マタイ6章25節~34節
「永遠の愛の手の中で」
尚絅学院聖書科教師 赤井 慧先生
●「引き裂かれる心」
高校生にとって、今日は何の日かご存じでしょうか。昨日から行われている大学入学共通テス
トの受験日です。時を同じくして緊張感の中で受験をしている生徒がおります。自分の人生を振
り返りますと、一番暗くて辛かった時期が高校時代だったように思います。
わたしにとって高校生活というのは、いつも比較のなかでの歩みでした。何かうまくいってい
ることがあれば、多少よかったのかも知れませんが、どれもうまくいかずで、友人と自分を比べ
ては焦りや妬みを感じる毎日でした。
だからこそ、もし私と同じように生きづらさを感じている高校生がいれば、そんな人の力にな
りたいと思いを持ちながら、この働きをしています。
少し前の春休み、学校の教員だけが体育館に集まって、バレーボール大会をしたことがありま
した。私は球技がとても苦手なので、正直あまり乗り気ではありませんでした。しかし、せっか
く誘ってもらったし、交流のためにと思って参加しました。最初は和やかな雰囲気でしたが、試
合が進むにつれて、みんなだんだん本気モードになっていきました。
ただ、私はボールが飛んでくるといつも体が固まってしまう習性があり、いつもチームに失点
を与えてしまいます。必死に頑張っているのに、他の人と同じようにできないのです。ゲームが
進んでいくと、だんだん他の先生たちもそのことに気づき始めます。
ボールが私のほうに飛んでくると、他の先生が私の前に滑り込んできて代わりにレシーブして
、トスしてアタックするというチームプレイが構築されました。有難いのですが、だんだんと「
自分はチームにいない方がいいんじゃないか・・・」と思えてくるのです。誰も口にはしないのです
が、わたしが足手まといになっていることは明白でした。
運動会や球技大会のたびに、わたしは自分のことが嫌いになっていました。
「みんな自分のことを邪魔者だと思っている。自分は役立たずの人間だ…」
「みんなが普通にできることができない自分は、ダメな人間だ」
バレーボールをしていたら、その時代の暗い自分が蘇ってきたのです。30歳過ぎにもなって恥ず
かしいことですが、体育館のコートの中で変な汗が出てきてきました。
実はこの状態こそ、イエスがマタイ6章で語った「思い悩み」の正体です。もともとの言葉での
「思い悩み」は μεριμνάω(メリムナオー) と書かれているのですが、この言葉は、単なる「心
配」ではなく、「心が引き裂かれる」とか「心がばらばらになる」という意味を持っています。
ですから、イエスさまが言う「思い悩むな」というのは、「あなたの心が引き裂かれるような生
き方はするな」という意味なのです。
まさにあの体育館で私の心は、「評価されたい”私”」と「自分を無価値だと思っている”自分”」
に引き裂かれていました。
●「見なさい-世界を見直すということ」
ひと試合が終わり、やっと休憩時間になりました。私はヘロヘロになって体育館の窓際のベン
チに座りました。昔の思い出は、解決したつもりになっていただけで、実は心の奥に傷が深く残
っていたのだと、そのとき気づかされたのです。なんとか気持ちを落ち着かせようと、カーテン
を開いて窓を開けました。すると、暖かい日差しが差し込み、広瀬川からの風が吹き、鳥の声が
聞こえてきました。
そのとき、ふと今日の聖書の言葉が心に浮かびました。
「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。」
なんて狭い世界で自分のことを裁いていたのだろうかと思いました。たったこの数メートル四
方のコートの中でうまくいかないだけで、自分をダメな人間だと決めつけていた。自分ができな
いことばかりに目を向けて、気を落とす必要なんかなかったのです。これはスポーツだけのこと
だけではありません。私たちが思い悩むときというのは、知らず知らずに視野が狭くなっている
ことが多いかもしれません。
ここでイエスさまが使った「見なさい」という言葉は、とても深い意味を持っています。こち
らも原典を見ると、「じっと見つめなさい」とか「観察して深く学びなさい」と書かれています
。イエスさまは、ただ景色をゆっくり眺めなさいと言っているのではありません。「世界の見方
を変えなさい」と語っておられるのです。
私は写真を撮るのが好きで、いつもバッグにはカメラ入っています。カメラを持っていると、
不思議と美しいものや面白いものを探すようになります。イエスさまが言われた「鳥を見なさい
」「花を見なさい」という視点のスイッチが入るのです。
イエスさまは、神がどのように一つひとつの命を愛し養っているのかを、よく見つめ、学びな
さいと招いているのです。
体育館のコートの中の「わたし」にフォーカスを合わせると「自分はだめだ」としか思えない
