2026年2月15日 仙台青葉荘教会礼拝説教

使徒言行録13章42節~52節

「永遠の命を得よ」

牧師 野々川康弘

 前回、私たちは、パウロが使徒として最初に語った説教を、皆さんと共に学びました。その説教を聞いた人たちは、42節に記されている通り、次の安息日も、前回と同じ説教をしてくれるように頼んだのです。そうしましたら、次の安息日の礼拝で、そのことを頼んだ人たちが、自分の友人たちを連れて来て、さらに多くの人たちが、礼拝に集うようになったのです。そして、礼拝が終わった後も、パウロの聖書の教えを聴くために、多くのユダヤ人と、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが、パウロについてきたのです。だからパウロは、その人たちに対して、「神の恵みの下に、生き続けるように勧め」たのです。

パウロのいう「神の恵み」は、イスラエルの民は、完全な神の導きの御手の中に置かれていて、イスラエルの民の内実も、神の義に相応しい人に、神の御力によって変えられていく恵みのことです。

それは、前回のパウロの説教の内容を見れば明らかです。前回の説教で、パウロの説教の内容を皆さんと共に学びました。なので、パウロの説教の内容は、YouTubeで2月1日の説教を聴いて頂ければと思います。

とにかく、パウロのいう神の恵みは、私たちが神に背を向ける罪を赦して、神との関係に生かして、神との関係の中で神の主導の下、神の子らしく整えていって下さる神の導きのことです。

そういう恵みが、主イエスの十字架・復活・昇天によって成就して実現している。そういう神の恵みを、パウロは説教として語ったのです。

アンティオキアの会堂に集まっていた人たちは、そういう神の恵みをこれまで聴いたことがなかったのです。それどころか、神の律法に違反して、神の怒りによって裁かれないためにどうすれば良いのかという口伝律法を、会堂でいつも聴かされていたのです。

だから、多くのユダヤ人や、ユダヤ教に改宗した異邦人は、礼拝が終わった後も、熱心にパウロの説教の意味を聴いていたのです。

実は44節の、「次の安息日になると」という意味は、パウロたちがアンティオケアで宣教を始めてから、3回目の安息日のことです。

1回目の安息日は、パウロが使徒として初めてユダヤ人の会堂で説教を語った時でした。2回目の安息日は、次の安息日にも同じ説教をしてくれるように頼まれて、安息日に同じ説教を語った結果、礼拝が終わっても、多くのユダヤ人や、ユダヤ教に改宗した異邦人が、パウロについてきた時のことです。ですから、44節に記されている安息日は、パウロたちがアンティオケアに来てから3回目の安息日のことなのです。

その3回目の安息日には、「ほとんど町中の人が、主の言葉を聞こうとして集まって来」ていたのです。

パウロが語った説教は、ユダヤ人の会堂に集っていた、多くのユダヤ人や、ユダヤ教に改宗した異邦人だけではなくて、アンティオキアの町に住んでいる多くの人たちの関心をも呼び起こしたのです。

でもそれ故に、45節に「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」そう記されている通り、ユダヤ人たちや、ユダヤ教の指導者たちに妬まれたのです。

実は、45節の口汚くののしって、パウロの説教に反対したユダヤ人たちは、パウロについて来て、話を聞こうとしていた43節のユダヤ人たちと別の人たちではありません。聖書には、43節と45節のユダヤ人の区別を示している言葉は全く見当たりません。それどころか、次の46節で、「あなたがた」と言っているパウロの言葉は、全てのユダヤ人を指して言っている言葉なのです。

だから多くの聖書学者は、「最初は熱心にパウロの言葉を聴いていたけれど、突然手のひらを返して、口汚くののしるようになった。」そう解釈しています。

ユダヤ人たちや、ユダヤ教の指導者たちが、そうなってしまった理由は、パウロの説教に、多くのアンティオキアの人たちが興味を持って聴いたからです。

最初は純粋に、パウロの説教を聴くことが出来ていたのです。でも、パウロたちを妬みはじめて、パウロたちが嫌いになった途端に、パウロの説教に腹が立ってきたのです。最初は、パウロが説き明かした旧約聖書の話を、喜んで聴いていたのです。でも、パウロたちに腹が立ってきた途端に、神の律法を守ろうとしても守れない場合、神に裁かれないためにどうしたらよいのかという取り組みを、一生懸命していることを、否定しているパウロの説教に腹が立つようになったのです。

