使徒言行録13章 13節~41節
「復活の命に導く神」
牧師 野々川康弘
今、私たちは、パウロの宣教旅行1を学んでいます。今日は、パウロたちがキプロス島から船出したところからです。彼らは、キプロスから船出して、パンフィリア州のペルゲという港、現在のトルコに、足を踏み入れました。その後、彼らは、ペルゲから北にある、ピシディア州のアンティオキアに入ったのです。ペルゲとアンティオキアの間に、山脈があります。その山脈を超えていくのは、かなり困難でした。彼らはその困難を乗り越えて、ようやく到着したアンティオキアで、安息日の礼拝に出席しました。前回も申し上げたことですが、彼らは行く先々で、まずはユダヤ人の会堂で宣教をしたのです。それはキプロス島でも同じでした。
安息日の礼拝は、15節に記されている通り、律法と預言者の書が朗読されていました。律法(トーラー)とは、創世記から申命記までのことです。預言者の書(ネビイーム)とは、ヨシュア記以降の歴史書と、預言書全体のことです。
当時、聖書は、律法と、預言者の書と、諸書だけでした。つまり、旧約聖書のみが、聖書だったのです。礼拝では、そこから朗読がなされました。それが今でいう聖書朗読です。15節を見ますと、聖書が朗読された後、会堂長たちがパウロたちに、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」そういう依頼をしたことが分かります。
15節の「励まし」という言葉は、「勧め」そのように訳すことが出来ます。聖書からの「勧め」をするのが、今の私たちが聴いている「説教」です。
当時は、色々な人が礼拝で説教を自由に語っていました。ルカによる福音書4章16節~27節を見るならば、主イエスも、ナザレのユダヤ人たちの会堂で、聖書から勧めをしていたことが分かります。
実は、アンティオキアにあるユダヤ人たちの会堂で、パウロの宣教が始まったのです。アンティオキアの会堂で、彼が聖書からの勧めをしたこと。それが、使徒言行録が伝えているパウロの最初の説教です。
その最初の説教で、パウロが最初に語ったのは、イスラエルの民の救済の歴史です。
17節を見ますと、「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し」そう記されています。これは、アブラハム、イサク、ヤコブという、イスラエルの最初の先祖たちのことです。その次にパウロが語ったのは、17節後半のことです。そこを見ますと、「民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました」そう記されています。これは、出エジプトのことです。そして、それに続く18節を見ますと、エジプトを出た後の、四十年間の、荒れ野での放浪生活のことを語っています。そして18節に続く19節を見ますと、カナンの地に定住したこと。そして19節に続く20節では、裁く士師たちが任命されたこと。そして20節に続く21節では、サウルが最初の王として立てられたこと。そして21節に続く22節では、サウル王が退けられて、ダビデが王とされたこと。そのことをパウロは語っています。
イスラエルの民の救済の歴史をなぞっていくパウロの説教は、7章のステファノの説教を思い起します。ステファノは、ユダヤの指導者71人で構成されている最高法院の裁きを受けている中で、イスラエルの歴史を通して、主イエスこそ救い主であるということを語りました。それが原因で、ステファノは、ユダヤ人たちに殺されました。パウロはその時に、その説教を聴いていたのです。でもその時は、ステファノに石を投げつけて、ステファノを殺した人たちの上着の番をしながら、ステファノの説教に怒って教会を迫害していたのです。
そんな彼が回心して最初に語った説教が、ステファノの説教を受け継ぐ説教でした。
そのことから分かることがあります。それは、説教はすぐに分かるものではないということです。説教は多くの場合、時を経て分かってくるようになるのです。説教を分かる神の時があるのです。説教の善し悪しは、語られたばかりの時は、大抵は分からないものなのです。
とはいっても、ステファノの説教と、パウロの説教は、若干違っています。
ステファノは、イスラエルの救済の歴史を通して、イスラエルの民が、いつも聖霊に逆らっていたこと。神の独り子・主イエスを殺したこと。そのことを厳しく追求したのです。彼が最高法院で裁かれている最中にです。でもパウロは、会堂での礼拝の中で、信仰の勧めとしてイスラエルの救済の歴史を語ったのです。パウロはイスラエルの歴史を通して、イスラエルの民に対する神の導きを語ったのです。神がいかにイスラエルの民を常に支えて導いていたのか。そのことを語ったのです。
17節~22節に記されている言葉に注目したいと思います。そこには、「わたしたちの先祖を選び出し」、「これを強大なものとし」、「導き出し」、「荒れ野で彼らの行いを耐え忍び」、「カナンの地では、7つの民族を滅ぼし、その土地を相続させてくださった」、「預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命した」、「四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけた」そういった言葉が記されています。これらの言葉の主語は神です。パウロは、17節~22節を通して、神がイスラエルの民を、導いておられたことを語ったのです。パウロは、「イスラエルの民の歴史は、神の導きの歴史だった。」そう語ったのです。
