2026年2月28日 仙台青葉荘教会礼拝

ルカによる福音書23章26節-31節

「礼拝とは」

牧師 野々川康弘

 今日の箇所は、主イエスが十字架にお架かりになるために、ゴルゴダの丘に向かっていく最中に起こったこと。そのことが記されています。

 今日の箇所を見ますと、キレネ人シモンが登場しています。この人は、マルコによる福音書15章21節によれば、「アレキサンデルとルポスの父」であったことが分かります。彼はかつて、ギリシャの都市キレネに住んでいた人です。キレネは、今でいうリビア東部のことです。

 彼は、パレスチナに移住していました。彼はキレネ人帰国移住者の会堂に集っていた人だったのです。そんな彼が、どうして、主イエスがゴルゴダの丘に向かっていく最中に、出くわしたのかは分かりません。おそらく、たまたまそこにいたのだと思います。そんな彼が、みんなから選ばれて、主イエスが担いでいた十字架を背負わされたのです。

それは、39回、鞭で打たれていた主イエスは、もう十字架を担ぐ力が残っていなかったからです。当時の鞭には、動物の尖った骨が鞭の先についていました。紀元3世紀に活躍していた歴史家エウスビオスは、「鞭打たれた人は、内臓が飛び出しかねない」そう証言しています。当時、十字架にかかる前に、鞭で打たれたことが原因で、命が絶えてしまう人が沢山いたのです。まだ息があったとしても、出血多量で死ぬ人もいました。

そんな鞭打ちをされて、主イエスは、もう十字架を担ぐ力が残っていなかったのです。だから、たまたまそこにいたキレネ人シモンが選ばれて、主イエスが担いでいた十字架を背負わされたのです。

27節を見ますと、「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れをなして、主イエスに従った」そう記されています。この民衆は、ルカによる福音書23章13節に記されている民衆です。そこを見ますと、ポンテオピラトが、呼び集めた民衆だったことが分かります。

ピラトは、何とか主イエスを釈放するために、民衆を呼び集めたのです。彼が民衆に期待していたのは、祭司長たちや議員たちに反対して、イエスの釈放を訴えることでした。 

でも民衆は、主イエスではなくて、バラバを釈放することを求めたのです。「主イエスを十字架につけろ」そう叫んだのです。その民衆の求めによって、ピラトは主イエスに死刑の判決を下しました。

そう考えますと、婦人たちが嘆き悲しんでいた意味が分からなくなります。何で婦人たちは嘆き悲しんでいたのでしょうか。

実は聖書の時代、泣き女という職業がありました。泣き女とは、葬儀の時に雇われて、号泣きする女性のことです。

つまり、27節の嘆き悲しむ婦人たちは、祭司長や議員たちによって雇われていた泣き女だったのです。ということは、彼女たちの「嘆き悲しみ」は、心からのものではなかったのです。そう考えるなら、28節で、主イエスが彼女たちに対して、「エルサレムの娘たち」そういっていることがうなずけます。

彼女たちは、エルサレムで雇われた泣き女だったが故に、ガリラヤからずっと、主イエスに従って来た人たちではなかったのです。ガリラヤからずっと、従って来ていた婦人たちは、ルカによる福音書23章49節に記されている通り、本当に主イエスの十字架を嘆き悲しんでいたからこそ、遠くに立って主イエスのことを見ていたのです。主イエスに、心から従っていた人たちは、自分たちが、主イエスと同じようにされることが怖くて、主イエスに近づくことが出来なかったのです。更に言うと、遠くに立って、主イエスのことを見守っていたような人たちが、言葉を交わせるぐらい、主イエスの近くにいることはとても不自然です。

でもルカは、主イエスを嘲るために、主イエスの側にいた人たちのことを27節でこう表現しています。「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、主イエスに従った。」

「主イエスに従った。」この表現は、主イエスをとても慕っていたような表現です。更にいえば、「従った」という言葉。その言葉が使用されてはいないものの、キレネ人シモンも、人々から選ばれて、嫌々ながら十字架を背負わされて、主イエスに従ったのです。

シモンも、民衆も、泣き女たちも、主イエスの弟子ではありません。そんな人たちが、主イエスに「従った」というような表現は、とても不自然です。でもルカによる福音書の著者ルカは、敢えてそういう表現を用いているのです。そこに、この福音書を書いたルカが、どのように、信仰のことを見ているのか。そのことが現れています。

