復 活

 先週、わたしたちは受難週を過ごしました。イエス様は金曜日の午前9時に十字架にかけられ、午後3時頃に息を引き取られました。ユダヤの暦では日没から一日が始まります。ですからイエス様の死からまもなく、日没になると二日目の土曜日、安息日が始まったのです。その日没前、安息日が始まる前に、アリマタヤのヨセフがピラトの許可を得て、急いでイエス様のご遺体を十字架から降ろし、亜麻布に包んでイエス様のご遺体を墓に納めたのです。

1.からの墓、走り

20章に入りますと、1節「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」とあります。

 「そこでマリアはペトロのところとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた」のであります。何を告げたのでしょうか。

 2節の後半です。

「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」

 すでに、マリアはイエス様のおからだが消えていたのは分かっていました。しかし、マリアはまだイエス様が甦られたことを理解していなかったのです。誰かが盗んで運び去ったのか、別のところに保管したのかと思ったのですね。

 マリアの言葉を聞いて、ペトロともう一人の弟子は、外に出て墓に向かいます。

4節「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に着いた」のです。

 何と、週の初めの日の朝早く、空の墓をめぐって3人が走るのです。

何事か起こると、わたしたちは「急いで」と申しますか、早く結果を知ろうと焦ることがあります。「気持ちが急く」のですね。金曜日のイエス様の十字架から3日です。

この一週間、エルサレム入城から事件が始まります。イエス様は十字架の死を覚悟して、エルサレムに入られるのです。マタイですと21章ですね。イエス様は子ロバに乗ってエルサレムに入られます。そのとき、エルサレムの群衆は、「自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」のです。棕櫚の主日(パームサンデーPalm Sunday)です。受難週の初日です。

その直後、イエス様は神殿の境内に入り、売り買いしていた商人を追い出されます。その時の言葉は、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれる」です。

ヨハネによる福音書では、12章から受難週が始まります。11章におけるラザロのよみがえりの直後のことです。エルサレム入城の前日は、注目すべき事がありました。ベタニアでイエス様は香油を注がれるのですね。ラザロの妹のマリアが純粋で高価なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪でイエス様の足をぬぐうのです。弟子のひとりユダが叱責します。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」と。しかし、イエス様はマリアをかばいます。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだ」と。その翌日に、エルサレム入城をされ、ナツメヤシの枝をもって歓迎されるのですね。人々は叫びます。「ホサナ」と。

それからの日々、ヨハネは細やかに受難の一週間を記します。

12章 「一粒の麦」の言葉ですね。23節「人の子が栄光を受ける時が来た。一粒の麦、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」

13章は、弟子の足を洗われるイエス様です。洗足木曜日ですね。そして夕食(最後の晩餐)です。新しい掟の言葉。31節「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」

   すごい言葉ですね。34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」

14章は、6節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」

   15節以降は聖霊を与える約束の言葉です。別の弁護者、真理の霊。

15章は「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい」「つながっていれば、豊かに実を結ぶ」

16章 聖霊のこと。33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」

17章 祈り「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」3節

18章 キドロンの谷(ゲツセマネ)での捕縛、大祭司(最高法院)での裁判、ペトロの否認、ピラトの審問、死刑の判決

19章 十字架(ゴルゴタ)への路、十字架の死、墓に葬られる

12章から19章まで、1週間の出来事です。日曜日から金曜日です。ヨハネによる福音

書では、受難週の6日間と復活の記事が、福音書全体の半分を占めるのです。福音書記者は、時間の流れを意識しているようです。土曜日(安息日)は時がとまっているようです。静けさの中にいます。まさに安息日なのです。神は安息され、また十字架の死を迎えられたイエス様も死という安息に中にいます。しかし、そこには、父なる神の眼差しがあることを信じます。愛の眼差し。父と子は一つ。そして、安息が明けた「週の初めの日、朝早く」に歴史を変える決定的な異変が起きるのです。この一点のために、神は天地創造の時から計画された奥義を実現されたのです。神が人となり、十字架にかけられ、死にて葬られる。しかし、三日目に復活する。ここに神のみこころがあらわされたのです。

 マグダラのマリアは、からの墓の出来事を見て、ペトロともう一人の弟子に走って行って告げます。その知らせを聞いて、ペトロともう一人の弟子も急ぎ、走ります。急ぎ、走って、からの墓の出来事を知ろうとするのです。