パウロたちを受け入れていた時は、今まで、自分たちが考えたこともなかった聖書解釈を喜んでいたのです。でもそれが、自分たちをバカにしているという捉え方に、変わってしまったのです。

これは他人事ではありません。私は昔、どんなに牧師が聖書を忠実に解き明かしていても、牧師が嫌いになった途端に、牧師の聖書の解き明かしに耳を傾けなくなることがありました。ひょっとしたら、私以外にも、あんがいそういう方がおられるかもしれません。人間は、「聖書に忠実に生きよう。聖書を自分の生活の物差しにしよう。」そういう思いが弱いのです。すぐに人に左右されるのです。

人と聖書が教えていることを区分けして、考えることが出来ないのです。

実は、パウロもそういう体験をした人なのです。パウロがキリスト者のことを嫌いだった時、ステファノが語った神の救済の歴史を語る説教を、理解するどころか、それを語ったステファノが殺されることを喜んだのです。彼が語った説教を鼻で笑っていたのです。でも、自分がキリスト者になって、自分の思いから離れて、聖書に耳をちゃんと傾けるようになった時に、ステファノと同じ説教を語る自分になっていたのです。

人間は、自分の思いを空にして、聖書に耳を傾けることがなかなか出来ません。それ程、人間は自分の思いを中心に生きている罪人なのです。

パウロは、アンティオキアに至るまでの自分の宣教体験を通して、自分がファリサイ派だった時の実体験を通して、主イエスの救いに多くの民衆が耳を傾けだしたら、ユダヤ人たちや、ユダヤ教の指導者たちやがそれを妬んで、彼らが主イエスの救いに結びつく説教を、嫌いになることが十分に分かっていたのです。

だからパウロは、43節で、「神の恵みの下に、生き続けるように勧めた」のです。 

主イエスの救いにしっかり留まり続けるのは、実はとても大変なことなのです。

多くのユダヤ人や、ユダヤ教の指導者は、パウロたちを妬みはじめたら、もっというと、民衆に自分たちは認められていないと思って拗ねだしたら、主イエスの救いの恵みの下に生き続けることを止めて、自分たちの信念に生きるのを壊そうとする、主イエスの救いを否定するようになったのです。

それが意味しているのは、主イエスの救いの恵みに自分の心を明け渡すことを止めて、自分の思いに生き出したなら、神に敵対する人に変わってしまうということです。

主イエスの十字架・復活・昇天という救いの御業は、そういう人間の在り方を罪に定めて、真っ向からそれを打ち砕くものです。

主イエスの救いは、自分の自己中心の罪を、素直に認める人にはとても優しいのです。でも、自分が認められたい思いが強かったり、自分の誇りを大切にしたいと思ったり、自分の信念を大切にしたいと思ったりする人には、主イエスの救いは、自分の道を塞ぐ大きな壁になるのです。その結果、主イエの救いの話に抵抗したり、口汚くののしったり、心の中であざ笑いたくなるのです。主イエスの救いが語られる時、どうしてもそういう抵抗をしたくなる人たちが出て来るのです。

主イエスの自己中心の罪からの救いを信じて、その下に生きて、自分を中心として生きるのではなくて、主イエスを中心として生きるのか、それとも自分の誇りを守って、自分を中心として生きるのか、私たちはそういった二者択一を、礼拝の度にいつも迫られるのです。

パウロの主イエスの救いの話しに、アンティオキア教会の人たちの関心が集まったことを妬んだユダヤ人たちや、ユダヤ教の指導者たちは、主イエスの救いに心を閉ざして、自分の今までの在り方や、自分の力に依り頼むようになったのです。彼らの心が石のように固くなってしまったのです。そんな彼らに対して、パウロは勇敢に46節以下のことを語ったのです。

46節の「勇敢に」という言葉は、使徒言行録4章31節にも記されていました。そこを見ますと、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」そう記されていました。原文を見ますと、使徒言行録4章31節の「大胆に」という言葉は、46節の「勇敢に」という言葉と、同じ言葉が使われています。