キレネ人シモンは、たまたまそこに居合わせただけです。たまたま近くにいたというだけで、彼は、負いたくもない十字架を無理矢理背負わされたのです。そんなシモンの姿に、ルカは、主イエスに従うキリスト者の姿を見ていたのです。ルカによる福音書9章23節で、主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」そういっておられます。つまり、主イエスは、「自分の思いを捨てさせられて、別に負いたくもない自分に与えられた十字架を背負って、主イエスに従う人が、キリスト者である。」そういっておられるのです。

この福音書の著者ルカは、「そういう人が、主イエスに従う人なのだ。」そう思っているのです。ルカは、キレネ人シモンに、そういうキリスト者の姿を見ていたのです。

私たちもある意味で、自分の思いを捨てさせられて、別に負いたくもない十字架を、背負わされたのではないでしょうか。

私たちは、「よし。これから十字架を背負って、主イエスに従っていこう!」そう決断して、教会に来たのではないと思います。おそらく色々なことがきっかけとなって、教会に集うようになって、神を無視している罪を思い知らされて、洗礼を受けて、キリスト者になったのではないでしょうか。「自分の意志によってではなくて、神に選ばれて、主イエスに従うようになった。」そういう感覚が強いのではないでしょうか。

キレネ人のシモンも、そんな感じで、主イエスに従うキリスト者になったのです。最初の方で申し上げました通り、マルコによる福音書15章21節は、キレネ人シモンのことを、「アレキサンデルとルポスの父」そう書き記しています。そのことを取り上げて、多くの聖書学者たちは、「そのように詳しく書いているということは、シモンが後に教会の一員になった証拠である。」そう言っています。私もそう思います。

つまりシモンは、主イエスの十字架を無理矢理背負わされたことがきっかけとなって、後に、自分が神を無視する罪や、自己中心の罪のために、主イエスが十字架で死なれたことを信じて、主イエスに従うキリスト者になったのです。

そうすると、益々疑問になることは、ルカは、民衆と、泣き女のどういう所に、主イエスに従うキリスト者の姿を見ていたのかということです。そのことを知るためには、28節~31節のことを知る必要があります。28節~29節を見るならば、主イエスが、婦人たちの方を振り向いて、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」そう言われたことが、記されています。

そして、そう言われた理由が29節~31節に記されています。そこに記されているのは、「あなたがたが本当に嘆き悲しんで、泣かなければならないのは、私の苦しみや死ではない。あなたがた自身と子孫たちのために、嘆き悲しんで、泣くべきだ。」そういうことです。

神の民であるイスラエルの女性たちが、子供を産んで、育てることが出来るのは、神の祝福の印です。神に従うならば、霊的な意味でも、実際的な生活という意味でも、祝福されるのです。

でも、神の逆鱗に触れて、神に裁かれるならば、話は違ってきます。子を生めないこと、子を育てないことが幸いなのです。それは、霊的な意味でも、実際的な生活という意味でも、廃れるからです。だからこそ、主イエスは29節で、「『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」そう言われたのです。これは、民衆や泣き女に対する警告です。そして、そういう警告をした後で、主イエスは30節のことを語られたのです。

30節は、ホセア書10章8節の引用です。ホセア書10章8節は、「神の裁きが下る時、山や丘が、自分の上に崩れてきて、生き埋めにされた方がましである。そう思うような苦しみが襲ってくる。」そういったことを言っています。そういったことを30節の言葉を通して、民衆と泣き女に対して、主イエスは警告したのです。そのことを警告した上で、31節で、「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」そう言われたのです。

31節の「生の木」とは、主イエスのことです。そして、「枯れた木」とは、民衆や泣き女たちのことです。

つまり主イエスは、「『生の木』である私でさえも、神の裁きが自分に下る時、山や丘が、自分の上に崩れてきて、生き埋めにされた方がましである。そう思うような苦しみが襲ってくる。そうであるならば、『枯れた木』である、あなたたちは、それに耐えられるわけがない。」そう言っておられるのです。

そのことを通して、主イエスが言わんとしているのは、「あなたがたが本当にしなければならないのは、私の苦しみと死に同情するふりをして、嘆き悲しんで、涙を流すことではない。そういう暇があるならば、神を無視する罪に対しての神の怒りや、神の裁きを恐れて、神を無視する罪をちゃんと悔い改めて、神の赦しを求めなさいい。」そういうことです。