。でも視点を変えて見ると、神様の愛に養われた世界がある。イエスさまは、神の愛にフォーカ
スを合わせ、シャッターを切るような歩みをするように勧めているのです。
この世界は本来、私たちを評価し裁く場所ではないはずです。そうではなく、神が一人ひとりの
命を愛されていることを学ぶ場所なのです。
●「代わりのいない命 ― 賛美とδιαφέρω」
しかし、現実の中でわたしたちには、苦しみや困難があります。しおれて枯れていく花を路上
で見ることがあるのも事実です。ときには神の愛を信じることができなくなって、祈る言葉も見
つからないことがあります。
尚絅での15年間の働きの中でも、そういうことがありました。在学中に病によって亡くなっ
た3人の生徒がいました。そうごくん、あみさん、ねねさんという名前があった一人ひとりです
。「神様どうしてですか」としか思えないような、悔しくて悲しい出来事で、思い出すと心が痛
みます。しかし3人を失った経験と痛みと同時に、決して消えない確信も得ました。
それは、「あなたの代わりはいない」ということです。だれもあなたの代わりにはなれない。
あなたの人生は、ほかの誰かで置き換えられるものではない、ということです。
風を感じるとき、空を見上げるとき、私は神さまの存在とともに、亡くなった三人が神さまの
もとで生きている温もりを感じることがあります。彼らの命は消えてしまったのではなく、神の
手の中に移されたのだと信じています。そして今ここに生きている私たちも、同じ神の手の中に
あります。
イエスさまは続けて言います。
「あなたがたは鳥よりも価値があるではないか」
「価値ある」という言葉は、ギリシア語の「διαφέρω(ディアフェロー)」 です。英語の
difference、differentの語源で、「他と違う」とか「区別されている」ということです。他と違う
からこそ価値がある。決して「取り替えがきかない」ということです。。
つまりイエスさまは、「あなたは鳥よりは高級なのだ」と、鳥との比較によって私たちの価値を
定義づけているのではありません。
「あなたは、他の何者とも違う、取り替えがきかない存在なのだ」と言っているのです。
●「今日という一日を生きる ― 引き裂かれない心へ」
イエスさまは、マタイ6章の最後でこう言われました。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、そ
の日だけで十分である。」
ここで出てくる「苦労」-日本語の辞書で調べると「精神的、肉体的に力を尽くし、苦しい思
いをすること」と出てきます。そうすると「その日の頑張りはその日だけで十分。明日のことは
明日頑張ってね」というような理解になってしまいそうですが、これはイエスさまの言いたいこ
とではありません。
訳としては「苦労」というより「しんどいこと」とか「重たいこと」という方がもともとの言
葉には近いような気がします。だからイエスさまの言葉はこうも言えるのです。
「今日も生きるのは大変だよね。今日はそのしんどさだけで、もう十分だよ。それなのに明日の
ことまで今日に持ち込んで、心を壊しちゃいけないよ」
そんなこと言ってくれるのは、この世界でイエスさまぐらいしかいないかもしれません。
でもわたしたちを作られた神ご自身がそう言われているのです。
だから体育館のコートで固まり、実質なにもできなかったわたしにも、神様はこう言ってくれ
てくれていたのではないかと思うのです。
「球技が苦手なのによく頑張ってチャレンジしたね。」
「しんどかったと思うけどゲームが終わるまで、よくくじけないでコートに立ってたね」
●偽りの言葉ではなく、神の言葉の前で生きる
私たちは偽りの言葉に翻弄され、心を引き裂かないようにしたいと思います。
「みんなが普通にできることが、わたしにはできない。わたしはダメな人間だ。」
「こんなこともできない、わたしには価値がない。」
もしかしたらそのような言葉で自分のことを責めている方がいるかもしれません。しかし、こ
れは神の前ではすべて偽りの言葉です。自分や他人が勝手に作った基準で、自分の価値を決める
必要はありません。わたしたちは、評価や比較の言葉で心を満たさないようにしたいと思うので
す。
「あなたはあなた。あなたの代わりはいない。わたしはあなたを愛している」-その神の言葉で
心を満たしたいと思います。
この聖書のメッセージを分かち合うために、そして3人の生徒たちが生きた証として、曲を書き
ました。野々川先生のお気遣いで、歌詞を週報に載せていただきましたので、よろしければご覧
ください。
主なる神様、今日のあなたの御言葉に感謝します。風が吹くとき、鳥がさえずるとき、咲く花を
見つけたとき、一つひとつの歩みの中で、あなたの永久の愛に気づくことができますように。こ
の祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にささげます。アーメン。
