カテゴリー: 今週の説教

 

2024年8月18日 仙台青葉荘教会

「キリストの平和」

ソン・チキュ先生

2024.0818.Syuuhou

 皆さまと共に三位一体の神を礼拝し、賛美できますことを、感謝いたします。私たちを生かす御言葉に、共に聞いてまいりましょう。

本日、与えられている御言葉は、とても有名な言葉がある箇所で良く知られていて、皆さまも一度はお聞きになったことがあるのではないかと思います。新共同訳になる前の言葉で親しまれていた方が多いのではないでしょうか。4節の言葉です。「あなたはわたしにとって値高く、尊い。私はあなたを愛している。」この言葉に救われた方もいらっしゃるでしょうか。私自身、この言葉に何度も慰められ、励まされてきました。ですが、今日はこの言葉だけではなく、1~7節全体を通して、御言葉に共に聞いていきたいと思います。

イザヤ書というのは、イエス様が生まれる前、神が選ばれたイスラエルという民族に向けて語られた神の言葉を、イザヤという人物が預かって、人々に伝えた言葉を集めたものです。大きく分けてイザヤ書の前半部分は、神の言葉を聞かないイスラエルの人々に対する裁きの言葉、このままでは大きな帝国が攻めてきてイスラエルは滅ぼされる、という警告の言葉が記されています。たとえばイザヤ書29章には次のような言葉があります。「主は言われた。『この民は、口で私に近づき、唇で私を敬うが、心は私から遠く離れている。』」(29:13)このような、表向きだけ神様を礼拝し、まるで不倫をするかのように他の国々の神を礼拝しながら、好き放題生きているイスラエルに向かって、神様はイザヤを通して、語られます。そのようなお前たちを、わたしは裁く、と。大きな帝国が、お前たちのところに攻め上ってくるだろう、と。しかし、神様は同時に宣言しておられます。滅びたままにはしない。ばらばらのままにはしない。必ずあなたたちをまたわたしのところに集める。

そこで、今日与えられた御言葉に聞いていきたいと思います。

1節にはこのようにあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたは私のもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

43章の前ではくり返し、イスラエルの人々に対する警告が行われていたはずでした。お前たちはなぜ私を心から礼拝できないのか。なぜ私よりも他の物を神とし、生きているのか。なぜ正義よりも、偽りを好むのか。ですが、神様はこう宣言されるのです。あなたたちをつくったのは私だ。あなたを私の民として選んだのは、この私だ。

最近KPOP、韓国のアイドルが日本の中高生の間で非常に人気を得ています。私が置かれている東北学院の中高でも、アイドルのファンになっている子どもたちがたくさんいますし、それに元気をもらっているのだろうな、とほほえましく思う時もあります。

しかし、アイドル、英語ですけれども、その意味を辞書で調べてみると、どのような意味が出て来るかご存じの方はいらっしゃるでしょうか。実はアイドルは、偶像、という意味があります。聖書にもたくさん出て来る言葉です。あたかも神かのように、崇拝されているもの、それが偶像です。アイドルが好きな中高生に限らず、私たち人間は、日々、このような偶像を造り出して生きています。神は目に見えない、だから、目に見える何か頼れるものを作って、精神安定剤をつくって、それに頼り、それに時間を、命を割くのです。自分で話していても、耳が痛いです。私自身、スマホが手にくっついたように過ごすことは非常に多いからです。しかしまさにイスラエルも、そのようなアイドル、偶像をつくって、過ごしていた人々であったと言っても良いかもしれません。自分を造ってくださった本当の神様ではなく、神でないものを、あたかも神のように造り出し、自分自身を奪われていたのです。

そのような、他のものに奪われているイスラエルの民を、神様は御自分のものだ、とはっきりとおっしゃるのです。わたしはあなたを贖う。私があなたを買い戻す。私以外のものに支配されてはならない、私以外のものになることはありえない。私は、あなたの名を呼ぶ。