そしてその神の導きが、ダビデ王に及んだことで、主イエスの到来まで、神の導きが及んでいたことをパウロは語ったのです。
22節を見ますと、「それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』」そう記されています。「彼はわたしの思うところをすべて行う」。これは神が言ったことです。この意味は、「ダビデという人物は、私が、自分の独り子・イエス・キリストをこの世に遣わして、人間が私に背を向ける罪の身代わりとして、十字架に架けて殺そうと思っていることを叶える者である」そういう意味です。
つまり、22節のダビデに対する神の約束は、ダビデ個人にではなくて、ダビデを含む、ダビデ家の子孫にお与えになった約束であるということです。この約束を実現するために、神はダビデの家系から、主イエスを誕生させたのです。
その証拠に、23節を見ますと、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。」そう記されています。つまりパウロは、「イスラエルの民に対する神の導きの歴史が、ダビデとの約束に至って、そのダビデとの約束の故に、主イエスがこの世に来られて、私たちが神に背を向ける罪の身代わりとして、十字架に架けられて殺されたことが実現した。」そう語ったのです。簡単に言えば、パウロは、「主イエスの救いは、イスラエルの歴史と切り離すことは出来ない。」そう語ったのです。それが意味しているのは、と「旧約聖書と、主イエスの救いは繋がっている。」ということです。そのことを、アンティオケアのユダヤ人の会堂で、パウロは語ったのです。
それと同時に、イスラエルの救済の歴史と、主イエスの救いを結び付けているのは、神の導きや、神の約束であって、ユダヤ人の民族的伝統、宗教的伝統ではないということも、パウロは語っています。27節~28節を見ますと、「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました」そう記されています。つまりパウロは、27節~28節を通して、「ユダヤ人の民族的伝統や、宗教的伝統を担っていたユダヤ人の指導者たちは、その伝統に固執していた。だから、主イエスに至った神の導きや、主イエスによって成就した神の約束を、理解することができなかった。」そう語ったのです。そしてそれこそが、ステファノが厳しく追及していた、ユダヤ人たちの罪です。でもパウロは、そういうユダヤ人たちの罪も、神の導きの下に置かれていて、それによって神の約束が実現したことを語っています。その証拠に29節を見ますと、「こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。」そう記されています。これは、「主イエスが罪に定められて、ポンテオ・ピラトに引き渡されて、十字架に架けられて殺されたことは、「イエスについて書かれていること」の実現だった。」そういう意味です。そして続く30節で、パウロは、「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。」そう語っています。つまりパウロは、「神のイスラエルの民に対する導きの業は、ダビデに与えた約束を通して、主イエスがこの世に来られたことである。更に言えば、その主イエスが、イスラエルの民の迫害によって、十字架で殺されて、その殺された主イエスを、神が復活させたこと。それが、神のイスラエルの民に対する導きの業だった。」そういったことも語ったのです。そのことを語ったパウロは、「そういう人智を超えた、とても大きな神の導きの御業は、今もなお続いている。」そう語っています。そのことが分かるのが34節です。そこに、「もはや朽ち果てることがないように」そういった言葉が記されています。34節のポイントは、主イエスが死者の中から復活させられて、神の子主イエスは、「もはや朽ち果てることがないように」されたということです。
そして、36節~37節では、ダビデと主イエスとの対比がなされています。そこでのポイントは、ダビデは、神の計画に仕えた後、死んで葬られて朽ち果てた。でも、神の子主イエスは、復活させられて、朽ち果てることがない者となって、ずっと生きて働かれておられる。そういうことです。主イエスの復活を信じるとは、主イエスが、朽ち果ててしまったのでなくて、今もなお生きて、神の導きの御業を、なし続けておられることを信じることです。パウロはそこに、ユダヤの民の救済の歴史と、教会の歩みの連続性を見ています。キリスト教会は、ユダヤ民族の伝統を、受け継いではいません。そうではなくて、キリスト教会は神の救済の歴史を、今も生きて働いておられる主イエスを通して受け継いでいるのです。
そういう意味で、仙台青葉荘教会も、ユダヤ民族に対する神の救済の歴史とつながっています。古代のユダヤ民族と、現代を生きている、日本人である私たちは、人間的には何の連続性もありません。
でも、神が私たちのために、主イエスの十字架・復活・昇天という決定的な救いの御業を実現して下さったことを信じている私たちは、イスラエルの救済の歴史と繋がっています。旧約聖書で語られている、神の救済の歴史を受け継いでいます。
そうであれば、イスラエルの救済の歴史につながっている者として、旧約聖書で語られている、神のユダヤ民族に対する救済の歴史の中身をもっとよく知る必要があります。
ユダヤ民族の歴史は、罪が赦されてきた歴史なのです。
アブラハム、イサク、ヤコブという先祖たちは、色々な罪を犯した人たちです。そんな彼らを神が赦して、神の民、イスラエルの先祖としたのです。
