2026年3月15日仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録14章19節~28節

「主を信頼せよ」

牧師 野々川 康弘

 今日で、パウロの宣教旅行1は終わります。見られる方は、聖書の後ろにある地図の7、「パウロの宣教旅行1」を見て下さい。パウロたちは、シリアのアンティオキア教会から送り出されて、キプロス島に渡りました。それから小アジアに渡って、ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベで、宣教活動をしました。そして、デルベから再び、リストラ、イコニオン、ピシディア州のアンティオキアに行って、そこからキプロス島を通って、アンティオキア教会に帰っています。正直にいえば、デルベから、パウロの出身地タルソスによって、陸路から、アンティオキア教会に帰る方が遥かに近いのです。そうであるにも関わらず、そうしなかったのです。アンティオキア教会に帰るのが遅くなるにも関わらず、今まで宣教活動をしてきた全ての町で、再び宣教活動をして、アンティオキア教会に帰っているのです。

彼らがそうしたのは、彼らの宣教活動を通して、各町で生まれたキリスト者たちを励まして、力づける必要があったからです。その理由は、彼らの宣教活動に反発して、迫害する人たちが各町にいたからです。でも、それが意味していのは、彼らにも危険が及ぶ可能性が高いということです。今日の19節を見ますと、「ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」そう記されています。更にいうと、使徒言行録14章5節~6節にも、こんなことが記されていました。「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。」

皆さんなら、自分に石を投げてくる人たちがいる町へ、再び行くでしょうか。私は行きたくありません。でも、彼らは自分のことよりも、自分たちの宣教活動によって、キリスト者になった人たちのことが、気になっていたのです。

 皆さん、キリスト者になると、平安な日々が与えられるどころか、色々な問題を引き受けることが多くなるのです。苦難が多くなるのです。それは聖霊から、自己中心に生きることから、決別するように導かれるからです。主イエスの十字架の軛を負って、他者を生かす歩みに、導かれるようになるからです。

自分に平安が与えられること。自分に何かしらの御利益が与えられること。そういったことを望んでいる人たちは、パウロたちがしたことは、分からないと思います。先程、私は、「自分に危害を加える人たちがいる町なんか行きたくない。」そのようなことを申し上げました。おそらくパウロたちも、私と同じ気持ちだったと思います。でも、それ以上に、主イエスの十字架を思う気持ちの方が強かったのです。聖霊が内住しているということは、そういうことです。

私は前回、「キリスト者になったら、問題がなくなるどころか、問題が増す。」そう申し上げました。そうなる理由は、キリスト者の内には、自分とは別人格の聖霊が内住しているからです。内住している聖霊によって、十字架を証する道に、行かされるようになるからです。聖霊は、自己中心が強化されような、私たちが好む道を歩ませません。聖霊は、聖書の神を証する道を歩ませるのです。聖書の神を証する道とは、主イエスが、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」そう願った十字架刑を、私たちを神との関係に生かすために、引き受けて下さったことを覚えて、私たちが、「父よ、出来ることなら、この苦難を過ぎ去らせて下さい。」そう願う苦難を、隣人を生かすために引き受けることです。そのことを通して、隣人が神の栄光を見ることが出来るように、聖霊は私たちを導くのです。

 まさに、パウロたちがしたことは、そういうことだったのです。自分たちの宣教活動を通して、キリスト者になった人たちが、迫害の中にあっても、力づけられるようになるために、自分たちの危険を顧みなかったのです。

でもパウロたちは、自分たちの宣教活動を通して、キリスト者になった人たちを、どのように力づけたのでしょうか。そのことを紐解く鍵は、22節~25節にあります。新共同訳聖書では、22節の冒頭の言葉は、「弟子たちを力づけ」そういう言葉になっています。でも原文では、「弟子たちの心を力づけ」そう書かれているのです。

皆さん、弟子たちの心が力づけられるというのは、とても大変なことです。何故なら、弟子たちが、「力づけられた!」そう感じることが、出来なければならないからです。語る人が「力づけてやった!」そう思っても、それは無意味なのです。語ることを聴いている人が「力づけられた!」そう感じることが出来ないならば、「弟子たちの心を力づけた」ことにはならないのです。

でも、誤解しないで欲しいことがあるのです。それは、語ることを聴いている人が「力づけられた!」そう感じることが出来る言葉は、今、そう感じることが出来る「優しい言葉」と、後になって「力づけられた!」そう感じることが出来るようになる「思いやりの言葉」があるのです。なので、優しさと思いやりの両方が、大切なのです。

話が逸れました。話を聖書に戻します。パウロたちは、自分たちの宣教活動で、キリスト者になった人たちの心。それを力づけるために、今まで宣教活動をした、全ての町を通って、自分たちを送り出したアンティオキア教会へ帰ったのです。

