2023年8月13日 聖霊降臨節第十二主日礼拝
2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙16章1~16節
説 教 活ける教会の姿
ローマの信徒への手紙の講解説教もいよいよ16章となりました。ローマ書は、信仰義認、すなわち、信仰によって救われる。救われたものが、聖とされ、さらに御子イエス様の姿に似た者にされる。聖化であり栄化であるとされる。パウロは手紙で、キリスト教の本質的な教え、真理を書いてきました。教理的なもの、教えの道すじですね。何を信じるのか。そして、信じたように生きる。これが聖化です。
さらに、信仰者の実践的な生き方、愛にあって生きることの大切さ。そして、イスラエルの問題についても言及しています。これが1章から15章です。
さて、16章ですが、手紙の挨拶の部分です。こんにち、手紙を書くということが少なくなってきました。パソコンの普及により、メールで簡便に済ます傾向があります。さらにスマホの普及で、あとさきなしで、いきなり本題に入り、用件だけを記す。これが現代の通信です。
いま、わたしたちは手紙を書くということもしなくなったのではないか。しかも、手書きの手紙はますますしなくなりました。しかし、パソコンもワープロもない時代。2000年前、パウロは、ローマの信徒への手紙で、ながながと手紙を書いたのです。手紙を終えるに当たり、挨拶のことばを書くのです。
そこには、教会の人名が出てきます。26名の名前です。また、名前はありませんが、
10節「アリストブロ家の人々」、11節「ナルキソ家の中で主を信じている人々」がいます。
パウロは、ローマに行ったことがありませんが、いままで伝道旅行をしており、行く先々で福音を宣べ伝えて教会を建てあげていくうちに、クリスチャン同士のネットワークができていたのでしょう。また、当時は長い旅のときは、教会、それは個人の家であり、そこが宿泊場所でありました。信者の上で寝泊まりする。これが一般的でした。そこには、一緒に食事をし、一緒に寝る。雑魚寝ですね。
現代のようにプライバシーはない時代でした。今でも地方の教会に行くと、教会員の家で泊り、食事をご馳走になる。風呂。神学校を卒業して、教会に赴任しました。10年くらいは、そういう時代でもありました。
家族が団らん。旅人を迎え、一緒にいる。子どもがいる、テレビ、まんがが福音宣教と信仰継承を妨げていることになります。
名前のことー活ける教会の姿がここにあります。麗しい教会の姿です。
1節 フェベ 女性。執事、解放奴隷で役員であった。すでに2000年間に、こういう女性が教会の重要な務めをしていたのです。パウロは、このフェベさんに手紙を託したのではないかと言われます。つまり、フェベさんはこのローマの信徒への手紙をパウロから預かり、ローマまで旅をしてロ-マの教会に運んできたと理解されます。今でいう郵便屋さんです。信仰の大切な手紙です。それこそプライバシー、秘密主義は守られねばなりません。
3節にあるプリスカとアキラさん。コリントの手紙の最後の挨拶にもあります。コリント一 16章19節。パウロと一緒に伝道してきた夫婦です。気心が知れた人たちですね。
使徒言行録18章にも出てきます。
何よりも、これらの挨拶で、人名がでてくる。わたしたちにとってほとんど知ることがない名前です。どうでもいいではないかと思いがちですが、そうではないですね。これらの名前が聖書に記されている。つまり、キリスト教があり、教会があるところでは、どこでも、どの時代でも、つまり、永遠に彼らの名前は、覚えられ、語り伝えられていくのです。
教会には会員名簿があります。原簿ですね。その名前は、神様にもすでに知られているのです。国籍は天にある。フィリピ3章20節「わたしたちの本国は天にあります」
「天に名が記されている」のです。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10章20節)
そう聖書にあります。神にわたしたちの名が覚えられているのです。何という、幸いでしょうか。
ちょっと内容を見てみたいと思います。
フェベさん 2節「彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」パウロを助け
た女性ですね、
プリスカとアキラ 3節「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリ
スカとアキラによろしく。 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたし
だけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。」
エパイネトさん 5節「彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。」 パウロが伝道し、洗礼を受け、キリスト者になったのでしょうね。いまはローマにいる。
8節「主に結ばれている愛するアンプリアト」
10節「真のキリスト者アペレ」
一人一人の名前に、パウロは愛と尊敬をこめられています。そこには、けなすことはない。内輪もめ、争いはない。
はじめてこの手紙読む時、単なる挨拶の言葉の羅列に見えます。26人の名前です。わたしたちにとって知らない人たちです。2000年前の名も知れぬ人たち、いえ、名前は残っていても全く知らない人たちです。ある面、意味がない。どうでもよいかもしれない。手紙の最後の退屈な挨拶のことばです。しかし、当時の教会にとって、その人たちは信仰の勇者、教会を支えてきた人たちです。
教会に通い、聖日ごとに教会にきて、共に礼拝する。隣に座っていたかもしれない。礼拝後に、他愛のない日常の生活のことどもを話し合ったかもしれません。
また、阿部兄のように礼拝後に別れ、次週礼拝後にまた会おうねと言ってたのに、その週のうちに召され、もうお会いすることができなくなった方もいるかもしれない。
教会とは、人です。いつも一緒に礼拝し、神を賛美し、祈り、語り合った仲間です。時に教会運営のことで意見の相違があり、いがみあうこともあったかもしれません。しかし、キリストを中心にした愛の共同体です。すぐに仲直りをし、互いに祈り合う。愛の交わりを回復する。それが教会です。
現代の信仰者の証し
仙台青葉荘教会、わたしが今まで牧会してきた人たちのことを想い起します。今まで、牧師になってから、100人近くの人たちに洗礼を授けました。いまでも手紙、年賀状をいただいている方もおられます。時に、説教で証しとして紹介してきました。
これからご紹介する方は、前任教会の姉妹です。90過ぎて召されました。
クニさん 子どものころ、近所に教会があり、日曜日になると讃美歌が聞こえてきた。その賛美の声に心が洗われるように感じました。いつか教会に行きたい。そう願われたのです。親はヤソだからだめだと反対です。でも、行きたいと何度も言ってくるので、親は仕方ないと許すのです。日曜学校。聖書の話しは分かりませんでした。讃美歌がきれいでうっとりします。来てよかったと思うのです。一つ分からないことがありました。それは聖書の話しが終わってから、出席者がお金を籠に入れることです。クニさんはお金を持ってきていませんでした。神社の賽銭箱に入れるお賽銭なのだろうかと思いました。それで、先生に訊きました。これはね、天国貯金というのよ。神様にお献げして、教会の働きのために献げるのよ。
クニさんは天国貯金という言葉を初めて知りました。それから、クニさんは教会学校に通い、大人になって洗礼を受け、教会を支えてきました。70年以上、天国の銀行に貯金をしてきたことでしょう。いまは、天国で神様から貯金の利息と一緒に貯金した預金を返してもらっていることでしょう。それは永遠のいのちという宝です。
教会には、そこに通っている教会員の数ほどに、その信仰の証しがあります。親切、柔和、やさしさ、よく祈る人、大胆に献げるひと、賛美することが大好きな姉妹、時をささげて教会の奉仕を厭わない。それは神様に時を捧げているのです。時とは自分自身です。
麗しい教会の交わり。そこに神の国のよろこびと麗しさがある。
パウロは教会の交わりのうるわしさとよろこびを想い起して手紙を終えるのですね。
わたしたち、この手紙の26名の名を通して、自分の位置を考えてみるのも素晴らしいと思います。
祈ります。
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