2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日礼拝

2020年6月21日 聖霊降臨節第4主日礼拝

 

聖 書  創世記45章1~8節

説 教  神が派遣された

 

 本日の聖書交読では、イザヤ書53章をともにお読みしました。わたしたちキリスト者にとって、イザヤ書53章は特別な意味があります。それは主イエス・キリストを表している、その預言であるという信仰です。受難週ではよく読まれます。

また、使徒言行録8章26節以下では、使徒のフィリポが天使の導きにより、エチオピアの高官と出遭う箇所があります。エチオピアの宦官です。エルサレムに礼拝に来て、エチオピアに帰る途中、馬車に乗って、イザヤ書53章を朗読していたところ、フィリポが近づき声をかけます。「読んでいることがお分かりになりますか」 そう尋ねると、エチオピアの高官は答えます。「手引きしてくる人がなければ、どうして分かりましょう」

そこでフィリポは馬車に乗って、イザヤ53章を説きおこして、イエス様のことを言っているのだと福音を告げ知らせるのです。高官は聖霊に感じて、即座に洗礼を受けました。

イザヤ書53章は、イエス様の預言であります。同時に、人間の精神が到達した最深かつ至高の精神の表現であると言われます。霊性の高さと深さ、神の奥義が開示されたものであると。

 

1.神の摂理

 さて、創世記後半のヨセフ物語を学んでいます。ヨセフは、10人の兄たちに殺されそうになります。挙句の果てに、エジプトに奴隷に売られます。エジプトでも奴隷の家の女主人から言い寄られ、それを拒否したことによって牢獄に入れられてしまいます。冤罪です。罪を犯していないにもかかわらず、汚名を着せられ、牢獄に入れられます。

 普通なら、気持ちがくさりますね。気持ちがふさぎ、落ち込みます。うつ状態になり、意気消沈し、絶望的になる。やる気を失う、意欲を失う、くじける、投げやりになる、自嘲的になる、むしゃくしゃする。 否定的な感情を羅列しました。徹底的に落ち込むのです。

 しかし、ヨセフはそうではありませんでした。次から次へと不幸のどん底に陥れるような出来事が起こっても、天性的に明るいのです。気にしないというか、ほがらか、苦境にあるのにじめじめしない。前向きなのです。落ち込まない。どこから、そのような性格になれるのでしょうか? ヨセフとはどういう人間なのでしょうか?

 

 聖書は記します。「神がヨセフと共におられた」(39:2、21、23)からです。これが秘訣です。他人のせいにしない。神と共に歩むこと。神の祝福を信じ続けること。希望がある。これがヨセフの信仰であり、生き方です。牢獄に入れられても、獄吏から信頼される。同じ囚人たちからも心配ごとを打ち明けられる。パウロのようですね。フィリピで牢獄に入れられたパウロは、牢獄の中で賛美をし、祈りました。

 ヨセフに戻りますが、ヨセフは奴隷から大臣に一気に抜擢されるのですね。ヨセフが奴隷としてエジプトに売られたのには、意味があったのです。それは神の計画、備えです。

さて、本日の聖書、創世記45章では、ついに兄弟たちに自分の身を明かすヨセフがいます。45章1節 

先ほどお読みしましたが、再度お読みします。

ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」 兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。

兄弟たちは、あの超大国エジプトの大臣をしているヨセフが本当は、弟のヨセフとは思いもつきません。驚きのあまり答えることもできなかったとあります。そして、言います。

 

4節、5節ですね。

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」

さらに8節までに、聖書は3度「神がわたしをお遣わしなった」と言います。5節、7節、8節です。繰り返してお遣わしになったと言いますが、微妙に違います。ご一緒に読みしましょう。

5節「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」

7節「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです」

8節「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」

聖書は、イスラエルはじめエジプト及び当時の世界のすべてに7年間の大豊作があり、7年間大飢饉がありました。しかし、エジプトだけが飢饉に備えて、大豊作の7年間で次に来る7年の飢饉のために備蓄したのです。それは世界のすべての国の飢えに苦しむ人々を養うに十分な備蓄だったのです。飢饉にあい、食べ物がなくなったヤコブ一族は子どもたちに命じてエジプトに行き、食料を買ってくるように命じるのです。

 

この話は何度もしました。今、ここで共に聖書から伺い知ることがあります。

今から創世記の年代は、今から約3,600年前です。今日、わたしたちは新型コロナ・ウィルスという疫病に苦しんでいます。世界中で、アメリカ、ブラジルでは毎日数千人が感染し、1000人単位で亡くなっているのです。

大飢饉のために飢えで死ぬ多くの人たちがいました。今は、新型コロナ・ウィルスの感染により多くの人たちが亡くなっています。救いを求めています。命を求めています。

医療問題、自粛により経済が成り立たなくなり、生活が貧窮するようになりました。持続化給付金、一律10万円の支給、中小企業向け資金繰り支援など政府の対策があります。これなどエジプトの備蓄の放出のようです。