では、パウロたちが、弟子たちの心を力づけたもの。それは一体何でしょうか。そのヒントが22節に記されています。そこを見ますと、「『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。」そう記されています。 

パウロたちが、キリスト者たちの心を力づけたもの。それは、どんなに多くの苦しみが襲ってきたとしても、信仰に踏みとどまることが出来るように導いたことです。

 でも、パウロたちは、「多くの苦しみが襲ってきたとしても、信仰に踏みとどまる気持ちをちゃんと持ちなさい!」そう諭したわけではありません。私たちは「信仰に踏みとどまる」ということを、「自分の信じる気持ちを維持すること。」そう思ってしまいがちです。でも、聖書が語る信仰の土台は、私たちの気持ちではありません。聖書が語る信仰の土台は、主イエスが、私たちのために成し遂げて下さった十字架・復活・昇天という救いの御業です。その救いは、実際の歴史の中で起こった事実です。その事実を信仰の土台にすること。それが「信仰に踏みとどまる」ということです。

私たちが、主イエスの救いの御業を、事実としてちゃんと受け止めること。それが、とても大切なのです。主イエスの救いの御業を、事実としてちゃんと受け止めてこそ、自分の気持ちに左右されることなく、十字架信仰に踏みとどまることが出来るようになるのです。主イエスが、救いの御業を成し遂げて下さったという事実。それが、キリスト者の心を力づけるのです。

私たちは、自分でいくら強い心を持とうとしても、自分の心を強くすることは出来ないのです。「信じる気持ちを強く持とう!」そう思えば思う程、疲れてきて、信じる心が弱くなっていくのです。私たちは本当に弱いのです。自分の気持ちを、自分で保つことは出来ないといって良いと思います。そんな時に大切になるのは、どういう事実があるのか。そのことに目を向けることです。主イエスが、救いの御業を成し遂げて下さった事実。それに目をむけてこそ、信仰に踏みとどまることが出来るようになって、私たちの心が力づけられて、強められるようになるのです。

パウロたちが、自分たちの身の危険を顧みることなく、自分たちが宣教活動をした全ての町に、もう一度立ち寄った理由は、そのことを教えるためです。

そのことを教えることで、彼らの心が力づけられて、迫害があったとしても、キリスト者として、ちゃんと歩んでいけるようになるためだったのです。22節を見ますと、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」そう記されています。

これは、彼らが迫害されることを想定して、パウロが言った言葉です。なので、2「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」という22節の言葉は、字義道理、「神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」そう考える必要はありません。

パウロが22節を通して言いたいことは、「キリスト者に起こる迫害を、主イエスの十字架の愛を深く知ることが出来るものとして、積極的に受けとめなさい。主イエスが苦しみながら、十字架に架かって下さった程、愛されている事実を知ること。それが、神の国に至る道である。」そういうことです。  

パウロはそのことを語って、迫害の中にいる、彼らの心を力づけたのです。でも、それだけではありません。彼らの心を力づけるために、教会ごとに長老たちを任命したのです。それが記されているのが23節です。そこを見ますとこう記されています。「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。」

 パウロたちが教会の人たちの心を力づけるために、断食して祈って、信仰の指導体制を整えたのです。その理由は、パウロたちは、一つの町にいつまでも留まっていることが出来なかったからです。彼らはまだ、全世界に、福音を告げ知らせなければならなかったのです。だから、彼らが去った後も、教会の人たちが、しっかり、信仰に踏みとどまることが出来るようになるために、信仰の指導体制を整えたのです。教会の、信仰の指導を担うために、教会ごとに、長老たちを立てたのです。23節の「長老たち」とは、私たちの教会でいえば、牧師や、役員のことです。初代教会の長老たちは、後に、牧師や、役員という務めに分かれて、教会の働きを担うようになっていきました。

 この当時の長老たちの使命は、つまり、今でいう牧師や役員の使命は、教会員一人一人が、自分の感情に左右されることなく、主イエスが成し遂げて下さった救いの御業。その事実にちゃんと立って、自分に与えられる苦しみをも、主イエスの十字架の愛を知る財源として、しっかり信仰に踏みとどまっていけるように、導いていくことです。

自分に与えられる苦しみを、神の国への道として、しっかりと受け止めていくように導くことです。そういう大切な務めが、牧師や役員に託されています。

3月の臨時総会の時に役員選挙があります。私もそうですが、役員になる皆さんも、自分の感情を土台とした信仰ではなくて、主イエスの救いの事実を土台とした信仰を持って、そこに全ての教会員が、踏みとどまることが出来るように導いていく務め。それを果たしていかなければならなりません。