 マリアは、十字架の路を逆にたどります。どれほど走ったでしょうか。どれほどの距離なのでしょうか。前回も紹介しましたが、十字架の道行はヴィア・ドロローサと言われます。ゴルゴタは、ラテン語ではドロローサです。ピラトの官邸から十字架刑のゴルゴタ、そして墓です。中世から現代にいたるまで、キリスト教徒は、エルサレムへの巡礼の旅をするとき、このヴィア・ドロローサ、十字架の道行を巡礼するのです。だいたい、その距離は1キロではないかと言われます。

 マリアは、その道を逆行します。エルサレムの弟子たちがいる場所です。もちろんピラトの官邸ではありません。エルサレムの街にいた弟子たち。ゴルゴタから1キロはあろうかと思います。その距離を急ぎ走るのですね。その知らせを聞いたペトロともう一人の弟子も走っていきます。

2.復活の最初の証人、マグダラのマリア

 この20章の11節から18節までを何度も読んでいくと、ある一つのことが理解されます。それは、マリアの変化です。同時に、マリアはペトロとイエス様が愛しておられたもう一人の弟子に墓の中が空だと告げたにもかかわらず、二人は、理解していなかったのです。9節、10節を読むと、福音書はシンプルに記しています。「それから、この弟子たちは家に帰って行った」とあります。このふたりは、復活のイエス様に会えずじまいです。

 マリアは墓に残っています。11節「マリアは墓の外に立って泣いて」いました。そして、身をかがめて墓の中を見るのです。そこには、白い衣を着た二人の天使が見えます。天使たちがマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねると、マリアは答えます。

13節「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」

 これは、2節にペトロともう一人の弟子に言った言葉と同じです。さらに、イエス様がそばにいるにもかかわらず、そのことが分からず、むしろ園丁だと見間違えていたのです。

15節

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

ペトロともう一人の弟子に

2節「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」

13節

天使の言葉 「婦人よ、なぜ泣いているのか」

マリア   「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」

15節

イエス様 「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」

マリア  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

園丁と見間違ったイエス様はマリアを呼ばれます。16節「マリア」。

愛する人、心から尊敬し、親しくしていた人から名前を呼ばれる。その声の抑揚は、親し

み、友情、信頼、愛ですね。箴言16章24節「親切な言葉は蜜のしたたり。魂に甘く、骨

を癒す」とあります。同じ箴言17章22節には「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈

み込んでいると骨まで枯れる」とあります。

 マリアは、骨まで枯れるような経験から骨を癒すイエス様の愛の言葉に踊り舞うのです。

イエス様の「マリア」という声は、決して忘れることがありません。永遠にマリアのこころ

に刻み込まれている愛の声です。マリアは振り返り、声の主をみて「ラボニ」(先生)と反

応します。復活されたイエス様を見た驚愕と同時にこころの底から湧いてくる歓喜の念が

感じられます。マリアはその喜びを行動に現わすのです。イエス様にすがりつくのですね。

 復活されたイエス様のお言葉は、父と子がひとつであることを示していますね。17節

「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神

である方のところへわたしは上る」

  こうして、マグダラのマリアは復活されたイエス様の最初の目撃者、証人となるので

す。そして、主イエス様への信仰を通して、天地創造の父なる神は、わたしたちの父であり

神となられるのです。これが復活信仰です。

3.復活信仰と教会

 さて、本日は主の復活日です。教会は代々にわたって、主の復活の出来事を宣べ伝えてきました。わたしたちは、甦られたイエス様を見ていないのに、イエス様が甦られた、復活されたことを信じているのです。

 これは、教会の信仰です。代々、教会はこの信仰を継承しているのです。そして、福音の中心である十字架の死によるすべての人の贖いとイエス様の復活を宣べ伝えているからです。その教会の信仰をわたしたちは信じ、次の世代に伝えていくのです。

 世の終わりまで、復活されたイエス様がもう一度いらっしゃる、つまり再臨です。その時まで、主の十字架と復活を宣べ伝え、語り伝えていくのです。

 見ないで信じる、もう一つの理由は、そこに神様が働いておられるからです。聖霊の導き、と言います。信じるように聖霊が働いておられる。そして、主の復活の証人とされる。目撃者とされるのです。こうして、教会につらなるのです。名誉なことです。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」「見ないのに信じる人は、幸いである。」 このイエス様の言葉が、わたしたちの内に生きているからです。




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