私は今、学校で、中高生に聖書を教えていますが、聖書の時間って週に1回しかないんです。中学校1年、3年、高校2年の計17クラスを教えているので、受け持っているのはだいたい650人くらいでしょうか。悩みがあります。なかなか一人一人の名前が覚えられないんです。私自身、名前を覚えるのが苦手というのもあるのですが、いくら努力をしても授業をしているだけだと到底覚えられません。一番生徒の名前と顔が一致する時っていつだかおわかりですか。一対一、もしくは二対一で、相談を受けたり、生徒指導をするときです。その生徒と、人格的な交わり、深いかかわりがない限り、つまり、その生徒との思い出、物語がない限り、名前を覚えることは簡単なことではないと、自分が教える立場になって初めて知ったことでした。そのなかで、生徒たちが私に質問をしてくるのです。「先生、私の名前なにかわかる?」冷や汗が止まりません。たまたま答えられるときは良いのです。「○○でしょ」生徒はとたんに笑顔になって満足そうに去っていきます。そうでないときはどうするか。「最初の文字は?」生徒は失望の顔になっていきます。生徒に、名前を憶えていないことがばれてしまうというのは、非常に申し訳なく、恥ずかしい瞬間です。

実は、名前を呼ばれる、ということは、自分が相手の中にいる、自分は空気ではない、確かに存在する者として、ここにいるのだ、と言うことを改めて認識する瞬間なのです。

自傷行為、自分を傷つける行為をする若者が増えています。リストカット、ピアス、最近ではタトゥーもそれに入ると言われています。あるキリスト教学校で宗教主任をしている先生から聞いた話によると、それは単に自分を傷つけたくてしているわけではないというのです。自分を痛めつけるとき、痛みを感じるとき、自分は生きている、そう実感するのだ、そうおっしゃっていました。

神様は言われるのです。私はあなたの名を呼ぶ。ここで使われている言葉は、創世記で神が天地を創造された時に、昼や夜、天や地を名付けられた時に使われている言葉と同じ言葉です。たとえば神様が「光あれ」と言われた時、神様は「光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ」(創世記1;5)と記されています。この「呼んだ」と、同じ言葉です。同じように、偶像に、自分が神として造り出しているものに支配されているイスラエルに、わたしたちに、名を呼ぶ、と言われます。あなたはそこにいるべき存在ではない、あなたにはそこではない居場所がある、本当の家があると言われるのです。偶像に自分自身を奪われているわたしたち、自分が何者なのか、どこから来てどこに行くのかわからなくなっている私たちに、自分がわからず、空気になりかけている私たちの名前を呼んでおられます。帰ってこい、と。私とあなたの物語がここにある。どのような物語でしょうか。

2節です。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」水と火というのは、聖書の中で、しばしば滅びの象徴として描かれます。

この言葉で思い出すのは、旧約聖書の出エジプト記で、イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから脱出する時、海が二つに分かれて道が出来たという出来事ではないでしょうか。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は渇いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の渇いたところを進んでいき、水は彼らの右と左に壁のようになった。」(出エジプト14:21,22)本来であれば敵に追いかけられ、行く先は水に覆われていて、死ぬしかなかったイスラエルの民が、神様が開いてくださった海の向こうにわたったことで、助けられたのです。実はこれと似たようなことを、私たちは経験しています。それは、洗礼を受けたときです。本来であれば死ぬしかなかった私たちが、キリストの十字架を信じたとき、キリストと共に自分の罪に死に、キリストと共に、水の向こう側、新しい命に生きる者とされたのです。

また、旧約聖書のダニエル書においては、神様を信じるイスラエルの3人の人が、捕囚先の王を礼拝せよという命令に背いたため、火に投げ込まれる場面が登場します。彼らは、イスラエルの神様以外を崇拝することを拒否したのでした。その3人は焼け死んでしまったのでしょうか。彼らは、髪の毛一本も燃えることなく、生還したのです。神様が守ってくださったのです。神様が、彼らの信仰を見て、喜ばれ、彼らを守られたのです。私たちも、そのような火を経験しています。使徒言行録、イエス様が天に帰られた後に起こった出来事を記された書物ですが、そこには教会が生まれるときに起こったことが記されています。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:3)弟子たちに聖霊が与えられた時と同じように、聖霊が私たちに与えられた時、炎のような聖霊によって私たちは清められたのです。聖霊は、今もわたしたちと共におられ、私たちの信仰を守ってくださっています。水や火はもはや私たちにとって滅びの象徴ではないのです。キリストの十字架を通して、水や火は、わたしたちと共におられ、救いに導いてくださったことを記念する、救いの象徴となったのです。このような物語が、イスラエルと、神様、そして私たちと神様との間にあります。