だからこそ祈って、この人こそ、聖霊と神の知恵に満ちている。そのように神から示された人を、役員として選んで頂きたいと思います。更にいえば、私や、役員になる人たちのために祈って、役員会の指導に、従っていくことを、大切にして欲しいと思います。自分の感情を第一にして、役員会に従わないならば、信仰に踏みとどまっていることにはなりません。

自分の感情ではなくて、主イエスが、救いの御業を成し遂げて下さったという事実。そこに踏みとどまりましょう。更に言えば、私たちが教会を建て上げたのではなくて、主イエスが教会をお建てになられたという事実。そこに踏みとどまりましょう。そうでなければ、神によって心が力づけられることはありません。

初代教会の時代、長老を中心とした教会形成をするようにしたパウロの意図は、人間の感情ではなくて、主イエスの救いという事実、主イエスが教会を建て上げたという事実。そこにキリスト者一人一人がちゃんと立って、どんな苦難が押し寄せてこようとも、キリスト者一人一人の心が、神によって力づけられるためです。

現代の私たちの教会でいえば、役員会を中心とした教会形成をする意図は、人間の感情ではなくて、主イエスを土台とする信仰。その指導体制が整えられることで、どんな苦難の中にあっても、主イエスの体である、仙台青葉荘教会が保たれていくことで、教会員一人一人が神によって力づけられるためなのです。

主イエスの体である仙台青葉荘教会が保たれるという意味は、どんな苦難が襲ってこようとも、どんなに私たちの心が荒れ果てようとも、神が日本基督教団に属するホーリネスの群の仙台青葉荘教会を、お建てになった事実にちゃんと私たちが踏みとどまって、仙台青葉荘教会の教会員である私たちが、日本基督教団と、ホ群にちゃんと留まることです。更にいえば、神によって仙台青葉荘教会の教会員になるように導かれた私たち一人一人が、どんな苦難の中にあろうとも、仙台青葉荘教会に留まること。そのことによってこそ、神から本当に、私たちの心が力づけられて、歩むことが出来るようになるのです。

自分の感情を優先する信仰や、神を神としない信仰は、神からの力づけは与えられません。何故なら、自分の感情を優先する信仰や、神を神としない信仰は、自分を神としているからです。

苦難の中にあっても、神の力づけが、キリスト者一人一人の心に与えられるようになるために、パウロたちは、主イエスの福音を宣べ伝えると共に、教会の指導体制をも整えたのです。

そして、パウロが、宣教旅行1を終えるにあたって、最後にしたことは、23節に記されていることです。そこを見ますと「彼らをその信ずる主に任せた。」そう記されています。

パウロは、全ての町から去っていくと時に、教会を神に任せたのです。教会は、教会の指導を託されている長老たちも含めて、神に委ねられる必要があるのです。

そういう意味で、私は中島豊先生や、和子先生を尊敬しています。先生たちは、本当に全てを神に委ねています。自分も隠退したら、先生たちのようでいたい。そう思わされています。

洗礼を受けて、キリスト者になるとは、自分が自分のものでなくなって、主イエスのものになるということです。「神などいない!」そう思って、神を無視して歩んでいた古い自分は死んで、神との関りが回復して、神の言葉に生かされる新しい自分に変わるのです。キリスト者とは、神の言葉に生きる人たちのことです。

神の言葉に生かされるべき一人一人を、自分が握りしめていては、福音宣教の意味がありません。福音宣教は、人々を、神と繋げていく働きです。

だからパウロは、宣教旅行1を終えるにあたって、自分たちの宣教活動で生み出した全ての教会を、最後に神に委ねたのです。

余談になりますが、このことは心理カウンセラーと似ています。私がカナダで習ったことは、自分がカウンセリングをした相手とは、3年間は、友達になってはいけないということです。その理由は、心理カウンセラーの支援は、自分で自分の問題を、乗り越えることが出来るようになるための支援だからです。

教会の牧会にあてはめていえば、牧師は隠退する際に、自分が牧会していた教会を、神に委ねなければ、キリスト教ではなくて、牧師教になります。牧師教になるのであれば、牧師の働きをしていた意味がありません。

パウロたちは、自分たちに依存させないために、宣教旅行で建てあがった全ての教会と、全ての教会の長老たちを、神に委ねたのです。

 神を信頼して、自分の感情も、自分が関わってきた人たちも、自分が今関わっている人たちも、お委ねするのです。そうすることで、私たちの人生や、教会の歩みは、本当に主イエスの救い取り扱われて、いろいろな苦しみの中にあっても、信仰に踏みとどまって、完全に神の国に入るその時まで、心が力づけられて、歩んでいけるようになるのです。

そのことを心に刻み込んで、今週一週間、皆さんと共に歩んでいきたいと思っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。