4章31節では、キリスト者たちが聖霊に満たされて、「大胆に」神の救いを語り出したことが記されていました。パウロたちもその時と同じように、聖霊の働きによって、パウロが語る神の救いに反対し出した人たちに、「勇敢に」主イエスの救いを語ったのです。

それはまさに、人間の思いや意志によっては語り得ない、神の深い御心を告げる言葉でした。その言葉こそ、46節~47節のパウロの言葉です。

そこを見ますとこう記されています。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために』。」

この46節~47節が言わんとしていることは、「主イエスの救いは、先ずはあなたがたユダヤ人に示された。主イエスは、ユダヤ人としてお生まれになって、ユダヤ人の間で活動なされた。主イエスの十字架・復活・昇天の救いの恵みに、真っ先に与るべく招かれていたのは、あなたがたユダヤ人であった。しかしあなたがたは、主イエスが、御自分の救いを語ることで、人気者になったことを妬んで、主イエスの救いを拒んだ。そのことによってあなたがたは、神の救いを得るに値しない者になった。だから私たちは異邦人の方へ行く。異邦人たちが、あなたがたが与ることができない救いに与っていくためだ。」そういうことです。

つまりパウロは、「これからは、わたしたちは異邦人が救われることに期待する」そう言っているのです。でもその方向転換は、パウロたちが勝手に決断したことではありません。これは、神の御心です。パウロはそのことを、47節で旧約聖書を引用して語っています。47節でパウロは、「主はわたしたちにこう命じておられるからです」そう語った後に、イザヤ書49章6節の終わりの言葉を引用して、「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために」そう語っています。

パウロは、47節で、イザヤ書49章6節の言葉を引用した理由は、「ユダヤ人たちから異邦人たちへの方向転換は、自分たちの勝手な決断ではなくて、旧約時代からの神の御心だった。」そういうことを、ユダヤ人たちや、ユダヤ教の指導者たちに伝えたかったからです。

47節のパウロの言葉を聴いて、異邦人たちは大いに喜びました。その証拠が48節です。そこを見ますと、「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した」そう記されています。

その一方で、その話を聞きながら、ユダヤ人たちはひどくパウロたちを罵ったのです。その姿は、異邦人たちが喜びと賛美に満たされたことと全く真逆な光景です。

これは、自分が認められること、自分の誇りが守られること、それを自分の中心に据えて歩もうとする人と、パウロが教えている神の恵みを、そのまま受け入れて、その恵みを自分の中心に据えて歩もうとしている人の違いです。

とはいえ、私たちが何を自分の中心に据えて歩むのか、それは、私たちが選択することでも、決断することでもありません。その証拠に、48節後半にはこう記されています。「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」

つまり、神の恵みをそのまま受け入れて、その恵みを自分の中心に据えて生きる歩みに入るのは、主イエスの救いの御業を信じて、洗礼を受けて、救われるように神に定められている人なのです。

でもそのように言えば、「神がある人を救いに定めているということは、自分が生まれる前から、神によって救われるか、滅びるか、既に定められていることになる。そうであれば、自分たちが努力するなんてことは無駄になる。もっといえば、人が罪を犯して、神に救われないことも、神の定めになる。そうであるならば、人間が神に背を向ける罪の責任は人間にではなくて、神にあることになる。そうであれば、神に救いを求めることも、神を信じて生きることもバカバカしい。自分の好き放題生きれば良い。」そう反発したくなると思います。

でも私たちは、よく注意をして、48節後半の言葉を見なければなりません。そこには、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」そう記されているだけです。「永遠の命を得るように定められていない人は滅びた」そんなふうには記されていません。

48節後半が言わんとしているのは、信仰に入ること、救いに与ることは、一体どのようにして起るのかということです。

信仰に入ること、救いに与ることは、私たちが自分の意志で、信じる決断をするからでしょうか。もしそうであれば、私たちの救いは、私たちの信じる決断にかかっていることになります。自分が神を、いかに信じているかという自分の感情で、自分の救いが左右されることになります。でも、主イエスの救いを信じて、洗礼を受けて、教会に属している私たちが感じているのは、「自分は主イエスの救いを信じる決断をしたけれど、そういう決断ができたのは神の導きだった。」そういうことではないでしょうか。

