2020年4月12日 復活節第一主日礼拝 イースター

2020年4月12日 復活節第一主日礼拝 イースター

 

聖 書  コリントの信徒への手紙 一 15章1~11節

説 教  復活 教会の根拠

 

わたしは献身し牧師となって40年となりますが、そのうち約20年は教会に附属の幼稚園がありました。牧師であり園長をしていました。毎日、園児たちに聖書のお話や祈りと賛美をしてきました。

幼稚園では、キリスト教の保育でも同じだと思いますが、園児たちは讃美歌を歌い、聖書のお話を聞き、お祈りをします。これは幼稚園の先生たち、保育園の保母さんもそうなのですね。必ずしもキリスト教信徒でない先生たちが、先輩の先生に習って、というか倣ねて、お祈りをします。聖書の話をすることもあるでしょう。いろいろ、悩むことが多いと思います。「これでいいのだろうか?」って。 そういう誠実さが大事だと思うのですね。

さて、園児たちは可愛い手を合わせて、お祈りします。「神ちゃま、今日も一日守られてありがとうございます」 子どもは素直で純真なのです。

幼稚園では神様のことを教えられます。でも、お家に帰ると、「神ちゃま、備えられた食事をありがとうございます」と食前のお祈りをすると笑われてしまうことがあります。

「神様なんか、いないんだよ。神なんて、人間が造ったんだよ」

お父さんが苦笑いしながら、子どもにそう言い聞かせます。

「神ナンか、いない。人間が造ったんだ」

 

ある時、幼稚園が終わって、牧師館で一息ついていたとき、園児の声が聞こえました。男の子の園児たちが牧師館と幼稚園の園舎の間でおしゃべりしていたのです。聞こうと注意したのでもないのですが、園児の声が聞こえました。

「神様なんかいないんだよ。人間が造ったんだ」

その通りの言葉でした。

 

幼稚園では神様のことを教えられ、祈り、賛美をします。しかし、お家に帰るとお父さんやおじいさん、お兄さんたちが、馬鹿にします。

「神なんか、いない」

 

幼稚園の先生たちもそういうジレンマで苦しんでおられることと思います。

「信仰していないのに、神様のことを子どもに教えていいのかしら?」

「神様を信じていないのに、キリスト教の幼稚園に働いていいの?」

いいのです。キリスト教の幼稚園は、そういう先生たちによって支えられているのです。そのように自問自答している先生の誠実さで幼稚園が生かされているのです。

神は、そういう先生たちにキリスト教を委託されているのです。

 

本日は復活日です。イースター。主イエス・キリストが十字架につけられ、死なれ、墓に葬られましたが、三日目に復活された、その日を記念する特別の日であります。

 

1.復活をあざ笑う

当時も、今も、復活を否定し、あざ笑う人々はいました。

「復活? 甦った? そんな馬鹿げたことがありえるわけがない」

ユダヤ人もギリシア人もそうでした。奇跡を信じるユダヤ人でさえも自分たちが十字架につけて殺した主イエス様が甦ったことを受け容れることができませんでした。

哲学や議論が大好きなギリシア人たちもそんな非科学的、非論理的な復活を愚かな作り話として拒否しました。

 

伝道者のパウロがアテネに入り、神の愛とキリストの恵みの福音を説教していました。有名なアレオパゴスの広場で、です。そこでは、ソクラテスもプラトンもアリストテレスもかつては熱弁を振るっていたことでしょう。しかし、キリストの復活の話をし始めると周囲はざわつき、しらけてしまいます。

使徒言行録17章32節には、このように書いてあります。

死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。

 

あのパウロでさえ落ち込み、自信をなくすのです。しかし、しばらくして立ち直った時、パウロは記します。コリント 一 1章18~24節

 

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

 

2.復活がなければすべては虚しい

当時の教会でも、復活を信じない教会員はいました。今日は、洗礼式があります。洗礼の準備会でお話しました。何を信じるか? 使徒信条で言い表された事柄を信じるのですと。

「十字架につけられ、死にて葬られ、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」です。

しかし、パウロの時代は、この使徒信条はまだ現在のような形ではありませんでした。信仰の基準となるものが定かではなかったのです。そのために、クリスチャンとして洗礼を受けても、復活を信じなかったり、否定する教会員もいたのです。それは教会の一致に混乱をもたらしました。めいめいが勝手に自己流のキリスト像を持ち、信じていたのです。

パウロは、そこで言います。このパウロの言葉が後に信仰の基準となりました。

 

本日読まれた聖書には、無駄という言葉が何度も出てきます。15章1節から2節ですね。そして10節。14節。

そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

 

復活は、キリスト教が寄って立つ事実です。復活がなければ、キリスト教は崩壊しますし、教会もないのです。賢人の教えとして後世に残ったかもしれません。道徳、倫理の一種です。

座右の銘とはなりえても、人を生かし、いのちを与える言葉にはなりません。

 

そして、教会が誕生して、今に至るまで数え切れない多くの人たちが福音を信じてきたのです。信じた人たちは復活の望みをもって、信じて、生き、そして亡くなったのです。天国の希望をもって生き、死んだのです。

仙台青葉荘教会110年の歴史において、多くの信徒がこの聖書の言葉と約束を信じて、生き、働き、召されたのです。

これはすべて、復活信仰によってです。この信仰をわたしたちは、連綿として宣べ伝える使命を与えられ、そして今も宣べ伝えているのです。

3節

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

11節

とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

 

2000年間、宣べ伝えられたこと、受けたもの、それは福音ですね。それをまた宣べ伝えていく。ここに教会の存在の根拠があります。使命があるのです。いつまでか? イエス様のご再臨の時までです。再び来られる時まで、教会は福音を宣べ伝えるのです。伝道ですね。再臨とは、世の終わりでもあります。世の人々に世の終わりが来ますよ。裁きの時であり、救いの時でもあります。救いは永遠のいのちです。神の国のいのちです。

わたしたちが今、礼拝を捧げているように、天国でも礼拝が捧げられています。黙示録にある通りです。このわたしたちの礼拝が天の礼拝と結びついているのです。直結しているのです。

神を見ましょう。神の臨在を仰ぎましょう。霊の目を開いて、神を讃美し、礼拝しましょう。

神の国では、ハレルヤ! と高らかに讃美が歌われている。天使たち、先に召された多くの聖徒たちの讃美が歌われているのです。その讃美の群れに、わたしたちもこの地上で加わっているのです。

信仰を堅く守って、進みましょう。

 




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