しかし神様が私たちと共にいること、神様が私たちの名を呼んでくださることは、実はありえないことでした。私たちと神様との関係は修復が不可能と思えるほどに、私たちの背きによって壊されていたからです。キリストはそのためにこの世界に来られました。私たちと父なる神様との架け橋となってくださいました。そのために、私たちは、神様から名前を呼ばれる者、神様の子供とされたのです。そのために、私たちは神様から4節にあるように、「私の目にあなたは値高く、尊く、私はあなたを愛する」5節にあるように、「恐れるな、私はあなたと共にいる」そう言われるのです。

愛する、という言葉が出てきました。キリスト教は愛の宗教であると言われるのですが、みなさん、愛ってなんでしょうか。優しくすることでしょうか?喧嘩をしないことでしょうか?戦争をしないことでしょうか?それでは、神様がイスラエルを裁かれ、バビロン帝国が攻めてきて、イスラエルの民がバビロン帝国の捕囚にされたということは、神様がイスラエルを愛していなかったということになるのでしょうか。

愛というのは、もしかすると綺麗なものではないのかもしれません。十字架の愛といいますが、キリストが十字架にかかった時、そこで流されたのは血だからです。では神様の愛ってなんなのでしょうか。それは、かっこ悪さということができるかもしれません。くる者拒まず、去る者追わず、の神様ではないと言うことです。その人をあきらめられないがゆえに、怒り、妬み、名を呼び続ける神様だからです。あきらめられなさ過ぎて、イエス・キリストとして、人間となってお生まれになった神様だからです。私は子供の時、ありがたいことに、たくさん親に叱られた子供でした。親が嫌いになったことは何度もありますが、今ではありがたいと思えています。子どもを叱るのは、親が子供のことが嫌いだからでしょうか。そうではないと思います。もちろん、昨今様々な家庭の状況がありますから一概に言えない部分もありますが、恐れずに言うと、親が子供を叱らないというのは、子どもに本気に向き合ってないからだと言えます。本気で向き合っていたら、本気で愛していたら、嫌われるのを恐れずに、叱るのではないでしょうか。パートナーとの関係もそうです。パートナーを本気で愛しているならば、例えば浮気などをされたときには、感情を抑えられず取り乱してしまうのです。そこじゃない、帰ってきてほしい。まさに、神の愛は、これらと似ているということができます。神様は私たちに本気で向き合っておられます。新約聖書のヨハネによる福音書にこうある通りです。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。(3:16)」果たして、私たちはどうでしょうか。神様と、本気で向き合っているでしょうか。

神様は待っておられます。私たち一人一人の名を、今日も、呼んでおられます。さまよっている私たちに、行く先を見失い、居場所を見失っている私たちに、呼びかけておられます。あなたは私の子。尊い存在。私のところに帰って来なさい。5節、6節、7節にこのようにある通りです。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては引き止めるな、と言う。私の息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成したもの。」まさにイスラエルの民、ユダヤ人は、バビロン捕囚で国が無くなった後、1948年に建国し、全世界のユダヤ人がそこに集結をしています。わたしたちはこのことを、注意深く見る必要があると思います。しかし同時に、イエス・キリストを信じたわたしたちは、神様から名を呼ばれた私たちは、神の民として、神の家族として、今ここに、教会として集められています。

神様から離れていた私たちは、各々自分のためにだけ生きていました。いや、そうするしかありませんでした。なぜなら、自分が生きることに精一杯で、他のことには心を向けることができなかったからです。しかし、主によって名を呼ばれ、主のもとに帰らされたとき、私たちは、自分で自分を大きく見せたり、強がる必要がないことに気づかされました。なぜなら、十字架の主が、そのような私たちの弱さをすべて負ってくださったからです。そのとき私たちは初めて、神様が自分を尊い存在として見てくださっているように、隣人を、神の家族として、本当の隣人として、受け入れることが出来るのです。自分の力では到底隣人を愛することなんてできません。

神様に日々、わたしたちの名を呼ばれる時、たとえどのような誘惑、困難があったとしても、敵が大きく、自分自身が消えてしまいそう、いや、消えてしまいたいときも、神様の御もとに連れ帰ってくださいます。招いてくださっています。確かに存在するものとして、聖霊によって強めてくださいます。主は今日、確かに言われます。「わたしはあなたの名を呼ぶ。」