私たちがキリスト者になったのは、いろいろな思想や、宗教を、沢山学んで、神を求め続けて、主イエスの救いを信じる決断に至ったなんてことは無いと思います。私たちが教会の礼拝に出席するようになったのは、多くの場合、ふとした偶然です。

親や家族がキリスト者だったとか、自分がキリスト教の学校に入ったとか、友人に誘われたとか、それこそ、教会を通りがかった時に、ちょっと入ってみようと思ったとか、教会で行われた、親族や知人の結婚式や告別式に参列したとかです。

自分で求めたと言うよりは、たまたまそういう機会が与えられたという場合が多いのです。それを世間では偶然と言います。でも、信仰の目から見たら、それが神の導きです。自分が何らかの意志を持って決断するよりも前に、神がそのように導いて下さっていたのです。

今この礼拝に集っている私たちは、皆、そういう神の導きを受けています。それがなければ、自分は礼拝をしていない。信仰を得ていない。そう誰しもが思っているのではないでしょうか。

ちょっと間違ったならば、自分は信仰を否定する道に進んでいた。そういう思いを持っていないキリスト者は、誰一人いないと思います。

私たちが主イエスの救いを信じて、救いに与ることは、私たちの決断の占める割合よりも、神の導きによる割合の方が、実ははるかに大きいのです。パウロの宣教によって、信仰に入った異邦人たちの喜びは、まさにそこから来ています。

異邦人たちは、イスラエルの民になるように招かれているユダヤ人ではありませんでした。それ故、神を愛し、隣人を愛する律法は与えられていなかったのです。そんな彼らが、主イエスの救いに与って、主イエスの父なる神に対する義が与えられて、永遠に、神と神を信じる人たちと生きることが出来る命を受け継ぐ者にされたのです。

そして逆に、イスラエルの民になるように、招かれていたはずのユダヤ人たちが、神を愛し、隣人を愛する律法を、与えられていたはずのユダヤ人たちが、神に背を向ける罪からの救いを成し遂げられた主イエスを否定して、主イエスをののしって、神と、隣人を、永遠に愛して生きることが出来る命にあずかることが出来ていないのです。

そう考えるなら、神に選ばれるということは、絶対に大丈夫ということではないのです。そうではなくて、神に選ばれるということは、神が自分のような自己中心な罪人のために、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの恵みを与えて下さろうと定めておられたことが分かって、神が与えて下さっている聖霊の導きに自分の身を委ねて、神や、隣人を、主イエスが十字架にお架かりになったような愛で、永遠に愛して生きるように日々変えられていくことです。

神は主イエスの救いを通して、神や、隣人を、主イエスが十字架にお架かりになったような愛で、永遠に愛して生きるようになるために、私たちを選びに定めて下さっていたのです。

46節は、主イエスを拒んだユダヤ人たちや、ユダヤ教の指導者たちは、永遠に、主イエスが十字架にお架かりになったような愛で、神や隣人を愛する命が得られない者になっていることを語っています。それは、自分が民衆から認められることや、自分たちの信念を、自分の中心に据えて歩んでいるからです。

今日、神は、人に自分が認められることや、自分の信念を、自分の中心に据えて歩んでいくのか、それとも、主イエスの十字架・復活・昇天の救いを自分の中心に据えて、聖霊に導かれながら、主イエスのように、自分が十字架を背負う愛で、神や隣人を永遠に愛する世界に入るのか、それを私たちに聴いています。

そういった神のチャレンジが、私たちにあることが、神の選びといって良いと思います。その神の選びに、私たちはどう答えて生きていくのでしょうか。

今日の箇所に出てくるアンティオケアの町の人たちは、人に自分が認められることや、自分の信念を捨てて、神の選びを受け入れて、主イエスの十字架のような愛で、神や隣人を永遠に愛し、神がいつも賛美される道、神の栄光がいつも現れる道に入りました。その一方で、ユダヤ人たちや、ユダヤ教の指導者たちは、神の選びを拒否して、人に自分が認められることや、自分の信念を貫く道、神や人を永遠に愛するよりも、自分が愛されなければ神や人を切り捨てる道、つまり、神や人を殺す道に入ったのです。

そのことを思い巡らせながら、今週一週間、皆さんと共に歩んでいけたらと思います。

最後に一言お祈りさせて頂きます。