エジプトの奴隷状態からの解放の後、四十年間、イスラエルの民が、荒れ野をさまよわなければならなかった理由は、彼らが神の御言葉に従わない罪のためでした。でも神は、荒れ野で彼らの神に背を向ける行いを耐え忍び、約束の地に導かれました。
裁く者たちの時代、つまり士師の時代も、イスラエルの民は、度々神に背きました。そのたびに敵に打ち負かされて、苦しめられました。そんな中、イスラエルの民を救うために、神が遣わしたのが士師たちです。士師の派遣は、神の罪の赦しの現れです。
サムエルの時代、イスラエルの民が人間の王を求めたのも、神の御心に反することでした。でも神は、彼らを赦して、サウルを、王として与えました。確かにダビデ王は、「わたしの心に適う者」そういう人として神に立てられました。そんなダビデが、どれ程大きな罪を犯したかは、バト・シェバ事件の話を読むだけで充分に分かります。それでもダビデは、神の大いなる赦しの恵みの下で、神の御計画に仕えたのです。
イスラエルの民に対する神の導きは、イスラエルの民が、神に背を向ける罪を赦して、なおも恵みを与えるという連続です。その神に背を向ける罪の赦しの導きの頂点が、主イエスをこの世に遣わしたことです。
主イエスの十字架の死は、神に全く背かない神の独り子が、神に背を向ける私たちの罪を全て背負い、その罪の償いを、成し遂げるためのものです。
父なる神が、十字架で死んだ主イエスを復活させたのは、神に背を向ける古い私たちが、主イエスと共に死ぬ決意をちゃんとするならば、神の御力で、神の子・主イエスを復活させたように、神の御力で、神の子となった私たちを、神と隣人との三位一体の愛を、育んで生きていく新しい命に、私たちを生かしていく保証です。
更にいえば、主イエスの十字架と復活を信じても尚、いつも神に背を向ける私たちを追っていくために、主イエスを昇天させて、主イエスの代りに、聖霊を私たち一人一人に与えて下さいました
神の導きは、そういった主イエスの十字架・復活・昇天の救済の御業によって成就して、その救済を成就した神の導きによって、尚も神によって導かれて歩んでいくことが実現したのです。それがパウロの説教の結論です。その証拠に、38節~39節を見ますと、「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」そう記されています。私たちが神に背をむける罪を赦すために、主イエスが十字架に架かって死んで下さったことを告げ知らされて、そのことを信じさえすれば、誰であっても、神の御力によって、神に背を向ける罪から切り離されていくようになるのです。だから、主イエスの十字架を信じる者は、神に義と認められるのです。この世に生きる全ての人がそうなること。それが、イスラエルの民の歴史を導かれた神の目的であり、成就なのです。
ところで私たちは、主イエスの復活を本当に信じることが出来ているでしょうか。私たちの究極の苦しみは死です。肉体的な死、神や人との関係の死です。でも神は、その死の支配を、既に打ち破っておられます。主イエスの復活を信じるとは、死の支配は、既に敗北しているということを知らされているということです。
そう考えるなら、私たちは自分に問わなければならないことがあるのです。それは、本当に復活した主イエスを、自分の中心に据えて歩んでいるか、それとも口では主イエスは復活したといいながらも、肉体の死を恐れたり、神や人との関係の死を恐れたりしていないかということです。神に背を向ける罪が赦されて、復活をするという福音は、死を、私たちがどう受け止めるのか。そのことを問いかけてきます。実は、38節の「だから兄弟たち、知っていただきたい」というパウロの呼びかけは、そういう問いになっています。
私たちが根本的に問われていることは、「あなたがたは何によって義とされるのか」ということです。義とされるという意味は、神の前に正しい者になるということです。別の言葉でいえば、神と隣人と自分と、無条件の愛の関係を育んでいく者になるということです。でもそれは、自分の力では不可能です。人間が生まれつき持っている死に対する恐怖は、自分の力ではどうすることも出来ません。自分が死なないため、自分が殺されないために、人の心を殺したり、人を実際に殺したりするのです。人間は、人の心を殺したり、人を実際に殺したりしてでも、自分が生きようとする自己中心の罪を、人類に罪が入ってきて以来、生まれもって持っているのです。それが「モーセの律法では義とされえなかった」という意味なのです。
私たちはモーセの律法を、もっといえば、自分を犠牲にしてでも、神や隣人を無条件で愛する律法を、自分の力や努力で、守っていくことは出来ません。だから私たちに必要なことは、主イエスの自己中心の罪の赦しと、復活という救いを、ただ信じることなのです。
私たちに必要なことは、自分が生き残るためには、神や、隣人を犠牲にしても構わないという罪を、自分の力では決して乗り越えることが出来ない罪人であることを認めることです。
自己中心の罪を、心底分からされてこそ、主イエスの十字架と復活に生かされるようになるのです。私たちの自分に対する絶望が、主イエスの十字架や復活との出会いとなるのです。そうなってこそ、イスラエルの民に対しての、神の罪の赦しの恵みを受け継ぐ教会に、加えられる人になるのです。
今朝、神は、そういう恵みを、私たちに与えていると告げています。そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと思っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