ルカによる福音書の著者ルカは、民衆や泣き女たちが、イエスの十字架をまるで他人事のように考えて、バカにしていることに対して、主イエスの警告を受けているところ。そこに、主イエスに従うキリスト者の姿を見ているのです。

つまり、ルカによる福音書の著者ルカは、主イエスに従うキリスト者は、主イエスの十字架を、まるで他人事のように考えて、バカにしていることに対して、主イエスの警告を受けている人たちだと見ているのです。

今日の箇所に出てくる民衆や、泣き女たちは、ユダヤ教徒です。異邦人ではありません。そうであるにも関わらず、旧約聖書を解き明かしている主イエスのことを、神であることを認めることが出来なかったのです。そこで問われるのは、私たちは、主イエスの再臨があった時に、本当の主イエスか、偽預言者か、ちゃんと区別がつく自信はあるかということです。

ユダヤ教の人たちは、神の独り子・主イエスとの出会いが与えられていたのです。でも、その御方を、神と認めることが出来ない人がとても多かったのです。その理由は、神の言葉である旧約聖書ではなくて、自分が信じる旧約聖書を信じていたからです。

これは、他人事ではありません。私たちもそうなる可能性があるのです。たとえ主イエスに従うキリスト者であっても、民衆や泣き女たちがそうであったように、神の言葉である聖書ではなくて、自分が信じる聖書観に生きてしまいがちなのです。それ程、私たちは自己中心なのです。

私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死を、私たちの生きづらさから救い出してくれる愛である。その程度のものに考えてしまいがちです。それは、自分の生活に潤が齎されることばかりを考えているからです。確かに、自分の生活に、潤いが齎されることを願うことは悪くありません。でも、主イエスの十字架の苦しみと死は、第一義的には、神を無視する罪、私たちの自己中心の罪を赦すためのものなのです。

自分たちの思いを中心にして歩んでいた民衆や、泣き女たちは、主イエスの十字架の苦しみと死を、軽く見ていたのです。自分たちには必要のないもの。自分たちの聖書観とはちがうもの。そう考えてバカにしていたのです。

私たちも、主イエスの十字架を軽視して、主イエスの十字架のバーゲンセールをしがちです。私たちも、神を無視する罪や、自己中心の罪の身代わりである主イエスの十字架を知らなくても、洗礼を受けて神の子になれば良い。洗礼を受ければいずれ分かってくる。そう思ってしまいがちです。でも、キリスト教信仰は、私たちが神を無視して歩んでいる罪や、自己中心の罪の赦しである十字架を、神に知らされることです。

それを信じないと、霊的な意味でも、実際的な生活の意味でも、神の祝福に与ることが出来なくなるという警告を、ちゃんと毎回、真摯に受け止める人が、主イエスに従うキリスト者なのです。

主イエスの十字架の苦しみと死を、自分が生きやすくなるための道具にしてはいけません。主イエスの十字架の苦しみと死は、私たちが、神を無視したり、自己中心に歩んだりしてしまう結果として、起こったことなのです。そのことを知らされてこそ、私たちは、その主イエスの十字架によって贖われて、神を無視する罪や、自己中心に歩む罪から解放されて、主イエスに従って、主イエスのことを喜んで、主イエスのことを賛美しながら、歩んでいくことが出来るようになるのです。それこそが、私たちの本当の慰めなのです。

 今は受難節です。私たちが神を無視する罪や、自己中心の罪の身代わりとなるために、主イエスが十字架の死という苦難を負って下さったことを感謝して、皆さんと共に歩んでいきたいと思います。

 礼拝は、私たちが慰められる言葉が与えられて、自分が生きやすくなる手段ではありません。礼拝は、私たちが神を無視する罪や、自己中心に生きる罪を赦して、神を中心に生きていく命に、いつも導いて下さる神に、感謝を捧げることなのです。そういうことを、私たちがしていったならば、その結果、神から大きな祝福が、信仰共同体である教会に、与えられるようになるのです。

 今日は、聖餐に与ります。私たちが、神を無視してしまう罪や、自己中心に陥る罪のために、主イエスの肉が裂かれたこと、血を流されたこと。そのことを、心に深く刻み込みたいと思います。

最後に一言お祈りさせて頂きます。