2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日礼拝

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2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日礼拝

聖 書  ローマの信徒への手紙12章9~21節  

説 教  祝福を祈る教会

 

 本日はローマの信徒への手紙12章9~21節から「祝福を祈る教会」と題して説教いたします。先週の礼拝説教は、創世記47章からでした。覚えていらっしゃるでしょうか。

 そこでは、ヤコブがエジプトの王ファラオに祝福することを説教しました。それにちなんで祝福のことを申しました。

 

 1.祝福の系譜があるということですね。アダムとエバ、ノア、そしてアブラハム、イサク、ヤコブと神様の祝福が受け継がれているのです。聖書は、祝福の歴史といっても過言ではありません。

ヤコブの生涯は、祝福を求め続けました。そして、神と顔と顔をあわせる、大いなる祝福を与えられた人生です。大いなる祝福を経験した。祝福を追い求めたヤコブの生涯です。

 その祝福は、ヤコブから12部族、ユダへと受け継がれました。そして、神は歴史の中でご自身を現わされたのです。受肉ですね。神が人となられた。イエス・キリストです。そかも、その方がわたしたちの罪のために十字架にかかられた。そして、イエス様を信じる者に、神は永遠のいのちという救いの恵みを与えられたのです。これこそ、人類への大いなる祝福です。イエス・キリストによって、神はすべての人間に祝福のいのち、永遠のいのちを与えようとされたのですね。

 

ヨハネ3章16節。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 ヤコブが追い求め、経験した祝福ですね。その祝福は神の御子イエス・キリストを通して、教会に与えられているのです。主の受難、十字架の死、そして復活、聖霊降臨(ペンテコステ)から教会が誕生しました。教会は主なる神様のご計画であり、その実現です。イエス・キリストのからだである教会です。その教会に神は祝福を注いでくださっておられます。キリストの十字架の血によって贖われたクリスチャンに永遠のいのち、神の国といういのちの門に入る祝福を与えられたのです。

 イエス様は、教会に福音を宣べ伝えるように委ねられました。福音を宣べ伝える使命と祝福です。光榮なことです。教会は、わたしたちひとりひとりです。

さて、ローマ書12章を再度お読みしましょう。

 

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」ローマ書12:14 

 教会の歴史は、祝福の歴史です。しかし、別の歴史もありました。それは迫害の歴史でもありました。イエス様の十字架、弟子たちへの迫害、ペトロは牢獄に入れられました。ステファノは殉教しました。ヨハネの兄弟ヤコブは、剣で殺されたとあります(使徒12章2節)。激しい迫害が繰り返し起こったのです。ホーリネスの弾圧と迫害。日本では、キリスト教は徳川幕府、明治維新の初期は迫害と弾圧の歴史でもあったのです。

 パウロも福音を宣べ伝えるために迫害を受けました。Ⅱコリント11章23節以下には、パウロ自身が経験した迫害と苦難を記しています。

苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 こういう迫害と苦難を経験しているパウロが、このローマ書で語るのです。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」

 

 嫌な人、なかなか性格的に合わない人がいます。迫害まで行かなくても、冷たい、相手にしてもらえない。そういう人もいるかもしれません。その人のために祈る、しかも祝福を祈るなどなかなかできるものではありません。

好きな人や自分に好意を持っている人の祝福を祈ることは何と簡単なことでしょうか。しかし、御言葉は「敵対する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」

呪いとは、物騒なことばです。その人の破滅、滅びを祈ることです。あんな人やっつけてしまえ。消えていなくなってしまうがいい。死んでしまえ。

いじめのある学校で、そういう言葉を平気で使う生徒がいます。未熟な人たちです。

人の平安を祈る舌で、呪いのことばを吐く。信じられないことです。

わたしたちはイエス・キリストの十字架の血による贖いと救いをいただき、永遠のいのちを与えられている者です。教会にイエス様がおられます。そこに神の愛が注がれています。

いま、アメリカ合衆国では黒人差別の抗議デモが盛んです。先週は、警察官が黒人男性に対して背後から拳銃を撃つ事件が起こりました。その前は、黒人男性が白人の警察官に首を8分46秒圧迫されて死亡した事件を受け、全米に抗議デモが広がりました。「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」 黒人のいのちは大切という意味だそうです。

 

この黒人差別、人種差別も根っこは、迫害です。偏見と差別です。自分と違うものをやっつけようとする罪ですね。パウロもかつては教会に対して熱心に迫害したものです。

しかし、生けるイエス様に出遭い、悔い改めて新しい命に生きたのです。迫害するものであっても、神様の憐みで悔い改め、パウロのように変わる人となる。これが教会の祈り、クリスチャンの祈りです。

 迫害する者のために祝福を祈る生き方は、実は、イエス様の恵みを知っている者にこそ可能であると言えます。主キリストの救いを深く体験して、初めて与えられる信仰の現れです。その人は、神の愛とキリストの恵みに生かされているからです。

 神の愛と聖霊に満たされている人は、人を呪うことも人を侮辱することもありません。

たとえ敵対する人であっても、その人のために祈り、神の愛が回心へと導かれるように熱心に祈るのです。

 柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。愛と謙遜をもつ人は神に祝福された人であり、そこに祝福を祈る教会の姿があります。そして、祝福を祈る教会は、抽象的ではありません。わたしたちひとりひとりです。教会員である皆さんにこそ祝福が引き継がれているのです。

 祈りましょう。

 参考 8月23日の礼拝説教から

 

 4.新約聖書における祝福

 最後に、新約聖書における祝福を見てみましょう。

新約聖書にも祝福はあります。時間の関係で一つだけ挙げます。それはイエス様が最後の晩餐の時に、パンを祝福して裂き、弟子たちに渡されたところです。口語訳では、祝福してパンを裂いて弟子に渡されるのですが、共同訳では、賛美の祈りを唱えて訳されています。元の原語は、同じです。命のパンとして与えられる祝福ですね。そして、ぶどうの杯を感謝の祈りをして十字架の血潮による新しい契約です。(ルカ22:20) 

 それは、神の国の門が開かれ、永遠のいのちにいたる豊かな祝福の到来の宣言です。救いの力です。

 まとめますと、イムマヌエルの神のご臨在、平安と救済、永遠のいのちの約束とその現実が祝福であり、神の国の恵み―イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに与えられる神の愛と恵みの継承といえます。

 この朝の礼拝において、天地創造の時以来、創造主なる神が約束された祝福をわたしたちはイエス・キリストを信じる信仰ゆえに与えられています。その感謝であり、信仰の告白と賛美が霊とまことの礼拝とされるのです。




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