2021年12月12日 待降節第3主日礼拝
聖 書 ルカによる福音書1章26~38節
説 教 聖霊があなたに降り
アドヴェントに入り、ルカによる福音書を通して救い主イエス・キリストの降誕にまつわる物語を取り上げています。主の天使(ほかに「御使い」、「使い」の訳あり)ガブリエルが現れて、主なる神様からのメッセージを告げるところです。
11月28日のアドヴェント第一の主日は、1章5節から説教しました。天使ガブリエルがアビア組の祭司ザカリアに現れ、ヨハネの誕生を告知します。
12月5日のアドヴェント第二の主日は、1章57節から80節で、天使の告知通りヨハネが誕生し、ザカリアはザカリアの賛歌と呼ばれる「ベネディクトゥス」を預言します。先週ですね。
1.神の使い 天使
本日は、アドヴェント第三主日です。ルカによる福音書1章26節から38節を説教します。この段落はあまりにも有名なところです。ザカリアに現れた天使ガブリエルは、今度はマリアに現れるのです。ザカリアに現れてから6か月後ですね。
26節にある通りです。お読みします。
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。受胎告知ですね。
このところは、教会学校の子どもたちと演じるクリスマスページェントで、おなじみです。幼稚園や保育園でもページェントを行います。こどもたちは大好きなところです。
女の子はマリアの役を熱望します。
ここでは、天使とマリアが言葉のやりとりをするところです。
天使のことばは、マリアは身ごもっており、男の子を産むこと。その子をイエスと名付けること。その子は、偉大な人になり、いと高き方の子と言われるようになること。
そこで、マリアは天使に言います。34節です。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」
婚約はしているけれどもまだ正式な夫婦となっていないということです。
天使は言います。35節
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にできないことは何一つない。」
マリアは言います。38節
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
マリアは天使の言葉を信じ、自分の身に起こるであろう異変を受け入れるのです。
さて、救い主イエス様のお生まれに関する聖書は、マタイとルカの福音書に記されています。本日のルカではマリアに天使ガブリエルが現れ、「恵まれた女よ、おめでとう」と救い主が聖霊によって宿していることを告げるのです。受胎告知ですね。
もう一方のマタイによる福音書1章18節以下では、ヨセフに夢で天使が現れます。そして、婚約者であるマリアが聖霊によって身ごもっていることを告げるのです。
マタイ1章18節では、次のように記されています。
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
ここでは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず」とあります。そして、24節
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
とあります。
2.スキャンダル
わたしたちは、自分自身の人生の計画を持っています。自分の人生のことで、誰からも邪魔されたり、介入されることを拒絶します。自分が独自で計画し、達成しようとする人生設計プランがあるからです。自分の意思しないところで人生設計のプランが変更されたり、駄目になったり、潰されたり、挫折することは我慢ならないことです。悲しいこと、辛いこと、失望、絶望を感じますね。
もし、皆さんがマリアのような立場になったら、どうするでしょうか。もし、皆さんがヨセフのような立場になったら、どうするでしょうか。ヨセフのようにマリアを迎え入れるでしょうか。
そう、マリアは言います。1章38節
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言えるでしょうか。まさしくマリアはそう言いました。自分の身に起こった不都合なこと、スキャンダラスなことを沈黙のうちに引き受けたのです。現代流に言えば、マリアに起こったことは、まさにスキャンダラスな出来事です。
スキャンダルとは、名声を汚すような不祥事・不正事件。また、情事などのうわさ。醜聞。
その人の名誉や人格を傷つけるような、よくないうわさ。不名誉な評判。つまずきでもあり、人をつまずかせるものなのです。
マリアは、婚約はしているが、まだ婚礼をあげ自分の家に入って結婚関係にない未婚の女性です。そのマリアが妊娠した。ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心します。マリアの妊娠が「聖霊によって」であることは、後で天使のお告げで分かることです。ヨセフにとってマリアの妊娠は結婚を不可能にする悲しむべき大事件であったはずです。ヨセフにとって裏切りです。まさに「つまずき」です。
当時のユダヤ教社会では婚約は、法的には夫婦として扱われます。それゆえ、婚約中の女性が婚約相手以外の男性と性関係をもったことが明らかになれば姦通の罪に問われるのです。姦通罪は、死刑です。石投げの刑です。ヨハネ8章の姦通によって捕まえられた女の記事がありますね。
ヨセフは「正しい人」でした。相手への思いやりが深いという意味でも「正しい人」であったでしょう。マリアを法の裁きにさらすことを望まず、ひそかに離縁することで問題を解決しようとしたのです(独身女性が妊娠出産しても姦通罪にはなりません)。
アドヴェント・クリスマスは、救い主イエス・キリストの誕生です。しかし、その誕生は、つまずきでもあるのです。美化するものではないのです。
つまずきということでいうと、十字架はスキャンダルです。Ⅰコリント1章23節に次の言葉があります。
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです・・・
この「つまずかせるもの」は、原語はスキャンダリオンです。ここから英語では、スキャンダルとなるのです。神の子が十字架につけられて死ぬ。これはまさにスキャンダルなのです。つまずきなのです。
信仰とはこういうこともあるのです。有無を言わさず、一方的に大きな力が働く。天使は、これは神の計画であると語ります。一方的な神の側の宣告です。神は時に、専制君主あるいは暴君のように人の都合や人生設計を狂わせるお方なのでしょうか。
知り合いの息子さんのことをお話して終わります。京都復興教会時代に知り合いになった人の息子さんです。
その息子さんには、交際をしていた女性がいました。しかし、交際相手の女性が妊娠したのです。息子さんは身に覚えがないことです。清い交際をしていたのです。実は、女性はレイプされたのです。強制性交です。そのことによって妊娠したのですね。
女性は産もうとします。自分のお腹に子が宿っている。いのちを宿している。いのちを無にしたくない。たとえ、望まぬ妊娠、しかもレイプです。親は反対しました。どこの誰と分からない男の子を産むことに反対したのです。京都です。封建的な家を重んじる両親でした。
そういう中で、交際していた男性は、結婚したのです。自分の子どもではない、その赤ちゃんを一緒に育てていこうと申し出たのです。女性を愛していたのですね。
2000年前のことです。神の子イエス・キリストは、こういう不条理の中で生まれ、生きられたのです。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」
わたしたちは、神の介入によるとき、もはや自己主張や自己正当化はできません。神の介入は、いのちの源なる方との出会いであり、対話であるからです。そこに神の計画が示され、自分のような者が、神の視野に入れられ、御手の内にあるという誉れ、光栄に満たされるのです。
人は自分の人生を自分のためではなく、神の御旨に生きるとき、真に生きるものとなります。生きることは、神のわざに参与すること。そこに喜びと平安と一切の意味があるのです。神の御心に従順である時、わたしたちは神の御心の内にあります。
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