 

聖書は、当時も今も同じことを語ります。わたしたちは聖書を通して、そのことを知るのです。神はこの困難な中にあって、神が遣わされる人を備えておられるということです。

豊作の時に、備蓄し、飢饉に備える。信仰の世界も同じです。平和な時に備える。伝道する。信仰をしっかり守る。苦難が襲ってきたとき、信仰を働かせるのです。祈り、み言葉に聴き、み言葉に立つのです。救いを求めに来る人たちが教会にいらっしゃるでしょう。その備えをしておくのも必要です。何よりも、主イエス・キリストの再臨を待ち望む信仰を強くするのです。

これがキリスト者の備えです。昨日も今日も変わることがないイエス・キリストの恵みに立つのです。

 

2.兄弟たちとヨセフとの力関係

弟ヨセフを殺そうとした兄弟たち。彼らは、ヨセフを恐れます。仕返し、復讐をされるのではないかと。ヨセフは、大臣としてエジプトを統治しています。生殺与奪の権を握っているのです。

しかし、ヨセフは言います。先ほどお読みしました5,7,8節です。

「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」

7節「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです」

8節「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」

ヨセフは兄弟たちを赦します。謙虚であり、愛の人です。仕返しを考えないもしません。

無垢、きよめられています。

今の時代、2020年の時もまた、神はすでに先にお遣わしなり、生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためにお遣わしになったお方がおられます。それはイエス様ですね。

 

ヨセフはイエス様を表します。同時に先に交読しましたイザヤ53章です。

ヨセフは大臣という権力者となりました。兄弟たちは復讐を恐れます。しかし、ヨセフはイエス様を表します。仕返し、復讐など眼中にない。神がお遣わしになった。神の愛と恵みを伝え、与えるのです。

 強者から弱者、上から下、上意下達的なもの、富めるから貧しい者へ。そのような図式ではありません。そのようなあり方は高慢であり、驕りです。今で言う支配、恩を着せるやりかたですね。

ここでは、まさしく福音です。神が人となられた。しかも、貧しい者、無力な方として、来られた。そして、十字架につけられた。侮辱され、殴打され、鞭うたれ、嘲笑され、見るも無残なあり方です。神の子が非道な仕打ちをされた。それをイエス様は甘んじて受けられたのです。それは、父なる神に対する従順さです。弱さを身にまとわれたこと。謙虚さの窮み。見るべき面影がなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。打ち砕かれ、懲らしめられた人の姿。まさに、イザヤ53章の世界です。

ヨセフも同じです。奴隷として売られました。しかし、彼のこころには、悪がなかった。人を恨むことも、憎しみも、非難することも、軽口をたたくこともなかった。人を侮辱する言葉を語らない。徳を建てること。 

こういう方法でイエス様も弟子たちと愛を分かち合われた。

 

3.わたしたちの信仰

 「わたしをここへ遣わされたのは、神です」 

 そのように告白し、証しすることができることは幸いですね。基本的に、わたしが遣わされて、いまここにいる。このことを認め、周囲の人たちがそれを認めるとします。そこに何が起こると思われますか? すなわち、ここにいるすべての人が、今日、神がわたしをここにお遣わしになったのです。それを認めると、相手の存在を認めることができます。

あっ、あなた、そこにいたの? 何しに来たの? 何の用? そう言って、相手を困らせることはありません。失礼ですよね。わたしがここにいてはいけないのですか? 必要としないのですか? 

教会の礼拝は、そこに集う人々を神がお遣わしになったのです。ひとりびとりが神の使者です。神の御使いです。ひとりびとり、無用なひとはいません。神が意味をもって遣わされたからです。

そこにあるのは、平和です。混乱ではありません。ペンテコステ。言葉の不一致のところを聖霊によって理解することができる。これが教会です。世の中は、言葉は通じても、こころは一緒ではないということもあるのです。

 

先週の説教は、ネヘミヤ記8章から説教しましたが、「民は皆、集まって一人の人のようになった」とあります。使徒言行録2章も「一同が一つになって集まっていると」聖霊が降臨されたのです。

キリスト者は、教会は、そのような聖霊による一致のあるところです。

キリスト教は愛です。言葉で人を傷つけない。人をサタン呼ばわりすることはない。

サタンに支配されている人は、他人に対して攻撃する。醜い言葉を語る。

愛に支配されている人は、愛のことばを語る。悪を企むことはしない。企てることはない。

神のみこころに沿うた言葉を語り、生きるのです。心に恨みはない。きよめられている。

神中心に生きている。神を第一にしている。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そのように信仰を第一にするのです。

 

わたしたちは、コロナ・ウィルスの時代の真っただ中にいます。この時にこそ、主イエス・キリストの十字架の贖いという神の愛と恵みにしっかり立って、主のご再臨を待ち望む信仰を堅くしましょう。

ローマ書8章28節をお読みします。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

祈ります。




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